辺境伯の決断
辺境伯ギュンター・フォン・ヴァイスハウプトが王都に来た。
北方の国境を守る武人。コンラートの父。六十代の巨漢。顔に古傷がある。声が大きい。コンラートの声の大きさは遺伝だったと、セレスティアは即座に理解した。
南方のアルマンド将軍の脅威を受け、国防会議への出席が目的だった。だが、それだけではない。
「ライナルト。久しいな」
公爵邸の応接室。辺境伯と公爵が向かい合っていた。セレスティアは同席を許された。ナターシャが背後に控えている。
辺境伯は公爵の学友だった。王立士官学校の同期。二十年来の交友。だが政治的な立場の違いから、長年表立った連携は避けてきた。
「ギュンター。来てくれたか」
「国防会議だからな。表向きは。だが本題はそっちではない」
辺境伯が茶を一口飲んだ。粗野な仕草。作法を知らないのではなく、知った上で無視している。
「南方が荒れている。アルマンドの連中が国境を犯した。略奪が始まっている。だが、宰相は動かない」
「宰相は南方問題を政治の道具にしている」
「ああ。知っている。南方が荒れるほど、国防予算の配分で宰相が発言力を持つ。あの男にとっては国境線の向こうの民の命より、貴族院の議席の方が大事だ」
辺境伯がセレスティアを見た。
「で。この嬢ちゃんが例の」
「娘のセレスティアだ」
「公爵の娘。王太子の婚約者。毒を見抜いた少女。うちのコンラートが惚れ込むわけだ」
「惚れ込む?」
セレスティアが聞き返した。
「コンラートの手紙にな。『セレスティア嬢は凄い人だ』と書いてあった。あいつが人を褒めるのは珍しい。大抵は『あいつは弱い』『あいつの構えは甘い』としか言わんのに」
辺境伯が豪快に笑った。応接室の壁に声が反響した。
「で、嬢ちゃん。南方問題について、お前さんはどう思う」
「辺境伯閣下。南方問題の本質は、アルマンド将軍の軍事的脅威ではありません」
辺境伯の眉が上がった。
「ほう。違うのか」
「アルマンド将軍は確かに危険です。だが将軍一人では国は動かせない。将軍の背後に、資金と補給を提供している者がいます。それがなければ、あの規模の軍事行動は維持できません」
「資金、か」
「南方の交易路を支配しているのはガルニエ商会。宰相の一族が運営する商会です」
辺境伯の目が鋭くなった。
「宰相が南方の脅威を、裏で支えていると?」
「支えているのではなく、利用しているのです。南方の脅威が大きいほど、国防予算が膨らむ。国防予算の配分権は貴族院にある。貴族院を支配しているのは宰相。つまり、南方の脅威は宰相にとって利益なのです」
沈黙。
辺境伯が公爵を見た。
「ライナルト。お前の娘は何者だ」
公爵が苦笑した。
「見ての通りだ。私よりよほど鋭い」
「鋭いどころではない。嬢ちゃん、その分析は何に基づいている」
「南方からの交易記録。ガルニエ商会の船便の頻度。アルマンド将軍の軍拡の時期とガルニエ商会の利益増の時期の相関。ナターシャが分析しました」
ナターシャが一歩前に出て、一礼した。
辺境伯がナターシャを見た。
「お前さんも大した侍女だな」
「恐れ入ります」
辺境伯は腕を組んだ。大きな腕。古傷だらけの。
そして、決断した。
「ライナルト。俺は今まで中立を保ってきた。北方の守りに集中するためだ。政治には関わらん主義だった」
「ああ」
「だが、もう限界だ。宰相が南方の脅威を利用しているなら、それは俺たち辺境の人間への裏切りだ。国境を守る兵が死んでいるのに、その死を——政治の道具にしている」
辺境伯の声が低くなった。怒りの底にある声。
「公爵家に——力を貸す」
公爵が目を見開いた。
「ギュンター」
「軍事的な支援だ。北方の辺境軍は王国最強の実戦部隊。その力を公爵家に預ける。必要な時に、必要な場所で使ってくれ」
「それは辺境伯が宰相と敵対するということだ。覚悟はあるか」
「覚悟も何も。俺は二十年、国境で敵と向き合ってきた。宰相の一人や二人、恐くはない」
辺境伯が笑った。
「それにな。息子が世話になっている。コンラートが初めて見つけた守りたいもの。それを守る手伝いくらいはさせてもらう」
「コンラートの」
「あいつはな、昔から不器用な子だった。剣は強いが、言葉が足りない。友達も少ない。だが——手紙が変わった。この一年で。文章に血が通い始めた。誰かの傍にいることで、あいつは変わった」
辺境伯がセレスティアを見た。
「嬢ちゃん。うちの息子を変えてくれたことに、礼を言う」
セレスティアは首を振った。
「変わったのはコンラート自身の力です。わたしは傍にいただけ」
「傍にいるだけで人が変わるなら、それは大した力だ」
辺境伯が立ち上がった。巨体が椅子を軋ませた。
「さて。国防会議に行くか。嬢ちゃん、一つ聞いていいか」
「はい」
「コンラートは強い騎士になれるか」
セレスティアは少し考えて、答えた。
「強い騎士にはもうなっています。でもコンラートは——強いだけじゃない。優しい騎士になります。それはもっと難しいことです」
辺境伯が目を丸くした。
それから大声で笑った。
「ハッハッハッ! 優しい騎士か! あの不器用な息子が! 面白い。面白いぞ、嬢ちゃん」
応接室を出る辺境伯の背中は山のようだった。
◇
その日の午後。王宮の訓練場。
コンラートが辺境伯の前で直立していた。
「父上。お久しぶりです」
「固いな。もっと楽にしろ」
「訓練場では作法を」
「俺が作法を気にする人間に見えるか」
コンラートが少し笑った。ぎこちなく。
セレスティアは遠くから見ていた。ナターシャと二人で。訓練場の端の石段に座って。
コンラートが父親の前で緊張している。いつもの堂々とした態度が消えて、十三歳の少年の顔になっている。
「お嬢様。コンラート様が子供の顔をしていますね」
「うん。可愛いね」
「可愛い、ですか」
「うん。コンラートにもあんな顔があるんだ。父親の前でだけ見せる顔」
辺境伯がコンラートの肩を叩いた。巨大な手で。コンラートの体が揺れた。
「強くなったな。体が」
「はい。毎日鍛えています」
「心はどうだ」
「心」
「守りたいもの、見つけたか」
コンラートが一瞬、セレスティアの方を見た。すぐに視線を戻した。
「……見つけました」
「そうか。なら、お前はもう大丈夫だ」
辺境伯がコンラートの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。十三歳の少年の髪がめちゃくちゃになった。
「父上、やめてください。訓練場で」
「うるさい。父親が息子の頭を撫でて何が悪い」
コンラートの耳が赤くなった。
セレスティアは笑った。ナターシャも笑った。
「コンラートの耳、真っ赤」
「武人の家系なのに、可愛らしい方ですね」
「ナターシャ。このこと、コンラートには内緒ね」
「もちろんです。でもお嬢様、既に視線で気づかれていますよ」
コンラートがこちらを見ていた。赤い耳のまま。目が「見るな」と訴えていた。
セレスティアは手を振った。にっこりと。
コンラートが背を向けた。耳がさらに赤くなった。
◇
「お父様。辺境伯との連携、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない。ギュンターは私の古い友人だ。本来なら、もっと早く手を結ぶべきだった」
「遅すぎることはない。今、手を結べたことが大事」
公爵がセレスティアの頭を撫でた。辺境伯がコンラートにしたように。
「セレスティア。お前は人を動かす力がある。辺境伯がお前と話して決断したのだ。私の力ではない」
「お父様」
「お前がいなければ——私は、政治家として手を打つだけだった。だがお前は人の心を動かす。それは政治よりも強い力だ」
セレスティアは首を振った。
「わたしはただ、本当のことを言っただけ」
「本当のことを言えるのが力なのだ」
公爵が窓の外を見た。夕暮れの空。
「味方が増えている。一人ずつ。石を積むように。お前が始めたことだ。この流れは」
「石を積む」
「ああ。お前の言葉だ。石を積む。一つずつ。積み上がってきている。確実に」
セレスティアは窓の外を見た。
空が赤かった。夕暮れの赤。
辺境伯が加わった。この人たちを絶対に、裏切らない。




