婚約の圧力
婚約の話が、前世と同じタイミングで来た。貴族院から公爵家への正式な打診を記した、格式高い封蝋の手紙だった。
『セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢と、王太子アレクシス・レグナシオン殿下の婚約を正式に結ぶことを、貴族院として推挙する』
父の書斎で、その手紙を読んだ。
手紙の羊皮紙は上質だった。封蝋の紋章は貴族院の印。重い。物理的な重さではなく、その文字が持つ重さが、指先に伝わってくるようだった。
父は黙っていた。母も黙っていた。
書斎に午後の光が差し込んでいた。窓の外で風が木を揺らしている。平和な音だ。この手紙の中身と、窓の外の景色が、ひどく噛み合わなかった。
セレスティアだけが声を出した。
「来た」
前世と同じ。十一歳で婚約の打診。貴族院からの推挙。公爵家と王家の同盟の証。
歴史の慣性力。フェリクスの言葉が蘇る。
前世と同じ出来事が、形を変えて、再び起きる。流れの中にいる間は気づかない。流れに逆らおうとして初めて、どれほど大きな力かが分かる。
「セレスティア。この件は」
父が口を開いた。
「知ってる。政治的な婚約。公爵家と王家の同盟を盤石にするため」
「受けるか、断るか。お前の意見を聞きたい」
セレスティアは目を閉じた。
記憶が囁く。前世で婚約が罠になった時のことを。婚約者だからこそ、「王太子暗殺未遂」の動機があると見なされた。婚約者でなければ成り立たない嫌疑だった。
今世でも同じ罠が待っているかもしれない。
「断れば、安全?」
呟いた。自分に問いかけるように。
「断れば、婚約者としての嫌疑はかけられない。処刑への道の一つを塞げる」
だが、断れば、別の問題が起きる。
公爵家と王家の同盟が弱まる。アレクシスの傍にいる口実がなくなる。宰相派がアレクシスに別の婚約者を押し付ける。たとえばイザベラを。
「断るのは、逃げだ」
「セレスティア?」
「お父様。わたし、受けたい」
父の目が見開かれた。母が息を呑んだ。
「受ける理由は三つ。一、アレクシス殿下の傍にいれば、宰相派の動きを間近で監視できる。二、殿下を宰相の影響から守れる。三」
三つ目を言うのに、少し時間がかかった。
「三、前世と同じ道を歩く。だが今度は違う結末にする」
父は「前世」という言葉を聞いて、眉を寄せた。だが問い詰めなかった。
母がセレスティアの手を握った。
「セレスティア。あなたは覚悟の上で言っているのね」
「うん。覚悟の上。罠だと分かって歩く道。でも、罠と知っていれば、避けられる」
「前世、と言ったわね。何のこと?」
「……言えない。ごめんなさい、お母様。今は言えない」
リリアーナの目が揺れた。娘の秘密。聞きたい。知りたい。でも。
「いいわ。あなたが言えない時は聞かない。でもね、セレスティア」
母が娘の頬に手を当てた。
「あなたが選んだ道なら、お母様は信じるわ」
「お母様……」
「わたしだって選んだのよ。摂政選出の時、エレオノーラを推す手紙を書いたのは、わたしの選択。怖かったけど。でも選んだ」
「知ってる。お母様の花の手紙。ブリュンヒルデ男爵に」
「ラベンダーの話を書いたの。男爵の奥様が好きだった花。それだけで男爵は動いてくれた」
「お母様。わたしも、花の手紙を書くような人間になりたい」
「なれるわよ。あなたはもうなっている」
「そうかな」
「フリーデリケちゃんへの手紙のこと、聞いているわよ。バラの花言葉。学園中に広まったって。あなたの手紙の話が」
知らなかった。フリーデリケが話したのか、それとも誰か別の人なのか。
「花の言葉は、相手が受け取ってくれた時に意味を持つのよ。あなたはもうそれを知っている」
母と娘は笑い合った。泣きながら。笑いながら泣いた。泣きながら笑った。書斎に静かな午後の光が差し込んでいた。
◇
その夜、ナターシャと二人きりの部屋には、ランプの光だけが灯っていた。ナターシャが茶の支度をする傍らで湯気が立ち上る。普通の夜の、普通の作業なのに、セレスティアは今日一日で何かが変わった気がしていた。
「ナターシャ。婚約を受ける」
ナターシャの手が、一瞬止まった。
「……お嬢様。承知いたしました」
「でも、怖い。前と同じ道を歩くのが」
「前と同じ」
ナターシャは深く聞かなかった。
この人は去年、自分から「前世」と口にした。六年かけて断片を繋いで、それを言った。言った上で、それ以上は一度も聞いてこない。
「お嬢様。一つ聞いてもよろしいですか」
「なに」
ナターシャが口を開いた。
そして、閉じた。
「……いえ。やめておきます」
「聞いていいよ」
「聞きません」
湯気の向こうで、灰色の目が伏せられた。
「今日も、聞いてほしそうな顔をなさっていませんので」
セレスティアは茶碗を見た。
この人は一年、待っている。急かしもせず、匂わせもせず、ただ隣で紅茶を淹れている。
「ナターシャ」
「はい」
「じゃあ、わたしから聞く」
「どうぞ」
「わたしが罠と知って歩く道に、あなたも一緒に来てくれますか」
ナターシャは一瞬、目を見開いた。そして微笑んだ。
「どこまでもお供します」
「危険かもしれない」
「危険でないお嬢様の傍は、わたしの記憶にはございません」
セレスティアは笑った。そうだ。わたしの傍は、いつも危険だった。三歳の頃から。この人はそれを承知で、ずっといる。
「ナターシャ。わたしたち、何年一緒にいるんだっけ」
「八年です。お嬢様が三歳の時から」
「八年。長いね」
「あっという間でした」
「嘘でしょ。わたしのせいで大変だったでしょう」
「大変でした。世界で一番大変な侍女です。でも」
ナターシャが、珍しく柔らかい表情をした。
「世界で一番誇らしい侍女でもあります」
「ナターシャ……」
「行きましょう、お嬢様。罠の道を。わたしはお嬢様の足元を照らします。いつものように」
「いつものように」
「はい。いつものように」
二人でお茶を飲んだ。夜が更けるまで。何を話したかは覚えていない。でも、そこにいてくれた。それで十分だった。
◇
翌日。セレスティアはアレクシスに手紙を書いた。
何度も書き直した。
最初の下書きは長すぎた。政治の話を全部書こうとした。宰相のこと。貴族院のこと。前世のこと。でも全部書いたら、手紙が重くなりすぎた。
二度目の下書きは短すぎた。「会いたいです」だけ。それだけでは、何も伝わらない。
三度目で、ようやく書けた。
『アレクシスへ。
婚約の話を聞きました。
直接会って話したいです。
石段ではなく、王宮の庭園で。二人きりで。
大切な話があります。
セレスティアより』
短い手紙だ。だが、この長さで良かった。「大切な話がある」という一言に、全てを込めた。アレクシスなら分かる。具体的に書かなくても、会えば伝わる。
手紙を封じた。押し花は入れなかった。今回は花より言葉だ。
封じた手紙を手の中で転がした。紙一枚なのに重い。アレクシスはどう思うだろう。婚約を、どう受け取っているのか。
政治は読める。人の動きも読める。でも、目の前の一人の少年の気持ちは読めない。それを確かめるために会う。
石段は全員の場所。庭園は二人の場所。今世では、そこから始めようと思った。
怖い。記憶が叫んでいる。「やめろ」と。「同じ道を歩くな」と。
でも、歩く。
アレクシスと対等に話す。政治の話を。そしてそれだけではない話を。
同じ道を、今度は違う覚悟で歩く。
翌日の夕方。アレクシスから返事が届いた。短い手紙。
「明後日の昼。庭園で。アレクシス」
日時が決まった。
庭園。想像した。石段ではなく、庭園で並んで話す。パンではなく、言葉だけを持って。同じ相手と、違う場所で、違う言葉を交わす。
それが、この二度目の始まりかもしれない。そう思ったら、少しだけ怖くなくなった。




