母の危機
知らせが来たのは朝だった。
ナターシャが駆け込んできた。いつもの冷静さが欠けていた。
「お嬢様。リリアーナ様が——」
心臓が止まった。
「倒れた? 毒? 暗殺——」
「いいえ。毒ではありません。過労です」
過労。
その言葉を聞いた瞬間、恐怖とは違う感情が、罪悪感が、セレスティアの胸を抉った。
◇
公爵邸。母の寝室。
リリアーナは寝台に横たわっていた。顔色が白すぎた。唇の血色が消えていた。
侍医のエルマーが説明した。白髪の老医師。穏やかだが、表情に緊張があった。
「過労と心労が重なりました。身体的な損傷はありませんが、極度の疲労による衰弱です。心臓への負担も確認されています」
「命に」
「直ちに危険はありません。ですが、数日間は絶対安静が必要です。それと」
エルマーがセレスティアを見た。言葉を選んでいる。
「奥方様は、この半年、ほとんど休まれていなかったようです」
この半年。
婚約の準備。王宮への根回し。摂政エレオノーラへの助言。貴族院の社交。公爵家の内政。そして娘の政治活動の裏方。
全てを。母が。一人で。
「お母様……」
セレスティアは寝台の傍に座った。母の手を取った。冷たかった。いつも確かだった母の手が。
リリアーナが薄く目を開けた。
「セレス」
「喋らないで。休んで」
「大げさよ。少し疲れただけ」
「少しじゃない。エルマー先生が絶対安静だって」
「先生は大げさなのよ、いつも」
咳き込んだ。乾いた咳。体が震えた。
セレスティアの目に涙が滲んだ。
止められなかった。いつの間に。いつから母はこんなに痩せていた? 顔の輪郭が変わっている。頬が削げている。
気づかなかった。
暗殺未遂の捜査。カスパルの追及。宰相への対策。情報網の維持。自分のことばかり見ていて、一番近くにいる人の変化を見落としていた。
「わたしのせいだ」
声が震えた。
「何を言ってるの。あなたのせいじゃない」
「わたしが。お母様に頼りすぎた。王宮の根回しも、社交の手配も、全部。お母様がやってくれてるのを当たり前みたいに」
「当たり前よ。母親ですもの」
リリアーナが微笑んだ。弱々しい、だが確かな笑み。
「母親は子供のために働くの。当たり前のこと」
「当たり前じゃない。当たり前じゃない」
涙がこぼれた。
リリアーナが弱い力で、セレスティアの手を握り返した。
「泣かないの。お母様は大丈夫。少し休めば」
「お母様」
「なあに」
「わたしを叱って」
リリアーナの目が丸くなった。
「叱る? 何を」
「わたしばっかり走って、お母様のこと見てなかった。全部自分でやろうとして、周りが見えなくなってた。叱って。わたしを」
リリアーナは一拍置いて、それから言った。
「じゃあ、叱ります」
「うん」
「セレスティア。あなたは全てを一人で背負いすぎです」
「……」
「あなたは強い子。でも強いからって、何もかも自分で抱え込んでいいわけじゃない。お母様にも頼っていい。でもお母様も無理をしていいわけじゃない。——お互いに、無理をしないこと。約束しなさい」
「約束」
「はい。約束」
セレスティアは涙を拭いて、頷いた。
「約束する。わたしも無理しない。お母様も無理しない」
「よろしい。これで、叱りましたからね」
「……うん。叱られた」
二人で小さく笑った。病室の中で。弱々しい笑い声。でも深かった。
◇
翌日。アネリーゼが公爵邸を訪ねた。
「セレスティア様。お母様の具合は」
「過労で倒れたの。毒じゃない。でも」
「治癒のお手伝いをさせてください」
アネリーゼが寝室に入った。白い法衣。金色の短い髪。穏やかな目。
光魔力を手のひらに集めた。淡い、暖かい光。母の胸元に手を翳した。
「身体の疲労は、かなり蓄積されています。内臓、特に心臓に負担が。光魔力で肉体の回復を促すことはできます」
光がリリアーナの体に染み込んでいった。母の顔色がわずかに良くなった。
「ありがとう、アネリーゼ」
「いいえ。でも」
アネリーゼが言い淀んだ。
「でも?」
「肉体の疲労は治せます。でも心の疲労は、光魔力では治せないのです」
「お母様の心の疲労は」
「はい。心労がとても深く刻まれています。不安。恐怖。心配。それが体を蝕んでいる。体だけ治しても、心が癒えなければ、また同じことが起きます」
心が癒えなければ。
「わたしがお母様の心労の原因」
「セレスティア様。そうではありません」
アネリーゼが首を振った。
「お母様はあなたを心配しているのではありません。あなたを守りたいのです。守れない自分が辛いのです。それは愛です」
「愛が体を壊す?」
「はい。愛は最も深い力であり、最も深い傷にもなります。お母様の愛が強すぎるのではなく、お母様の愛を受け止める場所が足りていなかったのです」
セレスティアはアネリーゼの言葉を噛み締めた。
受け止める場所。
母の愛を受け止めていたか。「ありがとう」と言っていたか。「大丈夫」と伝えていたか。
走ることに夢中で、振り返ることを忘れていた。
「アネリーゼ。心の傷を治す方法は、本当にないの?」
「魔力ではありません。でも」
「でも?」
「傍にいること。話を聞くこと。一緒に笑うこと。それが、心の治癒です。魔力よりもずっと時間がかかります。でも確実に、効きます」
アネリーゼが微笑んだ。柔らかい笑み。治癒師としてではなく、一人の少女としての笑み。
「セレスティア様。お母様の傍にいてあげてください。それだけで十分です」
◇
三日間。セレスティアは母の傍にいた。
政治も情報もナターシャに任せた。「三日間だけ。わたしは母の傍にいる」と。
ナターシャは頷いた。「当然です。お嬢様も、少し休んでください」と。
三日間。母と過ごした。
話をした。子供の頃の思い出。ラベンダーの庭のこと。父が不器用に花を摘んでくれた話。長兄が初めて剣を振って転んだ話。次兄が本を読みながら木に激突した話。
笑った。くだらない話で。温かい話で。
リリアーナの顔色が日に日に戻っていった。唇に赤みが差した。手の温もりが戻ってきた。
三日目の夜。
「お母様。ごめんなさい」
「何を」
「いつも走ってばかりで。お母様の傍にいる時間を削っていた」
リリアーナがセレスティアの髪を撫でた。柔らかい手。
「セレスティア。あなたは走らなければいけない子。それは分かっている。でもね」
「うん」
「走った後は帰ってきなさい。ここに。お母様の傍に。どんなに遠くまで走っても——帰る場所があるのよ」
「帰る場所」
「ここよ。公爵家。お母様の隣。あなたの帰る場所」
セレスティアは母の手に頬を寄せた。
柔らかかった。戻ってきた温もり。
「帰ってくる。いつも。必ず」
「約束ね」
「約束」
◇
四日目。母の容態は安定した。
セレスティアは王宮に戻った。ナターシャが三日分の報告を持っていた。
だが、報告を聞く前に。
「ナターシャ。三日間、ありがとう」
「いつものことです」
「いつものことが」
「一番大事。ですよね。お嬢様」
セレスティアは笑った。
「ナターシャ。イルゼの件は?」
「引き続き調査中です。台所の視察の日程も、来週に設定できそうです」
「よし。では来週。急がなくていい。確実に」
「承知いたしました」
母の温もりを胸に。走り出した。




