テオドールの確保
テオドールに会うため、王都から馬車で半日の距離にある公爵家の別邸へ向かった。普段は使われていない小さな屋敷で、周囲を森に囲まれ、人目につかない。
フェリクスとヴォルフが先にテオドールを保護して、ここに匿っている。
「お嬢様。テオドールは怯えています」
ナターシャが馬車の中で言った。
「フェリクス様が接触した際も、最初は逃げようとしたそうです。ヴォルフ様が押さえて」
「押さえた? 力ずくで?」
「いえ。ヴォルフ様が扉の前に立っただけで、テオドールは座り込んだそうです」
「テオドールは話してくれるかな」
「分かりません。ですがお嬢様が直接会えば、変わるかもしれません」
◇
別邸に着くと、手入れはされているが質素な玄関で、フェリクスが待っていた。
「セレス。来たか」
「お兄様。テオドールは?」
「二階の客間にいる。一つ言っておく。あの男は壊れかけている」
「壊れかけている?」
「精神的に。マティアスの下で、脅され続けたらしい。『言うことを聞かなければ家族に危害が及ぶ』と」
家族。テオドールには妻と幼い娘がいる。
「家族は?」
「ナターシャの情報網で確認済みです。妻と娘は地方の親族の元に。今のところ無事です」
「保護できる?」
「父上に依頼済みです。近日中に安全な場所に移す手配をしています」
「ありがとう、お兄様」
フェリクスが微笑んだ。
「僕は研究室に戻っている。魔力暴走装置の分析が佳境だ。テオドールとの話は、セレス、お前に任せる」
「うん」
「あと一つ。あの男を見て、怒らないでくれ」
「怒る? なぜ」
「あの男が報告書を書いた。セレスティアの幼少期の異常を記録した。それが宰相の手に渡った」
「知ってる」
「知っているなら分かるだろう。あの男はお前を傷つける情報を、宰相に売った」
「……売ったんじゃない。売らされたの」
フェリクスの目が少し見開かれた。
「お前は、あの男を、恨んでいないのか」
「恨んでない。テオドールは脅されただけ。悪いのは脅した側」
フェリクスは数秒、妹の目を見つめた。何を思ったのか、小さく息を吐いた。
「お前は本当に、十一歳か」
「その質問、流行ってるの?」
「いや。行ってこい」
◇
二階の客間の扉を開けると、カーテンを閉ざした薄暗い部屋で、テオドールが窓際の椅子に座っていた。
四十代半ばの男は痩せ、目の下には深い隈があった。髪は乱れ、髭は伸び、服も皺だらけだ。怯えた目がセレスティアを見た。
「テオドールさん」
セレスティアは椅子を引いて、テオドールの向かいに座った。目線を合わせた。
「お、お嬢様……」
テオドールの声が震えた。椅子から立ち上がろうとして、膝が笑って、座り直した。
「座っていて。立たなくていい」
「し、しかし、公爵家のお嬢様に」
「いいの。座って」
テオドールは座った。両手を膝の上で組んでいる。指が震えている。
「テオドールさん。わたしの手紙、読んでくれた?」
「は、はい。助けてくださいと、書きました」
「うん。助けに来た」
テオドールの目が揺れた。信じられない、という顔。
「で、ですが、わたしはあなたのことを報告書に……」
「知ってる。わたしの三歳の頃のことを調べて、報告書を書いたのも知ってる」
テオドールの顔が蒼白になった。
「す、すみません。すみません。あの人たちに、マティアス様に命じられて、断れなくて」
「テオドールさん」
セレスティアの声は穏やかだった。
「怒ってない。恨んでもいない」
「……え」
「あなたは脅されたの。家族を人質にされた。断れなかった。それは、あなたのせいじゃない」
テオドールの目から涙が落ちた。
「奥様と娘さんのことは、うちの家族が保護します。安全な場所に移す。もう脅されない」
「ほ、本当ですか」
「本当。約束する」
テオドールが崩れた。椅子から滑り落ちるように膝をつき、両手で顔を覆う。四十代の男が押し殺そうとする嗚咽が、指の隙間から漏れた。
セレスティアは黙って待った。泣き終わるまで。長い時間がかかった。
やがてテオドールが顔を上げた。目が赤い。鼻が赤い。でも目の中の恐怖が、少しだけ薄らいでいた。
「お嬢様。わたしに何ができますか」
「聞きたいことがある。テオドールさんに答えてもらいたいことが」
「何でも。何でもお答えします」
「報告書のこと。あなたが集めた証言は、全て事実?」
「……はい。事実です。ギーゼラの証言も、ハンスの証言も。わたしが嘘を混ぜたりはしていません」
「うん。それは分かってる。事実だから問題なの」
テオドールが首を傾げた。
「事実が問題?」
「宰相はあなたの報告書を、わたしへの攻撃に使おうとしている。『三歳で薬草を知っていたのは禁忌の魔術のせいだ』と。でもそれは事実の解釈が間違っている。薬草を知っていたのは事実。でも禁忌の魔術ではない」
「では何なのですか」
セレスティアは答えられなかった。前世の記憶とは言えない。
「……言えない。ごめんなさい。でも禁忌の魔術ではないことだけは、信じてほしい」
テオドールは長い間セレスティアの目を見つめ、それから頷いた。
「信じます」
「なぜ?」
「お嬢様が三歳の時のことを覚えています。わたしはあの頃、公爵邸の下働きでした。お嬢様が台所に来て、ギーゼラに白湯をもらっていた」
「……覚えてるの」
「はい。小さなお嬢様が、一人で台所に来て。ギーゼラが驚いて。お嬢様は薬草の名前を言った。わたしは隣の部屋で聞いていた」
テオドールの声が少し温かくなった。
「あの時のお嬢様の目は怖いものではなかった。必死でした。何かを守ろうとしている目。三歳の子供が、奥方様を守ろうとしている目」
「……」
「報告書には事実だけを書きました。でもあの目のことは書かなかった。書けなかった。事実ではなく、わたしの印象だから」
「目のこと」
「お嬢様。あなたは三歳の時から、誰かを守ろうとしている目をしていた。そういう目をする子供が、禁忌の魔術を使っているとは、わたしには思えない」
セレスティアの目が潤んだ。
「テオドールさん。もう一つお願い」
「はい」
「いつか法廷に立ってもらうかもしれない。宰相を裁くための法廷に。その時、証言してほしい。報告書を書かされた経緯。脅迫されたこと。マティアスに命じられたこと。全て」
テオドールの顔が引き締まった。
「……あの人たちに逆らうことになる」
「なる。怖いと思う。でも家族は守る。あなた自身も、公爵家が、わたしが守る」
テオドールはしばらく沈黙した。そして頷いた。小さく。だが確かに。
「お嬢様。わたしは臆病な人間です。ずっと。あの人たちに逆らえなかった。怖くて」
「うん」
「でも、もっと怖いことがあった。あの報告書がお嬢様を傷つけることが。三歳の時に奥方様を守ろうとした子供を、わたしの言葉で傷つけることが」
「テオドールさん」
「法廷に立ちます。その時が来たら、わたしの言葉で、今度は真実を」
テオドールが初めて、まっすぐにセレスティアの目を見た。
怯えはまだある。でもその奥に、決意の光があった。
◇
帰りの馬車で、セレスティアは窓の外を見ていた。
「ナターシャ」
「はい」
「テオドールの家族の保護、急いで」
「既に手配しております。三日以内に」
「ありがとう。あとね」
「はい」
「テオドールにちゃんとした食事を。痩せすぎてる」
ナターシャが微笑んだ。
「承知いたしました。マルガレーテに頼みましょう。あの方の料理なら、痩せた男も太ります」
「マルガレーテの料理は凶器だからね。おいしすぎて」
二人は馬車の中で笑い合った。窓の外では、夕焼けが空を染めていた。




