ルシアンの暗躍
貴族院の空気が変わり始めていた。
ナターシャが朝の報告で告げた。
「お嬢様。昨日の貴族院本会議で、反アレクシスの声が上がりました」
「どんな内容」
「『王太子は暗殺未遂すら未然に防げなかった。毒を見抜いたのは婚約者の少女であり、王太子自身の判断力ではない。このような者が次の王に相応しいのか』と」
「誰が発言した?」
「南部選出のクルト・シュタインバッハ議員。宰相派の中堅です。ですが」
「でも?」
「発言の文面が洗練されすぎています。クルトは元々粗野な言い回しをする人です。これは誰かが書いた台本」
「マティアスか」
「おそらく。そしてマティアスの背後には」
「ルシアン」
セレスティアは目を閉じた。
暗殺未遂事件をアレクシスの無能の証拠に使う。毒を見抜けなかった王太子は王の器ではない、と。
巧妙だ。事実だけを並べている。毒を見抜いたのがセレスティアであることは事実。アレクシスが気づかなかったことも事実。だがその事実の解釈を悪意の方向にねじ曲げている。
「アレクシスは知ってる?」
「殿下には報告が入っているはずです。貴族院の議事録は王太子府に送られますから」
「殿下の反応は」
「コンラートから報告がありました。殿下は怒っていない、と。ただ黙って議事録を読んでいた、と」
黙っている。アレクシスが。
それは怒りよりも深い感情だ。自分の無力を突きつけられた時の、あの静かな目。あの時見た目。
「殿下に会いに行く」
「お嬢様。その前にもう一つ」
「何」
「ルシアン殿下が、昨日の貴族院会議の後、三人の議員と私的な茶会を開いています。出席者は中立派の議員です」
「中立派を取り込んでいる」
「はい。ルシアン殿下は以前のように感情的に動いてはいません。計算して、段階を踏んで、一人ずつ味方を増やしている」
「ルシアンの目的は何だろう」
「王位では?」
「それだけじゃない。ルシアンは、アレクシスに勝ちたいんだ。王位は手段であって目的じゃない。生まれてからずっと『第二王子』として王太子の影にいた。その影から——出たい」
「お嬢様はルシアン殿下に同情を?」
「同情ではない。でも理解はできる。影の中にいる苦しさは——分かる」
「ルシアンとはいつか話す必要がある。でも今はまだその時じゃない」
◇
王宮。アレクシスの書斎。
アレクシスは机に向かっていた。議事録が広げられている。目の下に薄い隈。
「殿下」
「セレスティア。来ると思っていた」
「議事録を読んだ?」
「ああ。読んだ」
「怒ってない?」
「怒る、か。どうだろう。怒るべきなのかもしれないが、怒れない。事実だから」
「事実?」
「毒に気づいたのはお前だ。僕は気づかなかった。事実だ」
アレクシスの声は平坦だった。感情を消している。いや、感情を飲み込んでいる。
「事実を切り取って悪意のある解釈を付けただけだよ。殿下が毒に気づかなかったのは当然。誰だって気づかない。わたしが気づいたのは特殊な事情があるから」
「特殊な事情。お前の『秘密』か」
「……うん」
「聞かない。約束した。でも、事実は変わらない。僕は——自分の杯の毒にすら気づけない王太子だ」
「殿下」
「ルシアンの気持ちが——分からなくもない」
セレスティアは驚いた。
「ルシアンの?」
「年上のルシアンから見れば、弟は頼りないだろう。王太子の名にふさわしくない、と思われても仕方ない」
「そんなことない」
「いいんだ。言い訳はしない。ルシアンが僕を超えたいと思うなら、僕が超えられないだけの王になればいい。それだけの話だ」
アレクシスの目に火が灯った。静かな、だが確かな火。
「僕はお前に守られてばかりだ。毒を見つけたのもお前。カスパルの真実を教えてくれたのもお前。僕は受け取るだけ」
「受け取ることも」
「大事だ。分かっている。お前がそう言うのも分かっている。でも僕は王になる人間だ。受け取るだけじゃ足りない。自分で——掴まなければ」
アレクシスが立ち上がった。
「ルシアンの動きには僕が対処する」
「殿下が?」
「ああ。貴族院の反論は僕自身がする。お前やコンラートの口を借りるのではなく。王太子として」
セレスティアは微笑んだ。
「それでこそ殿下」
「褒めるな。まだ何もしていない」
「する前に決意したことが大事。わたしは殿下の傍にいる。でも戦うのは殿下自身」
アレクシスの口元が緩んだ。
「お前がいなかったら、多分、今頃この議事録を破り捨てて、ルシアンの部屋に怒鳴り込んでいた」
「以前のアレクシスならそうだったね」
「成長したと言ってくれるか」
「言わない。成長は結果で証明するもの」
「厳しいな」
「厳しいのがわたしの仕事」
「婚約者の仕事はもう少し優しいものだと思っていたが」
「優しさだけでは殿下を守れない」
アレクシスがセレスティアを見た。真剣な目で。
「セレスティア。一つ聞いていいか」
「何」
「お前は——僕が王に相応しいと、本当に思っているか」
沈黙。
セレスティアは考えた。
前世のアレクシスは弱い王太子だった。宰相に操られ、セレスティアを救えず、最後は背中を見せただけ。
「今は分からない。でも——殿下が王に相応しくなる日が来ると信じている。今はまだ途中。走っている途中なのだから」
「走っている途中」
「うん。わたしも同じ。途中。全部途中。でも走り続けていれば、辿り着く」
アレクシスは長い間、セレスティアを見つめていた。
それから頷いた。
「分かった。走る。止まらない。——ルシアンが何を仕掛けてきても」
「一人で走らなくていい。わたしがいる」
「分かっている。ありがとう。いつも」
アレクシスが議事録をもう一度広げた。今度は目の色が変わっていた。
セレスティアは書斎を出た。
廊下でカスパルとすれ違った。カスパルは微笑んでいた。いつもの、計算された微笑み。
「セレスティア嬢。殿下のお加減はいかがでしたか」
「お元気ですよ。とても」
カスパルの目が一瞬、揺れた。
セレスティアは微笑み返した。カスパルに負けない、計算された微笑みで。
◇
その日の夕刻。ナターシャに報告を聞いた。
「ルシアン殿下の茶会について、追加情報があります。三人の中立派議員のうち、一人がルシアンに共感を示したようです」
「誰」
「ヒューベルト・グラース議員。南東部選出。五十代。定評ある中立派で、特定の派閥には属していませんでした」
「グラース議員がルシアンに」
「はい。以前からアレクシス殿下の政策に疑問を持っていたようです。ただし積極的な支持ではなく、様子見の段階です」
様子見。まだ決まっていない。
「グラース議員に接触できる?」
「直接は難しいですが、グラース議員の友人がお母様の知人です。そちらを通じれば」
「お母様は今、静養中。頼めない」
「はい。ですがお母様が回復されれば、経路として使えます」
「来月には動けるかもしれない。それまでは観察だけ」
「承知いたしました」
ナターシャが書き留めた。
アレクシスが貴族院に反論を準備している。グラースが動くより早く、アレクシスが自分の言葉で立場を示せれば、中立派を繋ぎ止められる。
アレクシスが自分の足で立とうとしている。それを信じて、セレスティアは次の手を考えた。
夜の王宮に、ランプが一つずつ灯り始めた。




