婚約者の名前
婚約発表の翌日、セレスティアは昼休みに学園の石段へ向かった。
昨日から、周囲の空気が変わっていた。廊下を歩くと視線を感じる。食堂では小声で話す声が聞こえる。婚約の話題が学園中に広がっている。当事者二人は、それぞれ別の場所で、その視線を受けながら朝を過ごした。
アレクシスが来た。
一人で来た。護衛を離して。それは珍しいことだった。王太子が護衛なしで歩くのは、規則に反する。だがアレクシスは今日、一人で石段に来た。制服の胸元に、昨日から小さなリボンが付いている。学園の規則にある、公式な婚約者の印だ。
「一人でよかった?」
「うん。ルートは言ってある。でも——ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、一人で来たかった?」
「うん」
セレスティアは石段を少しだけ横にずれた。隣に座る場所を作った。
アレクシスが座った。
十一歳の王太子。金髪。澄んだ青い目。昨日の発表の緊張が、まだ少し残っている顔だ。でも今は、王太子の仮面より、十一歳の少年の顔の方が表に出ている。
「昨日、色々あって、ゆっくり話せなかったから」
「そうだね」
昨日は、発表の後すぐに人に囲まれた。貴族院からの使者。学園長の挨拶。フリーデリケたちの祝福。宰相側の視線。忙しい一日だった。二人だけで話す時間が一度もなかった。
「セレスティア」
「うん」
「怖かった?」
「何が」
「婚約。嫌じゃなかった?」
セレスティアは石段の下を見た。中庭に生徒たちが歩いている。普通の昼休み。昨日から、世界は何も変わっていない。ただ自分たちの関係に、名前がついただけだ。
「怖くはなかった。でも」
「でも?」
「本当にいいのかな、って」
「何が?」
「わたしが、殿下の隣にいて、いいのかな」
一拍、アレクシスが黙った。
「それは、どういう意味?」
「殿下には、もっとふさわしい人がいるかもしれない。わたしは色々、隠していることがあるし、全部話せるわけじゃないし」
「知ってる」
「知ってて、いいの?」
「うん」
アレクシスは正面を向いて言った。
「五歳の時から、セレスティアは何かを隠してた。でも——一度も嘘はついてない。知っていることを話してくれた。一緒に考えてくれた。六年間、手紙をくれた」
六年間。五歳から十一歳まで。
「ラベンダーの押し花、今でも持ってる」
「……全部?」
「全部。六年分」
セレスティアの喉が詰まった。
全部持っている。六年分。学園の机の引き出しにあるのか、王宮の部屋にあるのか——そこまでは聞けなかった。でも、全部。捨てていなかった。
「それに」
アレクシスが続けた。
「ぼくも隠してることがある。王太子だから言えないことが、たくさんある。お互い様だと思ってる」
「殿下にも」
「うん。ぼくも完璧じゃない。全部話せるわけじゃない。でも——二人でいると、何か上手くいく気がするんだ。なんでか、うまく言えないけど」
セレスティアは前を見た。
◇
二人で石段に座っていた。
風が吹いて、中庭の木が揺れた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。それでも沈黙が苦しくなかった。中庭では他の生徒が昼食を食べている。遠くで誰かの笑い声がした。普通の昼休み。
「一つだけ聞いていい?」
セレスティアが言った。
「何?」
「殿下は、わたしのことを好き? その……婚約者として、じゃなくて。友達として、じゃなくて。その、どちらでも、ない意味で」
言葉が止まった。
アレクシスの耳が赤くなった。金髪の下で。
「……分からない」
「分からない?」
「まだ、うまく言葉にできない。でも——セレスティアのことを考えると、他のことが考えられなくなる。それって、どういう意味なのかな」
「知らない。わたしも同じだから」
「同じ?」
「うん」
アレクシスが横を向いた。セレスティアも横を向いた。目が合った。
「じゃあ、一緒に分かっていこう。時間はある」
「うん。時間はある」
アレクシスが前を向いた。
「セレスティア」
「なに」
「これから、ぼくのことをアレクシスって呼んでほしい。殿下じゃなくて。二人だけの時は」
「……アレクシス」
「うん」
「変な感じがする」
「そのうち慣れる。ぼくが先に慣らしておく」
「先に慣らす?」
「うん。ぼくは六年間、心の中で名前を呼んでた。だからもう慣れてる」
セレスティアは笑った。
「ずるい」
「ずるくない。先行投資だ」
「先行投資って言葉、どこで覚えたの」
「フェリクス兄様から学んだ」
「フェリクスお兄様の言葉だ」
二人で笑った。石段の上で。昼の光の中で。
しばらくして、足音が聞こえた。石段の下から。
「セレスティアさまー! 殿下と二人でいる!!」
フリーデリケの声が響いた。
続いてリディアが来た。アネリーゼが来た。三人とも、石段の下で足を止めた。
「……邪魔だったか?」とアレクシスが言った。
「全然」とセレスティアが言った。
「ですよね! お邪魔します!」
フリーデリケが石段を駆け上がってきた。リディアが小声で「南方では、新しく婚約した二人には最初の三日間は邪魔しない慣習がある」と言った。「本当の慣習?」とアレクシスが聞く。「……たぶん」とリディアが答えた。
アレクシスが笑った。「たぶんか」。いつもの石段の反応。
アネリーゼが「おめでとうございます、殿下」と静かに言った。
「ありがとう。アネリーゼ」
五人分のパンを取り出したフリーデリケが、せっせと配り始めた。いつも通りの石段。婚約しても、石段は変わらない。パンは丸くて、リディアは諺を言い、アネリーゼは静かに微笑む。
アレクシスが「ここが好きだ」と小声で言った。
「石段が?」
「石段も。ここにいる全員が」
セレスティアはパンをかじった。甘かった。蜂蜜の味。
コンラートのことを思った。今日は来ていない。訓練の日だ。でも——いつかきっと来る。石段は、そういう場所だ。誰かがいて、誰かが去って、また戻ってくる。
◇
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
アレクシスが立ち上がった。セレスティアも立った。
「じゃあ、また」
「うん」
「セレスティア」
「なに——アレクシス」
もう一度、名前だけで呼んでみた。
アレクシスの目が、ぱっと明るくなった。照れを隠して、前を向いた。
「……慣れてきた?」
「すこし」
「良かった」
アレクシスが石段を下りていった。中庭の向こうへ。護衛が遠くで待っている。
セレスティアは石段の上から、その背中を見ていた。
金色の髪。真っ直ぐな背中。
六年分のラベンダーを持っている背中。六年分の手紙を全部取ってある人。
あの人の六年分と、わたしの六年分は違う。でも同じ長さ、同じ時間を、それぞれで過ごした。
分からない。好きかどうか。それが何なのか。
でも——分かっていきたいと、思った。
時間はある。
この人と一緒に、時間がある。
「アレクシス」
誰もいない石段の上で、もう一度呼んでみた。
慣れてきた。
六年分のラベンダーを持っている人。全部、捨てずに取ってあった人。
分かっていけたら、と思った。ゆっくりと。焦らずに。六年かかってもいい。六年分の手紙のように。
もしかしたら——六年では足りないかもしれない。でも、足りなければ七年でも八年でも。それだけ時間がある。
春の風が吹いた。石段に昼の明るい光が差し込んでいた。




