カスパルの追及
暗殺未遂事件から一週間。
ニコラスの追加調査とナターシャの監視報告が揃った。状況証拠の網は、かなり狭まっていた。
セレスティアは近衛騎士団長ジークフリートに面会を求めた。
王宮の騎士団長室。石造りの質実な部屋。壁に掛けられた剣と盾。功績を示す勲章。だが自慢げに飾っているのではない。ただ、掛ける場所がここしかなかっただけだ。
ジークフリートは重厚な机の向こうに座っていた。五十代。白髪交じりの短髪。深い皺が刻まれた顔。鉄のような男だが、目だけは温かかった。長年の経験が磨いた、人を見る目。
「王太子妃殿下。いや、まだ婚約者殿ですな。お話とは」
「騎士団長。捜査の進展を教えていただきたいのです」
「捜査は近衛騎士団の管轄です。十一歳のお嬢さんにお話しする内容では……」
「殿下の杯に毒を見つけたのはわたしです」
ジークフリートの目が少し変わった。認めた。この少女が事件の発見者であることを。
「……失礼いたしました。仰る通りです。発見者には知る権利がある」
ジークフリートが報告した。給仕は依然として口を割らない。背後関係は不明。毒物の入手経路も特定できていない。
公式捜査は、行き詰まっていた。
「騎士団長。わたしからも一つ、情報を提供したいのです」
セレスティアはナターシャに目配せした。ナターシャが書類を差し出した。
「これは——」
「拘束された給仕が、事件の二日前にカスパル・ヴェルナーと接触していた記録です。目撃者は近衛騎士見習いのコンラート・フォン・ヴァイスハウプト。訓練場から中庭が見える位置で、二人の会話を目撃しています」
ジークフリートの目が鋭くなった。
「カスパル、殿下の侍従か」
「はい。そして給仕を王宮に採用した際の推薦者もカスパルです。半年前に」
「推薦記録は確認できるのか」
「人事記録に残っています」
ジークフリートは書類に目を通した。眉間の皺が深くなった。
「状況証拠としては意味がある。だが……」
「断定には足りない。分かっています」
「カスパルは王太子の侍従です。軽率に動けば殿下の信頼を損なう。それに、二日前の三分間の会話と推薦記録だけでは、カスパルは『挨拶しただけ』『優秀な人材を推薦しただけ』と言い逃れるでしょう」
「はい。ですから、泳がせたいのです」
ジークフリートが顔を上げた。
「泳がせる?」
「カスパルを今の段階で追及すれば、アリバイを並べて逃げるだけです。背後にいる人物——真の首謀者——には辿り着けません。でも、カスパルを泳がせたまま監視を続ければ、次の動きで尻尾を掴める可能性があります」
ジークフリートは腕を組んだ。しばらく沈黙した。
「お嬢さん。あなたは十一歳でしたな」
「はい」
「とてもそうは思えない発言だが」
少し笑った。険しい顔に似合わない、穏やかな笑み。
「正しいと思います。泳がせる。それが最善だ」
「ありがとうございます」
「ただし。一つ条件がある」
「何でしょう」
「殿下の安全は、私が保障する。カスパルの監視は騎士団でも行う。あなたの情報網と騎士団の監視。二重体制で。あなた一人に背負わせるつもりはない」
セレスティアの目が少し潤んだ。
「ありがとうございます、騎士団長」
「礼には及びません。あの夜、殿下を守ったのはあなただ。騎士団は、それを忘れない」
◇
だがジークフリートから情報を得た以上、形式的にもカスパルへの事情聴取は必要だった。
翌日。騎士団長室。
カスパルが呼ばれた。
セレスティアはその場にいなかった。いる必要はない。ジークフリートの尋問を、ナターシャが隣室で聞いていた。壁に細い管が通されている。騎士団長室の音を拾う、古い聴取用の設備。
カスパルの声が聞こえた。
「騎士団長殿。お呼びいただき恐縮です。——暗殺未遂事件の捜査に何かお力添えできることがあれば」
「カスパル・ヴェルナー。事件の二日前に、拘束された給仕と中庭で会話をしていたな」
一拍の沈黙。
「ああ、あの給仕ですか。はい、確かにお話ししました。新しい給仕がいると聞いて、挨拶を。殿下付きの侍従として、王宮の使用人とは顔を合わせておくのが慣例ですから」
「三分間の会話だったと聞いている。挨拶にしては長くないか」
「三分……でしたかね。覚えておりません。天気の話でもしたかもしれません」
声に動揺はなかった。完璧な平静。
「それから、あの給仕を王宮に推薦したのは、お前だな」
「はい。確かに。半年ほど前に。知人の伝手で、優秀な人材がいると聞きましたので。推薦は人事部の手続きに則って行いました。記録もございます」
「その『知人』とは」
「町の酒場で知り合った商人です。名前は——申し訳ありません、正確には覚えておりません。たまたま話の流れで、王宮の人手が足りないという話をしたところ、腕のいい給仕がいると」
嘘だ。セレスティアには分かる。ナターシャにも分かる。
だが証明できない。
「曖昧な記憶だな」
「半年前のことですから。騎士団長殿、私は殿下に長年お仕えしてきました。殿下を害する理由がありましょうか。殿下の安全は、私の命よりも大切なことです」
ジークフリートは沈黙した。
「……分かった。今日はここまでだ」
「ありがとうございます。何かあればいつでもお呼びください。殿下のためなら、いかなる協力も惜しみません」
カスパルが退室した。足音が遠ざかる。
ナターシャが隣室からセレスティアの元へ戻った。
「お嬢様。完璧な受け答えでした」
「アリバイも用意済み。推薦の経緯も合理的。『知人の商人』は実在しないか、既に口封じされている」
「はい。カスパルはこの尋問を予想していましたね」
「当然。暗殺未遂の実行犯を自分が推薦したんだから。尋問が来ることは分かっていた。だから答えを準備していた」
セレスティアは窓の外を見た。
「でも、一つだけ引っかかる部分があった」
「どこですか?」
「『殿下の安全は私の命よりも大切』。あの台詞。言い過ぎた。ジークフリートは歴戦の騎士で、嘘を見抜く目を持っている。あの大仰な忠誠の表現は、逆に疑いを深めたはず」
「騎士団長は気づいていると?」
「気づいている。でも動けない。証拠がないから。だから、証拠を作る」
「作るとは」
「次にカスパルが動く時、その動きを記録する。写しを取る。カスパルが宰相と接触する瞬間を、証人付きで押さえる」
「カスパルが今後も動くと?」
「動く。この尋問で追い詰められなかったことで、カスパルは安心する。安心した人間は油断する」
ナターシャが頷いた。
「泳がせて、油断させて、尻尾を掴む」
「うん。時間はかかる。でも急いで失敗するより、確実に」
◇
その夜。
アレクシスの私室に呼ばれた。
アレクシスは窓辺に立っていた。夜の王宮の庭が見える。月が出ていた。
「セレスティア。カスパルのことだが」
「はい」
「ジークフリートから聞いた。カスパルが、あの給仕を推薦していたと」
アレクシスの声は硬かった。怒りではない。もっと複雑な感情。
「カスパルは僕が小さい頃からいた。母上が倒れた時、最初に駆けつけてくれたのはカスパルだった。食事の好みも、本の趣味も、全部知っている」
「……」
「僕の一番近くにいた人間が、裏切り者かもしれない」
セレスティアはアレクシスの隣に立った。
「殿下。まだ確定ではありません。状況証拠だけです」
「分かっている。分かっているが——」
アレクシスの手が拳になっていた。
「信じたい。カスパルを。でも、コンラートが言ったことが頭を離れない。『あいつの目はお前を見ていない。お前を通して何かを見ている』。あの言葉が今、刺さっている」
「殿下。カスパルがどちらであっても、わたしは殿下の傍にいます」
「どちらであっても?」
「カスパルが潔白なら、良かった。裏切り者なら、わたしが守る。どちらでも」
アレクシスがセレスティアの顔を見た。月明かりの中で。
「お前は、いつも迷わないな」
「迷ってるよ。すごく。でも殿下を守ることだけは、迷わない」
「……ずるいな。そう言われたら、何も返せない」
「返さなくていい。殿下はいつか、わたしを守る番が来る。その時まで」
「その時は必ず守る。約束する」
「うん。約束」
月が雲に隠れた。暗くなった窓辺で、二人の影だけが残った。
だが二人の間に、嘘はなかった。
セレスティアの嘘——前世の記憶——を除いて。
その嘘だけは、まだ言えない。
いつか。この嘘が許される日が来るのだろうか。
セレスティアには分からなかった。




