暗殺未遂事件
それは予想より早く来た。
王宮の晩餐会。摂政エレオノーラ主催の外交行事。南方問題に関する貴族院議員との非公式な夕食会。
セレスティアは婚約者としてアレクシスの隣に座っていた。長いテーブル。蝋燭の明かり。銀の食器。水晶の杯。
二十人ほどの出席者。貴族院の主要議員。大臣数名。近衛騎士団長ジークフリート。そして宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。
宰相はテーブルの反対側に座っていた。セレスティアと向かい合う位置。微笑んでいる。いつもの、計算された微笑み。
晩餐が始まった。前菜が運ばれる。白ワインが注がれる。
セレスティアはワインを飲まない。十一歳だ。代わりに果実水が杯に注がれた。
アレクシスの杯にも果実水。王太子も未成年だ。
会話が始まった。南方の情勢について。アルマンド将軍の動き。国境防衛の強化。
セレスティアは会話に参加しながら、別のことを考えていた。
記憶が囁いていた。晩餐会。毒杯。給仕の指。
杯から目を離さなかった。自分の杯も。アレクシスの杯も。
給仕が新しい料理を運んできた。メインの肉料理。同時に杯が新しいものに替えられた。
替えられた。
セレスティアの目が鋭くなった。
杯の交換は通常の手順だ。料理が変わるたびに杯も変わる。だが、
給仕の手の動きを見た。アレクシスの古い杯を下げ、新しい杯を置く。その一瞬、給仕の指が杯の縁に触れた。
不自然だ。
給仕は杯の脚を持つ。縁には触れない。それが作法だ。
縁に触れた。
指が何かを擦った。
セレスティアの心臓が凍った。
毒。
体が動いた。考えるより先に。
「殿下」
声が出た。低く、だが鋭く。
アレクシスが杯に手を伸ばしかけていた。
「この杯は——使わないでください」
アレクシスの手が止まった。
テーブルの会話が途切れた。二十人の視線がセレスティアに集まった。
「セレスティア? どうした」
アレクシスが不思議そうな顔をしている。
「杯を替えてください。今すぐ」
セレスティアの声は震えていなかった。だが強かった。有無を言わさない声。
「何を——」
「毒です」
テーブルが凍りついた。
「給仕が杯の縁に触れました。作法では脚を持つはず。縁に触れたのは、塗布した可能性がある」
宰相の目が光った。テーブルの向こうで。
近衛騎士団長ジークフリートが立ち上がった。
「杯を触るな! 給仕を止めろ!」
騎士たちが動いた。給仕が捕まった。若い男。二十代。顔が蒼白。
「杯を検査しろ。今すぐ」
王宮の魔術師が呼ばれた。杯に魔力探知をかけた。
結果は——陽性。
「接触型の毒物です。杯の縁に微量。飲んだ場合、心臓に作用します」
テーブルが騒然となった。
「王太子の杯に毒」
「暗殺未遂だ」
「犯人は」
アレクシスの顔が白かった。自分が毒を飲みかけたという事実に、十一歳の少年は、はっきりと恐怖していた。
だがセレスティアの手を握った。
「セレスティア。助かった。お前が気づかなかったら」
「うん。大丈夫。殿下は無事」
握り返した。冷たい手を。
宰相がテーブルの向こうで、杯にワインを傾けた。平然と。
その目がセレスティアを見ていた。
読めない目。計算の目。だがその奥に何かがある。
驚きか。あるいは、観察。
「なぜ気づいた」と、その目が問うていた。
セレスティアは目を逸らさなかった。
「たまたま見ていただけです」
嘘だ。
宰相はその「たまたま」を信じないだろう。
◇
晩餐会は中止された。
給仕は拘束された。近衛騎士団による尋問が始まった。
セレスティアとアレクシスは王宮の一室に移された。コンラートが扉の前に立っている。
「殿下。大丈夫ですか」
「大丈夫、と言いたいが、正直、手が震えている」
アレクシスの手が震えていた。遅れてきた恐怖。
セレスティアがその手を握った。
「震えていい。怖かった。わたしも」
「お前も?」
「うん。すごく。殿下が杯に手を伸ばした時、心臓が止まるかと思った」
「止まってないだろうな」
「止まってない。とくん、って鳴ってる」
アレクシスが少し笑った。震えながら。
「お前はなぜ気づいたんだ」
「給仕の手が不自然だったから。杯の縁に」
「それは聞いた。でも普通、気づかないだろう。僕は全く気づかなかった」
「わたしは注意深いの。特に殿下の傍では」
「秘密だな。お前の秘密の一つ」
「……うん」
「聞かない。約束した。でも、助かった。ありがとう」
「わたしが殿下を守る。約束したでしょう」
「お互いを守る、だったろう」
「そうだった。じゃあ次は殿下がわたしを守る番」
「任せろ。とは言えないな。僕にはお前みたいな目がない」
「目は鍛えればいい。コンラートに教えてもらって」
扉の向こうから、コンラートの声が聞こえた。
「聞こえてるぞ。俺は目の鍛え方なんて知らねえ」
笑い声が起きた。小さな。震えの残った笑い声。
◇
王宮の廊下を歩いていた。アレクシスの部屋を出て、自分の控え室に戻る途中。ヴォルフが二歩後ろにいる。
角を曲がった先に、人影があった。
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。
一人だった。護衛も従者もいない。廊下の窓際に立ち、月明かりの中でセレスティアを見ていた。まるで、ここを通ることを知っていたかのように。
「アルヴェイン嬢。遅い時間ですね」
穏やかな声。晩餐会で毒杯が発覚した数時間後とは思えない平静さ。
「宰相閣下」
足を止めた。止めるべきではなかったかもしれない。だが素通りすることもできなかった。
宰相が一歩、近づいた。ヴォルフの気配が鋭くなる。
「王太子殿下がご無事で何よりです。あなたの観察眼には感服しました」
「ありがとうございます」
「ただ」
宰相の目が細くなった。微笑みは消えない。声も穏やかなまま。だが空気の温度が変わった。
「一つ、不思議に思いましてね」
沈黙。
「給仕の指先。杯の縁。接触型の毒物。それらを瞬時に結びつけるには、相当の知識が必要です」
心臓が鳴っている。顔には出すな。
「あなたは十一歳だ。どこでそのような知識を?」
答えが出なかった。用意していた言い訳が、宰相の目の前では全て薄っぺらく感じた。
沈黙が伸びた。三秒。五秒。
宰相は微笑んだ。
「いえ、野暮な質問でしたね。聡明なお嬢様のことです。ご本を沢山お読みなのでしょう」
踵を返した。去っていく。足音が廊下に響く。
最後に、振り向かずに言った。
「お身体にはくれぐれもお気をつけて。王宮は、物騒ですから」
足音が消えた。
セレスティアの膝が笑っていた。壁に手をついて、崩れそうになる身体を支えた。
ヴォルフが無言で傍に立った。その沈黙が、剣を抜く寸前だったことを物語っていた。
◇
深夜。セレスティアは王宮の一室で、ナターシャと二人きりだった。
「給仕の素性を調べて」
「既に動いています。あの給仕は半年前に王宮に採用された新人です。経歴は問題ありません。ですが」
「でも?」
「採用を推薦したのはカスパルです」
やはり。
カスパルが給仕を王宮に送り込んだ。半年前から。この日のために。
「カスパルと給仕の接触記録は」
「調査中です。ですがカスパルは足がつかないように動いているでしょう。直接の接触はないかもしれません」
「間にもう一人いるはずだ。イルゼ・ハーゼの調査は」
「進行中です。まだ結果は出ていません」
「急いで。次の事件が来る前に」
今世ではセレスティアが毒を発見した側だ。犯人にはされにくい。だが宰相は別の角度から攻める。「なぜ気づいたのか」と。助けたことが疑いを呼ぶ。救ったことが罪になる。
「ナターシャ。一つ、覚悟を決めた」
「何でしょう」
「わたしの異常さは、もう隠しきれない。隠そうとすればするほど、不自然になる。だから」
「だから?」
「隠さない。異常さを——武器にする。『この少女は特別だ』と思わせる。恐怖の対象ではなく、希望の象徴として」
ナターシャの目が見開かれた。
「希望の」
「聖魔力は『神の祝福』でしょう。宰相は『脅威』として使おうとしている。わたしは『祝福』として使う。同じカードの、裏表」
「解釈を先に定義するのですか」
「うん。宰相が『脅威だ』と言う前に、わたしが『祝福だ』と言う。先に言った方が勝つ。世論は先に定義された印象に引っ張られるから」
ナターシャは数秒、沈黙した。
そして微笑んだ。
「お嬢様。あなたは本当に恐ろしい方です」
「褒めてる?」
「最大限に」
セレスティアは笑った。
夜の王宮は静かだった。蝋燭の明かりがランプに変わり、廊下からは護衛の足音だけが聞こえていた。
暗殺未遂の夜は長かった。
だが朝は来る。




