グレーテルの警告
春の陽射しが差し込む魔力訓練室。
窓から入る風がラベンダーの残り香を運んでくる。今朝、髪を結う時にナターシャが数滴垂らしてくれた香油の匂い。セレスティアはその香りが好きだった。フリーデリケが育てたラベンダーから作った、公爵家特製の香油。
魔力教師グレーテル・シュタインが、セレスティアの前に座っていた。
四十代。銀縁の眼鏡。黒髪を一つに束ねた厳格な女性。だが目の奥に、教え子を案じる温かさがある。
セレスティアはグレーテルが好きだった。褒めない。愛想も良くない。でも嘘をつかない。正確に見て、正確に言う。そういう人だと思っていた。
「セレスティア。今日は実技ではなく、話があります」
「話、ですか」
グレーテルが手元の書類に目を落とした。魔力測定の記録。セレスティアの過去半年分。
「あなたの魔力は安定してきました。フェリクスの理論、心臓の鼓動に魔力を同期させる方法は非常に有効です。日常生活での制御は、もう問題ないレベルに達しています」
「ありがとうございます」
「ですが、一つ、問題があります」
グレーテルが眼鏡を外した。裸眼で、セレスティアを見た。深い茶色の目。教師としてではなく、一人の魔術師として。
「聖魔力は感情に強く反応します。特に『恐怖』と『怒り』」
「……はい」
「フェリクスの同期法は、通常の精神状態では完璧に機能します。でも極限の恐怖状態では、心拍自体が乱れる。心拍が乱れれば同期が崩れる。同期が崩れれば」
「暴走」
「はい。そしてあなたの魔力量は、王国の歴史上、類を見ない規模です。もし暴走すれば」
グレーテルが言い淀んだ。言葉を選んでいるのではない。事実が重すぎるのだ。
「——王宮ごと、吹き飛ぶ規模になりかねません」
空気が冷えた。春の陽射しが差し込んでいるのに。
「王宮ごと」
「ええ。聖魔力は光と闇の融合体。暴走した場合、相反する二つの力が制御なく解放されます。五歳の時の暴走は意図的に引き起こされたものでしたが、あの時の規模でさえ、王宮の演習場を半壊させました」
五歳の暴走。フェリクスが明かした真実。あれは暗殺未遂だった。誰かがセレスティアの魔力パターンを計測し、意図的に暴走を引き起こした。
「今のあなたの魔力量は、五歳の時の三倍以上です」
三倍。
王宮ごと。
セレスティアは自分の手を見た。小さな手。十一歳の、白い指。この手の中にそんな力が眠っている。
「先生。わたしはどうすればいいのですか」
「心の制御です。魔力の制御ではなく、心の制御。恐怖に飲まれないこと。怒りに支配されないこと。どんな状況でも心を保つこと」
「心を保つ」
「フェリクスの同期法は、魔力の制御です。でも同期の前提にあるのは安定した心拍。心拍の前提にあるのは安定した心。つまり、全ての土台は、あなたの心なのです」
グレーテルが立ち上がり、窓辺に歩いた。
「セレスティア。あなたにはPTSDの傾向があります」
心臓が跳ねた。
「なぜ」
「魔力教師は魔力の波動を読みます。あなたの魔力は時折、不規則に揺れる。普段は安定していますが、特定の話題、処刑、断頭台、裏切りに触れた時、波動が乱れます」
見抜かれていた。
魔力は隠せない。どんなに制御しても、波動は内側を映す。これまで誰にも前世の話をしていない。でも——魔力だけは、知っていた。
前世の記憶。処刑の恐怖。断頭台の冷たさ。それが魔力の波動に表れていた。
「先生はわたしのPTSDの原因を」
「知りません。知る必要もありません。あなたには何か、深い恐怖がある。それだけが分かれば十分です」
グレーテルが振り返った。窓からの逆光で、表情が見えなかった。
「セレスティア。私が教えられるのは魔力の制御だけです。心の制御はあなた自身が見つけるしかありません。でも——見つけられると、私は信じています」
セレスティアは少し黙った。「信じている」という言葉が、予想外だった。グレーテルは確信でなければ言わない人だ。
「自分で」
「ただ、一つだけ、助言を」
「はい」
「恐怖を消そうとしないでください。恐怖は消えません。消そうとすればするほど、恐怖は暴れます。恐怖を受け入れてください。怖いものは怖い。それでいい。怖いまま、立てばいい」
王妃エレオノーラの言葉が蘇った。「震えながら立つことを覚えました」。
同じだ。王妃も。グレーテルも。怖いまま、立つ。
「先生」
「何ですか」
「先生も怖いものがありますか」
グレーテルが少し微笑んだ。厳格な顔に似合わない、柔らかな笑み。
「ありますよ。たくさん。教え子が自分を壊してしまうことが、一番怖い」
「……先生」
「あなたは強い子です。でも強い子は——壊れる時も激しい。だからお願いです。壊れそうになったら、誰かの手を握ってください。一人で耐えないで」
セレスティアの目が熱くなった。
「先生。ありがとうございます」
「礼には及びません。それと、次回からは実技の強度を上げます。感情制御の訓練を組み込みます。覚悟してください」
「はい」
「泣くかもしれませんよ」
「泣いても——立ちます」
グレーテルが今度ははっきりと笑った。
「いい返事です。さすが、フェリクスの妹」
セレスティアは少し驚いた。グレーテルがフェリクスの名前を知っているとは思っていなかった。
「おにいさまを知っているのですか?」
「私の元教え子ですよ。あの子の魔力理論のレポートには何度赤を入れたことか。天才だけど、字が汚い。そっくりですね、兄妹で」
「わたしの字は綺麗です」
「ナターシャさんに直されているのでは?」
「……否定できません」
二人で笑った。春の陽射しの中で。
魔力訓練室を出る時、セレスティアは自分の胸に手を当てた。
心臓の鼓動。とくん、とくん。
安定している。今は。
でも恐怖の瞬間に、この鼓動が乱れたら。
王宮ごと吹き飛ぶ。
廊下を歩きながら、ラベンダーの香りを吸い込んだ。
怖いまま、立つ。それだけでいい。
◇
廊下の突き当たりでナターシャが待っていた。
「お嬢様。お顔の色がすぐれませんが」
「大丈夫。怖い話を聞いた。正確に言うと、必要な話を」
「グレーテル先生から?」
「うん。わたしの魔力が暴走したら、王宮ごと吹き飛ぶかもしれないって」
ナターシャが一瞬固まった。
「……それは」
「だから心の制御を学ぶ。次回から訓練の強度が上がる」
「いつからですか」
「来週から。泣くかもしれない、と言われた」
「お嬢様が泣く訓練、ですか」
「感情制御の訓練。恐怖を感じながら魔力を制御する練習。泣いても立つ、って答えた」
ナターシャが少し息を吐いた。安堵と、まだ残る緊張が混じった呼吸。
「承知いたしました。訓練の日程はグレーテル先生のご指定で?」
「先生が決める。ナターシャ、一つお願い」
「何でしょう」
「訓練の日は、終わった後すぐそこにいてほしい。廊下で待っていてほしい」
ナターシャが頷いた。即答だった。一瞬も迷わなかった。
「もちろんです」
壊れそうになったら、誰かの手を握ってください。グレーテルの言葉が蘇った。
握る手は、もうある。
「ナターシャ」
「はい」
「ありがとう」
ナターシャは何も言わなかった。ただ一歩、隣に並んだ。
春の廊下を、二人で歩いた。ラベンダーの香りが、まだ消えていなかった。




