イザベラの嫉妬と本音
イザベラは冷たくなった。
婚約発表の翌日から。
廊下ですれ違っても、目を合わせない。学園の食堂で近くの席に座っても、背を向ける。以前のように少なくとも視線を交わす程度の接触すら、なくなった。
セレスティアには分かっていた。
イザベラも王太子妃候補だった。
宰相の娘。ガルニエ家の令嬢。貴族院で最も影響力のある家の息女が、王太子と結ばれる。それは、宰相にとって最善のシナリオだった。
その席をセレスティアが取った。
イザベラの立場で考えれば、怒って当然だ。
学園の中庭。放課後。
セレスティアは意図的に、イザベラの帰り道で待った。石段ではなく、図書室に続く小径で。
イザベラが歩いてきた。セレスティアを見て足が止まった。
一瞬、目が揺れた。それから冷たい仮面が被さった。
「セレスティア。何か用?」
「イザベラ。話がしたくて」
「話? 婚約者さまがわたしに何の用かしら。おめでとうの言葉がほしいの?」
皮肉。だがその声は震えていた。
セレスティアは聞き逃さなかった。
「おめでとうはいらない。あなたの本音がほしい」
「本音?」
「怒ってるでしょう。わたしに」
イザベラの目が鋭くなった。
「怒る? なぜわたしが怒るの。婚約は貴族院の推挙。政治的に最善の選択。わたしに怒る理由はないわ」
「嘘」
「嘘ですって?」
「嘘。イザベラは怒ってる。婚約の席が自分のものだと思っていたから」
イザベラの拳が握られた。
「……あなたに、何が分かるの」
「分からないよ。だから聞きたい。あなたの口から」
沈黙。風が吹いた。中庭の木々が揺れた。
イザベラが口を開いた。
「おめでとう、セレスティア。あなたの勝ちね」
声が震えていた。皮肉の仮面の下で。
「わたしは物心ついた時から言われてきた。『お前は王太子妃になる』と。父に。マティアスに。ガルニエ家の全員に。お前はそのために教育されているのだと」
「マナー。政治学。外交。法律。会計。語学。全部、王太子妃になるために。わたしの人生はあの席のためにあった」
イザベラの声が高くなった。抑えていた感情が、隙間から噴き出している。
「なのに——あなたが来た。十一歳の公爵令嬢が。何もかもを知っていて、何もかもを先回りして、わたしが十年かけて積み上げたものをあっさり追い越した」
「イザベラ」
「悔しいわよ。悔しくないわけがないでしょう。わたしの人生の——意味が、消えたのよ」
イザベラの目に涙が光った。だが流さなかった。唇を噛んで、堪えた。ガルニエの娘は人前で泣かない。
セレスティアは一歩、近づいた。
「イザベラ。一つ聞いていい?」
「何」
「王太子妃になりたかった? 本当に? あなた自身が」
イザベラの動きが止まった。
「あなたはお父様に言われたから王太子妃を目指した。ガルニエ家のために。宰相の計画のために。でもイザベラ自身は、王太子妃になりたかった?」
「……」
「アレクシスのことが好きだった?」
イザベラの目が揺れた。大きく。
「好きとか、そういう問題じゃない。わたしたちの世界では」
「わたしたちの世界では、好きかどうかは関係ない。政治が決める。でもイザベラ。わたしは聞いてるの。政治じゃなくて、あなた自身に」
長い沈黙。
風が止んだ。
イザベラが小さな声で言った。
「……知らない」
「知らない?」
「好きかどうか分からない。考えたことがなかった。アレクシス殿下のことを好きかどうかなんて。そんなこと聞かれたことがなかった」
声がまた震えた。
「父は『お前は王太子妃になる』と言った。マティアスは『ガルニエ家の未来のため』と言った。誰も『お前はアレクシスが好きか』とは聞いてくれなかった」
「……イザベラ」
「わたしの人生にはわたしの意志がない。全部、父が決めた。ガルニエ家が決めた。わたしは道具よ。ずっと」
イザベラの仮面が——割れた。
涙が落ちた。一粒。ガルニエの娘が泣いた。
セレスティアは手を伸ばした。イザベラの手に。
イザベラは手を払いのけた。
「触らないで」
「イザベラ」
「同情しないで。あなたに同情される筋合いはない。あなたは勝った側の人間でしょう」
「勝ったとか負けたとかじゃない」
「じゃあ何なの」
セレスティアは真っ直ぐにイザベラの目を見た。涙で滲んだ紫の瞳。
「イザベラ。あなたは宰相の娘である前に、あなた自身よ」
イザベラの体が硬直した。
その言葉。
夜会でも、廊下でも、この子はいつも予想の外側から来た。だが今のは、種類が違った。
「あなた自身」。
一度も言われたことのない言葉が、棘のように、イザベラの心に刺さった。
「あなた自身は、何がしたいの。お父様が決めた人生じゃなくて。ガルニエ家の計画じゃなくて。イザベラ・ド・ガルニエという一人の人間として——何がしたいの」
「王太子妃になりたいならわたしと戦えばいい。でも王太子妃じゃないものがほしいなら、わたしは、あなたの味方になれる」
イザベラは何も言わなかった。
涙を拭いた。乱暴に。袖で。
「……あなたは、いつもそう」
「え?」
「いつも正しいことを言う。わたしが聞きたくないことを、正確に」
「ごめん」
「謝らないで。あなたの言葉は、いつも棘みたいに刺さるの。抜けないの。刺さったままずっと」
イザベラが背を向けた。
「今は答えられない。わたしが何をしたいか。分からないから」
「待ってる」
「待たなくていい」
「待つ。いつまでも」
イザベラが歩き出した。小径を。図書室の方へ。
数歩歩いて立ち止まった。振り返らなかった。
「セレスティア」
「なに」
「……父が、わたしを監視しているかもしれない」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「宰相があなたを?」
「マティアスの目が変わった。最近。わたしが報告書の証拠価値を下げたこと、気づかれたかもしれない」
「イザベラ」
「気をつけて。わたしに——これ以上近づかないで。わたしの傍にいると、あなたも危険になる」
イザベラが歩いていった。今度は振り返らなかった。
セレスティアは小径に一人残った。
手を伸ばしたまま。払いのけられた手を。
「イザベラ……」
払いのけられた。でも情報をくれた。「父が監視している」と。
宰相が実の娘を監視している。
あの男はどこまで冷徹なのか。
「イザベラを守らなければ」
でも近づけない。近づけばイザベラが危険になる。
遠くから守る方法を考えなければ。
セレスティアは石段に戻った。
フリーデリケが待っていた。
「セレスティアさま。どこ行ってたの?」
「……ちょっと。友達と話してた」
「友達?」
「うん。まだ、友達になれてないかもしれないけど。いつか、なりたい人」
フリーデリケは首を傾げた。
パンを差し出した。今日は四角い。
セレスティアはパンを受け取った。
イザベラの涙を思い出しながら。
四角いパンをかじった。フリーデリケの味がした。甘い。蜂蜜が入っている。
「フリーデリケ。宰相家の令嬢が好きなものって、知ってる?」
「え、急に? イザベラ様のこと?」
「うん」
「よく分からないけど……図書室にはよく行くって聞きました。一人で。本を読んでるって、誰かが言ってた」
「一人で図書室に」
「本が好きなのかな、って思ってたんですけど。何か?」
「ちょっと気になっただけ」
フリーデリケは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
二人で石段に座った。放課後の光が傾いている。中庭の木が風に揺れていた。
イザベラの言葉がまだ頭の中にあった。「わたしの人生にはわたしの意志がない」。
その言葉を、前世のセレスティアにも言えたかもしれない。宰相に操られ、婚約者として政治の道具にされて、誰にも「あなた自身は何がしたいか」と聞いてもらえなかった。
違うのは、わたしには前世の記憶がある、ということだ。
イザベラには——何もない。ガルニエ家の令嬢という役割しか与えられていない。
「遠くから守る方法」。
具体的なやり方は、まだ見えない。近づけない。でも——何もしないわけにはいかない。
パンを食べ終えた。
「フリーデリケ、ありがとう」
「どういたしまして! 明日は丸に戻しますか、四角のままにしますか?」
「丸でも四角でも、おいしければいい」
「それはそうなんですけど!」
フリーデリケが笑った。日常が続く。石段が続く。
遠くで図書室の窓が光っていた。




