婚約受諾
セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢と王太子アレクシス・レグナシオン殿下の婚約が正式に発表され、貴族院から王宮、学園、街へと王国中に伝わった。
反応はさまざまだった。
◇
学園の石段では、フリーデリケが顔を真っ赤にし、息を切らして駆け上がってきた。
「婚約おめでとうございます!!」
「セレスティアさま、王太子殿下と! すごい! すごい!」
「フリーデリケ、落ち着いて。息して」
「息してる! してるけど興奮して! ねえ、ドレスは何色にするの? 式はいつ? お花は?」
「まだ婚約だから。結婚はずっと先」
「でもでも、王妃様になるの? セレスティアさまが?」
「いつか、ね。ずっと先」
「すごい。わたしの友達が王妃様になる。信じられない」
フリーデリケの目がきらきらしていた。純粋な喜び。計算も利害もない、ただの喜び。
リディアが横から言った。
「南方では、婚約した女性には友人が花冠を贈る風習がある」
「本当の風習?」
「本当。たぶん」
「たぶんか」
「少なくとも、わたしの祖母はそうしていた」
リディアが鞄から花を取り出した。小さな野花を編んだ花冠。いつの間に作ったのか。
セレスティアの頭にそっと乗せた。
「おめでとう。セレスティア」
リディアの声がいつもと違った。嘘の諺を言う時の軽い声ではなく、静かで、温かい声。
「リディアさま」
「あなたがこの国の王妃になるなら、南方にも、希望がある」
リディアの目に、微かな涙が光った。
アネリーゼが手を合わせた。
「セレスティアさま。神殿の祝福を」
「いいよ、アネリーゼ。祝福より、一緒にパン食べよう」
「……はい」
アネリーゼが微笑んだ。静かな微笑み。いつも通りの、アネリーゼらしい表情だった。
四人で石段に座った。パンを食べた。花冠を被ったまま。
「セレスティアさま、花冠似合う!」
「ありがとう」
「王妃様になっても、石段に来てくれる?」
フリーデリケの声が、ほんの少し不安そうだった。
セレスティアはフリーデリケの目を見た。
「来るよ。絶対に」
「約束?」
「約束。王妃になっても、石段でパンを食べる。フリーデリケと」
「……よかった」
フリーデリケが笑った。安心した笑顔。
◇
昼休みの終わり。コンラートが石段に立ち寄った。訓練を終えて来たのだろう。
「おめでとう」
短く言った。
「ありがとう、コンラート」
「殿下が今日、訓練で二度転んだ」
「え?」
「俺が軽く打っただけなのに。頭がどこかへ行ってたんだろ」
コンラートが少し笑った。珍しいことに。
「……アレクシスのこと、よろしくね」
「ああ。いつもどおりにする」
いつもどおり。その言葉が、全てを言い表していた。
コンラートはすぐに行ってしまった。訓練場の方向へ。剣士らしい、短い挨拶。でもそれで——十分だった。
◇
王宮では、婚約発表を受けて宰相が動いた。
「予定通りだ」
宰相の書斎。蝋燭の明かりの中で、宰相は微笑んだ。
「アルヴェイン嬢が婚約を受けた。婚約者になれば、動機が生まれる」
動機。王太子暗殺の動機。
婚約者だからこそ、王太子を害する理由がある。王太子が死ねば、婚約者は次の王位継承者を操れる。——そういう筋書きを、宰相は描いている。
だが宰相は知らない。セレスティアがこの罠を知っていることを。
「マティアス。学期末の魔力演習の準備は」
「進行中です。あと一月で」
「一月。十分だ。演習の場で、アルヴェイン嬢の聖魔力を暴発させる。多数の目撃者の前で。それが証拠になる」
宰相は微笑んだ。
だがその微笑みの裏で、別のことを考えていた。
イザベラ。
娘が報告書の証拠価値を下げた。娘が——二度、アルヴェイン嬢に有利な行動を取った。
だが、公爵家へ情報を渡した証拠はない。密書も、使者も、説明のつかない接触記録もなかった。疑いはある。処分するには足りない。断定できないように動く術を教えたのは、ほかならぬヴィクトール自身だった。
三度目があれば、対処する必要がある。
娘であっても。
「マティアス。イザベラをしばらく監視しろ」
「……イザベラ嬢を? 閣下のお嬢様を?」
「娘だからこそ、だ。身内の裏切りは、外部の攻撃より危険だ」
マティアスは頷いた。
宰相は蝋燭の炎を見つめた。
娘を監視する。
三十五年前の同僚を排除した時と同じ冷徹さで。
感情は排除する。
だが、蝋燭の炎が揺れた時、宰相の目に、一瞬だけ何かが過った。
苦痛か。後悔か。
一瞬で消えた。
鷹の目が戻った。
◇
婚約発表の翌日、セレスティアの部屋を母リリアーナが訪ねてきた。
「セレスティア。お話があるの」
「お母様。ドレスの話?」
「ドレスの話もあるけれど。その前に」
リリアーナがセレスティアの手を握った。
「お母様は嬉しい。エレオノーラの息子と、わたしの娘が結ばれるなんて」
「お母様と王妃様は、学生の頃からの親友なんだよね」
「ええ。一番の友達。宰相に引き離されても、心はずっと繋がっていた」
「お母様の花の手紙が全てを変えた」
リリアーナが微笑んだ。
「花の手紙なんて、大したことじゃないわ。でもあの手紙がブリュンヒルデ男爵を動かした。男爵の奥様が好きだったラベンダーの話を書いただけなのに」
「お母様。一つ聞いていい?」
「なあに」
「お母様は、お父様との結婚、後悔してない? 政略結婚だったのに」
リリアーナは少し驚いた顔をした。そして笑った。
「最初はね。お父様とは恋愛ではなかった。家同士の取り決め。顔も知らなかった」
「それで?」
「でもね。結婚して、一緒に暮らして、あなたたちが生まれて。今は、この人と結婚してよかったと思ってる」
「いつから?」
「いつからかしら。はっきり覚えていないの。気づいたらそうなっていた。大きな出来事があったわけじゃない。毎日一緒にご飯を食べて、一緒に子供の成長を見て、一緒に悩んで。その積み重ねで」
「お母様。わたしもそうなれるかな。アレクシスと」
「なれるわよ。あなたたちはもう信頼し合っている。お母様とお父様より、ずっと良いスタート地点にいるわ」
リリアーナがセレスティアの頭を撫でた。
「あなたが選んだ道なら、お母様は信じる。何度でも」
「お母様」
「でもね、セレスティア。一つだけ」
「なに」
「無理しないで。全部自分で背負わないで。お母様も力になれるから」
リリアーナの目が少し潤んでいた。
「……ありがとう、お母様」
「ありがとうはこっちのセリフよ。あなたがいなかったら、お母様は、もうこの世にいなかった」
「お母様を救えてよかった。本当に」
声が震えた。本当に。心の底から。
◇
その夜、セレスティアは分析ノートに記した。
『婚約を受けた。
宰相は「予定通り」と微笑んでいるだろう。
わたしも「予定通り」と微笑む。
お互いが罠を仕掛け合っている。
だがわたしは宰相の罠を知っている。
宰相はわたしの罠を知らない。
フリーデリケが花冠をくれた。
リディアが編んでくれた野花の冠。
王冠よりずっと重い。
明日には萎れるかもしれない。でも——今夜は、ここにある。
お母様が「信じる」と言ってくれた。
お母様を救えてよかった。本当に。
セレスティア 十一歳の春に記す』
ノートを閉じた。
枕の下にラベンダー。部屋の水差しに野花の花冠。南方の木の実。
三つの香りを抱えて、目を閉じた。夜風が窓から入ってきた。
明日から婚約者としての日々が始まる。
罠の道を。仲間と共に歩く。
すぐに眠りが来た。夜が、ゆっくりと静かに過ぎていった。




