ヴォルフの告白
夕暮れ。公爵邸の中庭。
セレスティアはベンチに座って、ナターシャが淹れてくれた紅茶を飲んでいた。蜂蜜を少し多めに入れてもらった。疲れた時は甘いものがいい。ナターシャはセレスティアの好みを全て知っている。
紅茶のカップを両手で包む。温かい。春の夕暮れは少し肌寒くて、カップの温もりが心地よかった。
中庭の隅に、ヴォルフが立っていた。
護衛騎士。三十代前半。灰色の短髪。鋭い緑の目。無口。いつも公爵邸の影に溶けるように立っている。セレスティアが外出する時は必ず三歩後ろにいて、帰宅すれば中庭の定位置に戻る。
セレスティアが物心ついた頃から、ヴォルフはいた。
「ヴォルフ」
「はい」
「お茶、飲む? 余分があるの」
「任務中です」
「中庭に立ってるだけでしょう。お茶くらい飲んで」
ヴォルフは一拍置いた。それから、ベンチの反対側に腰を下ろした。距離を保って。護衛としての距離。
ナターシャがもう一杯、紅茶を運んできた。ヴォルフの好みも知っている。砂糖なし、ミルクなし。
「ありがとうございます」
ヴォルフが紅茶に口をつけた。大きな手がカップを持つと、カップが小さく見えた。
しばらく、無言で紅茶を飲んだ。
中庭の木々が夕日に染まっている。オレンジ色の光。鳥の声が遠くで聞こえる。
穏やかな時間。
「ヴォルフ」
「はい」
「あなたは何年、うちにいるの?」
「九年です。お嬢様が三歳の時から」
「九年」
「公爵閣下に拾っていただきました。騎士団を辞めた後、行き場がなかった私を」
「騎士団を辞めた」
「理由は、聞かないでいただけると」
「聞かない。でも九年。長いね」
「あっという間でした」
ヴォルフが紅茶のカップを見つめた。
「お嬢様が三歳の頃は、よく泣いていました」
「え?」
「夜中に。悪夢を見て。毎晩のように」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「わたし、覚えてない」
「そうでしょう。三歳ですから。でも私は覚えています。奥方様が抱き上げて、あやして。それでも泣き止まない夜があった。私は廊下で聞いていました」
「……」
「あの頃から不思議なお子様でした」
ヴォルフの声が変わった。いつもの無機質な声ではなく。何か、温度のある声。
「三歳で文字を読んだ。四歳で暗号を使った。五歳でナターシャに情報収集を指示した。普通ではありません」
セレスティアは紅茶のカップを握りしめた。
「ヴォルフ」
「五歳で魔力暴走を、いえ、暴走させられた。六歳で貴族院の議席数を暗記した。七歳で自分の魔力制御方法を模索した。八歳でテオドール調査官の動向を追い始めた。九歳でアレクシス殿下と対等に政治の話をした」
ヴォルフがセレスティアを見た。夕日の中で。
「お嬢様は何か、普通ではないことを知っておられる」
心臓が止まりそうだった。
「まるで未来を知っているかのように動かれる」
沈黙。長い沈黙。鳥の声が消えた。風が止んだ。
ヴォルフの目は責めてはいなかった。問い詰めてもいなかった。ただ見ていた。九年間見てきた目で。
セレスティアは何も言えなかった。
否定もできない。肯定もできない。
「ヴォルフ——わたしは」
「お嬢様」
ヴォルフが遮った。穏やかに。
「私は知らなくていい」
「え」
「お嬢様の秘密が何であれ。未来を知っているのか、特別な力があるのか、あるいはもっと別の何かなのか。私は知らなくていい」
ヴォルフが紅茶のカップを置いた。
そして——ベンチから立ち上がり、セレスティアの前で片膝をついた。
「私はただお嬢様を守る。それだけです。理由は必要ありません。秘密も必要ありません。お嬢様が何者であっても。何を知っていても。何を隠していても」
ヴォルフの声が——揺れた。無口な男の声が。初めて。
「九年間、お嬢様の傍にいて。悪夢に泣く三歳のお嬢様も。暗号を書く四歳のお嬢様も。王宮で戦う十二歳のお嬢様も。全部見てきました」
「ヴォルフ」
「私の剣は——お嬢様のためにあります。無条件に。永久に」
視界がぼやけた。涙で。
フェリクスは問い詰めなかった。「研究者として知りたいが、兄として聞かない」と。
アレクシスは聞かなかった。「秘密は聞かない。約束した」と。
そしてヴォルフは「知らなくていい」と言った。
「ヴォルフ」
「はい」
「立って。膝をついてないで。お茶が冷めちゃう」
ヴォルフが顔を上げた。
セレスティアは泣いていた。涙が頬を伝っていた。でも笑っていた。泣きながら笑っていた。
「お茶、飲もう。もう少し一緒に」
「……はい」
ヴォルフが立ち上がり、ベンチに座り直した。今度は、拳ひとつ分、距離が近かった。
ナターシャが新しい紅茶を持ってきた。温かいのを。
「ナターシャ。ヴォルフにクッキーもあげて。フリーデリケのクッキー」
「あれはお嬢様の大事なクッキーでは」
「いいの。大事な人にあげるための大事なクッキーだから」
ナターシャが微笑んだ。フリーデリケから届いた割れたクッキーの残りを、小皿に載せて運んできた。
ヴォルフがクッキーを一枚取った。大きな指で、小さなクッキーを。
「甘いですね」
「うん。甘いの。少し焦げてるけど」
「美味しいです」
無口な騎士が「美味しい」と言った。
セレスティアは紅茶を飲んだ。蜂蜜の甘さ。ラベンダーの香り。夕日の温もり。
九年間。この人はずっと三歩後ろにいた。
影のように。空気のように。当たり前のように。
でも当たり前ではなかった。一度も。
「ヴォルフ。ありがとう。九年間」
「勿体ないお言葉です」
「勿体なくない。ヴォルフがいなかったら、わたしはとっくに壊れてた」
ヴォルフは何も言わなかった。ただ紅茶を飲んだ。
中庭に夜が降りてきた。最初の星が見えた。
二人の間に言葉はなかった。
でも沈黙が、温かかった。
九年分の沈黙。九年分の信頼。
夕暮れの中庭。紅茶とクッキー。護衛騎士と少女。
「ヴォルフ。騎士団を辞めた理由、本当に聞かなくていい?」
「はい」
「一つだけ。後悔してる?」
ヴォルフが少し考えた。珍しく、間があった。
「後悔は——」
「うん」
「ありません。ここが、正しい場所でした」
セレスティアはカップを置いた。
「そっか。よかった」
それ以上は聞かなかった。ヴォルフが「正しい場所」と言った。それで十分だった。
◇
夜。ナターシャが寝支度を手伝いながら言った。
「ヴォルフ様と長いこと話していましたね」
「うん。お茶を飲んだ」
「クッキーもあげたと聞きました」
「フリーデリケに報告する?」
「いいえ。ただ——良いことをされたと思いまして」
ナターシャが髪を梳かしながら、静かに続けた。
「ヴォルフ様はずっと、言葉が少ない方です。でも今日、廊下でお顔が違いました。少し、軽くなったように見えました」
「そう」
「はい。人は言葉を受け取ると、軽くなるのかもしれません」
セレスティアは鏡の中のナターシャを見た。
「ナターシャも?」
「わたしも、毎日言葉をいただいています。お嬢様から」
「知らなかった」
「当然です。わたしが言わなければ」
ナターシャが微笑んだ。セレスティアも笑った。鏡の中で。
窓の外に、中庭のヴォルフの影が見えた。いつもの定位置。いつもの三歩後ろの位置。影は動かなかった。ただ、そこにあった。
穏やかな夜が、静かに過ぎていった。




