婚約者としての日々
婚約者になったことで、世界は良くも悪くも変わった。
まず王宮への出入りが自由になった。
王太子の婚約者として、王宮の多くの区画に入れるようになった。書庫。会議室の待合。王族の私室に続く廊下。以前は足を踏み入れられなかった場所に招かれるようになった。
情報が増えた。王宮の内部で何が起きているか、壁越しの会話の断片や、すれ違う官僚たちの表情から読み取れることが桁違いに増えた。
ナターシャが婚約者付きの侍女として正式に王宮への同行を許された。情報収集の拠点が学園から王宮に拡大した。
「お嬢様。監査委員長のシュピーゲル男爵が今朝、宰相の執務室に四十分間滞在しました」
「四十分。長いね。通常の報告なら十五分で済むはず」
「何かを相談しているか、あるいは」
「説得されている。あの人はどの派閥にも属していない。宰相が中立の人間を取り込もうとしている」
情報の質が変わった。学園にいた時は鳥便と伝聞が頼りだった。今は自分の目と耳で確認できる。
だが同時に、監視も厳しくなった。
カスパルの目が、常にある。
「セレスティア嬢。アレクシス殿下はただいま書斎に」
カスパルの声は丁寧だ。目立たない。だがセレスティアがどこに行くか、誰と話すか、何を見るかを全て記録している。
◇
ある日の午後、セレスティアはナターシャと王宮の回廊を歩いていた。背後にカスパルの気配がある。足音を殺しているが、ナターシャの訓練された耳には聞こえている。ナターシャが目で合図した。「後方五歩」と。
セレスティアは演技を始めた。
「ナターシャ。お父様から手紙が来たの。南方の件で」
声を少し大きくした。カスパルに聞こえるように。
「南方の件、アルマンド将軍のことですか」
「うん。お父様が辺境伯と相談して、南方の国境に偵察隊を送るって。一週間後に」
嘘だ。偵察隊の話は存在しない。
だがカスパルはこれを聞いて、宰相に報告するだろう。宰相は公爵家が南方に注意を向けていると判断する。南方に注意が向いている間に、別の方面で動けると考えるかもしれない。
それがセレスティアの狙いだ。
宰相に偽情報を流す。公爵家の注意が南方に向いていると思わせて、実際には宰相の足元を掘り続ける。
「お嬢様。カスパルが歩速を変えました。メモを取ったようです」
ナターシャが囁いた。
「釣れた?」
「はい。間違いなく」
セレスティアは口元を緩めた。
「ナターシャ。次は三日後に。今度は貴族院の話を流す」
「内容は?」
「『ブリュンヒルデ男爵が体調を崩している。次の投票に出席できないかもしれない』と」
これも嘘だ。ブリュンヒルデ男爵は元気だ。だが宰相はブリュンヒルデの票を読み直すだろう。存在しない機会を追って時間を浪費する。
「偽情報は慎重に流します。頻度が多すぎれば気づかれる」
「月に二回まで。それ以上はやらない」
「承知いたしました」
◇
コンラートが近衛騎士として王宮に正式配属された。
訓練場の端で、コンラートがセレスティアに報告した。
「配属された。近衛騎士見習いだけどな。一応、王宮の中を歩ける」
「ありがとう、コンラート。王宮にあなたがいてくれると安心する」
「安心も何も、俺は剣を振るだけだぞ。政治はできねえ」
「剣を振るだけでいい。わたしの代わりに——アレクシスの傍にいて。カスパルが何か囁いた時、殿下の顔が曇ったら——教えて」
「それなら得意だ。人の顔を見るのは」
コンラートが不器用に笑った。
「あとな。一つ報告。訓練場で面白いもんを見た」
「面白いもの?」
「ルシアンだ。第一王子。あいつが訓練場に来てた。剣の練習をしてた」
「ルシアンが剣を?」
「ああ。下手くそだけど、必死にやってた。マティアスが見てた。横で」
ルシアンが剣の訓練。マティアスの監視下で。
「コンラート。ルシアンの剣はどうだった?」
「下手だって言ったろ。基本ができてねえ。振り方が雑。でも」
「でも?」
「目が本気だった。あいつは——強くなりたいんだ。本気で」
ルシアン。十三歳の第一王子。王太子を追い落とそうとする野心家。
だが剣の訓練に本気で取り組んでいる。
「マティアスの指示?」
「どうだろうな。マティアスは見てただけで、指示はしてなかった。ルシアンが自分で来て、自分で練習してた。マティアスはちょっと困った顔してた」
「困った顔?」
「ああ。計画にない行動を取られた、って感じの。あいつはルシアンを操ってるつもりだろ。でもルシアンは操られてるだけじゃねえ。自分で動き始めてる」
「ルシアンは——自分の意志で動いている」
「ああ。あの目は殿下と似てた。自分で考えてる目だ」
自分で考えるルシアン。それは脅威でもあり、希望でもある。
「コンラート。ルシアンのこと、もう少し見ていて」
「了解。俺は見るだけだぞ。話しかけたりはしねえ」
「うん。見るだけでいい。ルシアンが何を考えているか、知りたい」
「分かった」
コンラートが訓練場に戻っていった。
セレスティアは王宮の廊下を歩いた。背後にカスパルの気配を感じながら。
三歩先をカタリナが歩いている。赤い髪を結い上げた護衛騎士。足音が静かだ。
廊下の角を曲がると、窓から神殿の尖塔が見えた。
カタリナがほんの少し、足を緩めた。
「……あの神殿には、古い記録が眠っています」
「古い記録?」声を落とした。カスパルには届かないほどの。
「光の歴史と呼ぶものです。いつかお伝えできる時が来るかもしれません。まだ時期ではありませんが」
「カタリナ。それは——エステルのことですか」
カタリナの背中が、一瞬だけ止まった。
「……その名前を、お嬢様はご存知でしたか」
「少しだけ。名前だけ」
カタリナはまた歩き始めた。表情は変わらない。ただ声が、わずかだけ変わっていた。
「時期が来たら、お話します」
それだけだった。
◇
夕刻、王宮に割り当てられた控えの間で、ナターシャが扉を閉めて声を落とした。
「今日のカスパルの動きを確認しました。書記室に立ち寄っています。南方の国境に関する文書を閲覧したと思われます」
「南方の偽情報を信じた、ということ」
「はい。宰相が裏取りを命じたのでしょう。偵察隊の話を確認しようとしている」
偽情報が機能している。宰相の目線が南へ向いている。その間に、こちらは別の場所を動かす。
「次の情報は三週間後。それまでは静かにして」
「承知いたしました」
ナターシャが頷いた。羊皮紙に何かを書き留めながら。
「それと、もう一つご報告があります」
「何?」
「ルシアンのことです。コンラート様がご報告された訓練場の件——あの後、マティアスがルシアンに何かを言っていたのを確認しました。ルシアンは険しい顔をしていました」
「険しい顔?」
「はい。言われたことを嫌がっている、という表情です。コンラート様がおっしゃった通り、ルシアンはマティアスの指示を全て聞いているわけではないようです」
「……そう」
自分で動き始めているルシアン。それが何を意味するのかは、まだ分からない。だが、知っておくことは大事だ。
「ルシアンのことも、少し調べておいて。深入りしなくていい。ルシアンが何を望んでいるか——分かる範囲で」
「承知いたしました」
しばらく黙って、ナターシャが言った。
「お嬢様。今日、アレクシス殿下が廊下でお嬢様の方向を三度振り返られていました。コンラート様が隣で困ったお顔をされていましたが」
セレスティアは小さく笑った。
「三度、ね」
「はい。三度」
婚約者。その呼び名が、少しずつ馴染んでくる。政治の道具としての婚約者ではなく、もう少し別の何かとしての婚約者。その「別の何か」には、まだ名前がない。それでいい。今はまだ、探している。
「明日の午後、アレクシスに石段に来るか聞いてみる」
「ぜひ、そうなさってください」
ナターシャが静かに微笑んだ。
◇
夜、窓から王都の明かりが見えた。
カスパルがメモを取った。宰相の目線が南へ向いた。コンラートがルシアンを見ている。ナターシャが全てを記録している。
小さな動き。音のない積み重ね。
今日も一日、積んだ。
ランプを消した。




