アレクシスの本心
午後の王宮庭園には、赤と白と淡い紫の薔薇が咲いていた。王妃エレオノーラが手入れさせている庭園だ。
セレスティアは庭園のベンチに座っていた。隣にアレクシスがいた。
護衛はコンラートだけ。少し離れた場所に立っている。聞こえない距離。だが何かあればすぐに駆けつけられる距離。
「……庭園で二人きりって、変な感じだな」
アレクシスが言った。照れを含んだ声。
「石段の方がよかった?」
「石段だとフリーデリケが来るだろ。あの子がいると、真面目な話ができない」
「フリーデリケのせいじゃないでしょう。アレクシスが、パンに負けるだけ」
「パンに負ける……否定できないのが悔しい」
笑い合った。だがすぐに空気が変わった。
「婚約の件」
アレクシスの声が変わった。少年の声から、王太子の声に。
「うん」
「貴族院からの推挙だ。正式な手続き。断ることもできるが、政治的には受けるのが自然だ」
「アレクシスはどう思う?」
「……」
アレクシスは薔薇を見ていた。淡い紫の薔薇。
「正直に言う」
「うん」
「君のことは、嫌いじゃない」
セレスティアの心臓が小さく跳ねた。
「友人として。信頼している。尊敬もしている。君がいなければ、僕は宰相の操り人形のままだった。それは感謝している」
「でも?」
「でも、政治で決められる婚約は、嫌だ」
アレクシスの目が真っ直ぐだった。風属性の澄んだ目。
「僕の母上は政略結婚で王妃になった。父上との間に、最初は愛情なんてなかったと聞いている。後から育ったけれど」
「うん」
「僕は最初から、自分で選びたい。政治が決めた相手ではなく、自分が選んだ相手と」
胸が痛んだ。
「わたしも同じ」
「え?」
「わたしも、政治で決められるのは嫌。でもアレクシス、これはわたしたちだけの問題じゃない」
セレスティアは深呼吸した。
「婚約を受ければ、わたしはアレクシスの傍にいられる。王宮に出入りできる。宰相派の動きを間近で見られる。アレクシスを守れる」
「君が僕を守るか。逆だろう。僕が君を守るべきだ」
「どっちでもいい。お互いを守ればいい」
アレクシスが目を見開いた。そして笑った。
「お互いを守る。それは僕の母上と父上みたいだな」
「王妃様と国王陛下?」
「ああ。母上は摂政として国を守っている。父上は病床から母上を支えている。お互いを守っている。あれが、結婚ってことなのかもしれない」
「アレクシス。わたしはあなたに嘘をつかないと約束した。だから正直に言う」
「うん」
「婚約を受ける理由は、政治的な計算がある。それは否定しない。あなたの傍にいることで、宰相の動きを監視できる。それはわたしにとって大きな利点」
「……正直だな」
「嘘はつかないって約束したから。でも、もう一つ理由がある」
「もう一つ?」
セレスティアは指を組んだ。そして、言った。
「あなたのことが、嫌いじゃない」
アレクシスの顔が赤くなった。十一歳の少年の、素直な反応。
「……それは」
「友人として。信頼している。尊敬もしている。あなたが自分で考え、自分で答えを出す人だと知っている。その人の傍にいたい。政治だけじゃなく」
「……」
「でも今はまだ友人。それ以上のことは、もっと大きくなってから考えればいい」
アレクシスは黙っていた。顔はまだ赤い。風が吹いた。薔薇の花びらが舞った。淡い紫の花びら。
「……分かった」
アレクシスの声は上ずっていた。
「婚約は受ける。政治的な理由もある。でもそれだけじゃない」
「うん」
「君の傍にいたい。僕もそう思う。友人として。そして、いつか、それ以上に」
「いつか」
「いつか」
二人で同じ言葉を繰り返した。
「いつか」の約束。十一歳の「いつか」は遥かに遠い。でも確かにある。
「……あのさ」
「なに」
「こういう話を石段でしなくてよかった。フリーデリケに聞かれたら」
「一生からかわれる」
「間違いなく」
「リディアが南方の結婚の諺を十個くらい作る」
「全部嘘のやつだろ」
「たぶん」
淡い紫の花びらが舞う薔薇の庭園で、十一歳の少年と少女は笑い合った。こうして婚約は決まった。
◇
帰り際。コンラートが近づいてきた。
「話は済んだか」
「済んだ」
「殿下の顔が赤い。風邪か?」
「風邪じゃない。暑いだけだ」
「春だぞ。そんなに暑くないだろ」
アレクシスが咳払いした。セレスティアは笑いを堪えた。コンラートが首を傾げた。
「なんか変だな。二人とも」
「変じゃない」
「変じゃない」
同時に言った。コンラートがますます首を傾げた。
「……まあいいや。殿下、帰ろう。訓練の時間だ」
「ああ」
アレクシスが歩き出した。振り返った。
「セレスティア」
「なに」
「明日、石段で。いつも通り」
「いつも通り」
「パン、頼むぞ。フリーデリケに」
「自分で頼んだら?」
「フリーデリケは僕に緊張するんだ。お前から頼んだ方がパンが美味くなる」
「パンの味は頼む人で変わらないでしょう」
「変わる。気分の問題だ。フリーデリケの機嫌が良い方が、焼き加減がいい」
「それは一理ある」
セレスティアは笑って手を振り、庭園を出ていくアレクシスとコンラートを見送った。
一人残ったセレスティアは、淡い紫の薔薇の前に立っていた。
「いつか、か」
呟いた。薔薇の花びらが一枚、風に舞った。淡い紫。遠くへ、どこまでも。
その言葉がまだ胸の中で鳴っていた。十一歳で言い合った「いつか」は、まだ形もない。それでも確かにここにある。
「いつか」を守るために積む。
セレスティアは庭園を出た。明日のパンを、フリーデリケに頼みに行こう。
「アレクシスが丸いのがいいって」
「えっ!? 殿下が直接注文を??」
フリーデリケが目を丸くした。
「いや、ちょっと待って。殿下が、わたしのパンを丸くしてほしいって言ったの?」
声が少し震えていた。緊張しているのか、感動しているのか。
「フリーデリケ、大丈夫?」
「だ、大丈夫です!! 明日は絶対に一番丸くて一番おいしいやつを焼きます!!」
「気合い入りすぎでしょう」
「当たり前でしょ! 王太子殿下のリクエストですよ!? 蜂蜜も多めに入れます。蜂蜜は幸せな味だから、幸せなことには蜂蜜が必要です」
「……それは一理ある」
「一理どころか十理あります」
フリーデリケが断言した。笑い合った。
フリーデリケが声を落とした。「庭園、どうでした」
「秘密」
「ですよね」フリーデリケが笑った。「おめでとうございます。どんな秘密でも」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かります。セレスティアさまの顔が、ちょっとだけゆるんでる」
セレスティアは思わず頬に触れた。ゆるんでいたのか。自分では気づいていなかった。
嘘だ。アレクシスは形の注文はしていない。でもフリーデリケは張り切るだろう。日常が続けば、それでいい。
◇
その日の夕方、ナターシャに報告した。「庭園での話がまとまりました」
「婚約を受けることに?」
「うん」
ナターシャは少し間を置いた。
「……おめでとうございます、お嬢様」
静かに、小さな声で言った。
「ありがとう、ナターシャ」
ランプの光が、部屋を温かく照らしていた。薔薇の庭園が、目の奥にあった。淡い紫。前世では、この婚約が罠になった。




