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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN
第5章 十歳の分岐と婚約

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嵐の前

 全ての勢力が動いていることを、セレスティアは感じていた。


 空気が変わった。摂政選出の直後の緊張とは違う。もっと低く、もっと重い。嵐の前の気圧の変化のような。


 ◇


 朝の石段に、セレスティアは誰よりも早く来て、一人で座っていた。いつもの昼食時ではない。


 まだ誰もいない石段。冷たい石。朝霧が中庭に薄く漂っている。


 ナターシャから夜通し報告を受けていた。眠れなかった。頭の中で状況を整理する。


 宰相ヴィクトール。テオドールの報告書を手にした。カスパルの離間は失敗したが、次の手を準備している。「聖魔力の脅威」を貴族院に問題提起する可能性が高い。これまでの手口からの推測だ。


 副宰相マティアス。国防強化法案を準備中。南方の脅威を利用して、宰相府に権限を集中させようとしている。


 第一王子ルシアン。イザベラとの連携を模索中。王太子を追い落とす野心。まだ子供だが、マティアスの教育を受けて急速に政治力をつけている。


 神殿。大神官シルヴェストルが聖魔力保有者の確保を狙っている。セレスティアへの「帰依の勧誘」は保留中だが、いつ動くか分からない。


 南方。アルマンド将軍がアルカディア旧領を制圧。レグナシオン国境に圧力。外患が内憂を加速させている。


 アレクシス。信頼を取り戻した。だがカスパルはまだ傍にいる。


 イザベラ。論理学の課題を装い、テオドールの報告書が既に宰相側へ渡ったと警告してくれた。固有名詞も証拠も残していない。四度目の選択。しかし、接触そのものを宰相に疑われる危険は消えない。


 テオドール。公爵家の別邸で保護中。だが報告書は既に流出。


 フェリクス。魔力暴走装置の分析を継続中。「誰がセレスティアの魔力を測定したか」の調査も開始。理論構築に二週間。


 ヘルマン。公爵邸への過去の来訪者記録を洗い直し中。


 「多い……」


 呟いた。変数が多すぎる。一つ一つは対処できる。だが全てが同時に動いている。


 「……怖い」


 声に出して言った。誰もいない石段で。怖い。


 心臓がとくん、と鳴った。闇がざわめいた。恐怖に反応して。それでも暴走しなかった。


 光と闇が同期している。フェリクスが解読したヨハンの答え。心臓が止まらない限り、同期は崩れない。


 恐怖はある。闇はざわめく。それでも制御できている。


 「恐怖と共に生きる」


 あの日決めた道。それは変わらない。


 ◇


 「セレスティアさまー! 朝から石段にいるの珍しい!」


 フリーデリケの声が中庭に響いた。朝の空気を切り裂くように明るい声。


 「おはよう、フリーデリケ」


 「おはよう! ねえ、目の下の隈がまた濃くなってる」


 「……ばれた」


 「ばれるよ。わたし、セレスティアさまの隈の濃さを毎日確認してるんだから」


 「毎日確認してるの?」


 「うん。昨日より今日の方が濃い。一昨日よりも」


 「それは……」


 「眠れてないでしょう。ラベンダー、もう一個作る?」


 「一個で足りてる。足りてるけど、昨夜は考えることが多くて」


 フリーデリケがセレスティアの隣に座った。鞄から包みを出した。


 「はい。これ」


 「パン?」


 「ううん。パンケーキ。寮の台所で焼いたの。蜂蜜入り」


 パンケーキ。丸くて、甘い香りがする。


 「朝ごはん食べた?」


 「……食べてない」


 「だと思った。食べて。甘いものを食べると頭がすっきりするって」


 フリーデリケが、母の言葉を口にしかける。


 「お母さんが言ってた。知ってる」


 二人で笑った。パンケーキをかじった。甘かった。蜂蜜の味。温かい。


 「……おいしい」


 「でしょ。レシピはお母さんのだけど、焼いたのはわたし。ちょっと焦げたけど」


 「焦げてるところが好き」


 「嘘でしょ」


 「嘘じゃない。カリカリして、おいしい」


 フリーデリケが嬉しそうに笑った。


 「フリーデリケ」


 「なに」


 「わたしね。もうすぐ大変なことが起きると思う」


 「大変なこと?」


 「うん。詳しくは言えないけど、大丈夫」


 「大丈夫?」


 「大丈夫。だって、石段があるから」


 フリーデリケは首を傾げた。


 「石段があると大丈夫なの?」


 「うん。石段にフリーデリケがいるから。パンケーキがあるから。ラベンダーがあるから。それだけで大丈夫」


 フリーデリケの目が、また少し潤んだ。


 「……わたし、何があっても石段にいるからね。毎日」


 「うん」


 「パンケーキも毎日焼くからね」


 「毎日はいいよ。太るから」


 「太ったっていいでしょ。セレスティアさま痩せすぎだもん」


 笑い合った。朝の石段で。朝霧が晴れていく中で。


 ◇


 昼休み、いつもの石段に、セレスティア、フリーデリケ、リディア、アネリーゼ、そしてアレクシスの五人が揃った。


 コンラートは王宮の訓練があるため今日はいない。だが、本人がいなくても、その言葉はここにある。パンを食べながら、何でもない話をした。


 「わたしの領地ね、今年は麦の出来がよくて」とフリーデリケが言った。「お父さんが珍しく手紙で喜んでた」


 「南方は乾燥が続いてる」とリディアが言った。「川の水位が例年より低い。羊の水飲み場に困ってるって、家から連絡が来た」


 「神殿には最近、南方から来た巡礼者が増えてるわ」とアネリーゼが言った。「不安な人が、光の神様に祈りに来てるのかもしれない」


 「南方の状況が落ち着けばいいんだけど」とアレクシスが静かに言った。


 リディアが言った。「南方では、嵐の前に家族が揃うって言うの。嵐の後より、嵐の前に揃う方が大事って」


 「本当の諺?」とフリーデリケが聞いた。


 「……半分くらい本当」とリディアが笑った。


 石段に風が吹いた。春の風。穏やかな静けさ。何でもない話。何の戦略もない話。それが全てだった。


 ◇


 夕方、自室でセレスティアは窓の外を見ていた。空は夕焼けに赤く染まっている。各勢力が動いている。嵐が近づいている。


 処刑への道は、まだ完全には消えていない。宰相は新しい角度から、同じ結論に向かって動いている。それでも。


 「運命よ」


 セレスティアは窓の外に向かって、声に出して言った。


 「私を殺したいなら、来なさい」


 夕焼けの赤い空に向かって。


 「今度は負けない」


 声は震えていた。それでも言えた。怖い。変数が多すぎる。


 けれど、仲間がいる。石段があり、ラベンダーがあり、温かなパンケーキがある。何より、心臓は確かな速さで動いている。


 光と闇が共鳴している。嵐よ、来い。今度は一人じゃない。


 ◇


 夜、自室の窓から月が見えた。ナターシャに報告書を渡した。今日の整理。各勢力の動き。明日確認すべきこと。


 「お嬢様」


 「なに」


 「眠れていますか」


 「……少しは」


 「今日の昼、石段から笑い声が聞こえました」


 「聞こえてたの?」


 「遠くから。……よかったと思いました」


 ナターシャが「おやすみなさい」と言って、部屋を出た。扉が閉まった。一人になった。


 月明かりが窓に差し込んでいた。明日も、明後日も、嵐は来るかもしれない。来ないかもしれない。けれど、いつか来る。準備しなければならないことは、まだ山ほどある。ふと、リディアの言葉が胸に戻ってきた。


 嵐が来る前には、家族が揃う。リディアの言葉どおり、今日の石段には五人が揃っていた。


 準備は明日も続く。けれど今夜は、あの石段の光景だけを思っていた。


 心臓が動いている。それだけで今日は十分だった。ラベンダーの香りがした。


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