嵐の前
全ての勢力が動いていることを、セレスティアは感じていた。
空気が変わった。摂政選出の直後の緊張とは違う。もっと低く、もっと重い。嵐の前の気圧の変化のような。
◇
朝の石段に、セレスティアは誰よりも早く来て、一人で座っていた。いつもの昼食時ではない。
まだ誰もいない石段。冷たい石。朝霧が中庭に薄く漂っている。
ナターシャから夜通し報告を受けていた。眠れなかった。頭の中で状況を整理する。
宰相ヴィクトール。テオドールの報告書を手にした。カスパルの離間は失敗したが、次の手を準備している。「聖魔力の脅威」を貴族院に問題提起する可能性が高い。これまでの手口からの推測だ。
副宰相マティアス。国防強化法案を準備中。南方の脅威を利用して、宰相府に権限を集中させようとしている。
第一王子ルシアン。イザベラとの連携を模索中。王太子を追い落とす野心。まだ子供だが、マティアスの教育を受けて急速に政治力をつけている。
神殿。大神官シルヴェストルが聖魔力保有者の確保を狙っている。セレスティアへの「帰依の勧誘」は保留中だが、いつ動くか分からない。
南方。アルマンド将軍がアルカディア旧領を制圧。レグナシオン国境に圧力。外患が内憂を加速させている。
アレクシス。信頼を取り戻した。だがカスパルはまだ傍にいる。
イザベラ。論理学の課題を装い、テオドールの報告書が既に宰相側へ渡ったと警告してくれた。固有名詞も証拠も残していない。四度目の選択。しかし、接触そのものを宰相に疑われる危険は消えない。
テオドール。公爵家の別邸で保護中。だが報告書は既に流出。
フェリクス。魔力暴走装置の分析を継続中。「誰がセレスティアの魔力を測定したか」の調査も開始。理論構築に二週間。
ヘルマン。公爵邸への過去の来訪者記録を洗い直し中。
「多い……」
呟いた。変数が多すぎる。一つ一つは対処できる。だが全てが同時に動いている。
「……怖い」
声に出して言った。誰もいない石段で。怖い。
心臓がとくん、と鳴った。闇がざわめいた。恐怖に反応して。それでも暴走しなかった。
光と闇が同期している。フェリクスが解読したヨハンの答え。心臓が止まらない限り、同期は崩れない。
恐怖はある。闇はざわめく。それでも制御できている。
「恐怖と共に生きる」
あの日決めた道。それは変わらない。
◇
「セレスティアさまー! 朝から石段にいるの珍しい!」
フリーデリケの声が中庭に響いた。朝の空気を切り裂くように明るい声。
「おはよう、フリーデリケ」
「おはよう! ねえ、目の下の隈がまた濃くなってる」
「……ばれた」
「ばれるよ。わたし、セレスティアさまの隈の濃さを毎日確認してるんだから」
「毎日確認してるの?」
「うん。昨日より今日の方が濃い。一昨日よりも」
「それは……」
「眠れてないでしょう。ラベンダー、もう一個作る?」
「一個で足りてる。足りてるけど、昨夜は考えることが多くて」
フリーデリケがセレスティアの隣に座った。鞄から包みを出した。
「はい。これ」
「パン?」
「ううん。パンケーキ。寮の台所で焼いたの。蜂蜜入り」
パンケーキ。丸くて、甘い香りがする。
「朝ごはん食べた?」
「……食べてない」
「だと思った。食べて。甘いものを食べると頭がすっきりするって」
フリーデリケが、母の言葉を口にしかける。
「お母さんが言ってた。知ってる」
二人で笑った。パンケーキをかじった。甘かった。蜂蜜の味。温かい。
「……おいしい」
「でしょ。レシピはお母さんのだけど、焼いたのはわたし。ちょっと焦げたけど」
「焦げてるところが好き」
「嘘でしょ」
「嘘じゃない。カリカリして、おいしい」
フリーデリケが嬉しそうに笑った。
「フリーデリケ」
「なに」
「わたしね。もうすぐ大変なことが起きると思う」
「大変なこと?」
「うん。詳しくは言えないけど、大丈夫」
「大丈夫?」
「大丈夫。だって、石段があるから」
フリーデリケは首を傾げた。
「石段があると大丈夫なの?」
「うん。石段にフリーデリケがいるから。パンケーキがあるから。ラベンダーがあるから。それだけで大丈夫」
フリーデリケの目が、また少し潤んだ。
「……わたし、何があっても石段にいるからね。毎日」
「うん」
「パンケーキも毎日焼くからね」
「毎日はいいよ。太るから」
「太ったっていいでしょ。セレスティアさま痩せすぎだもん」
笑い合った。朝の石段で。朝霧が晴れていく中で。
◇
昼休み、いつもの石段に、セレスティア、フリーデリケ、リディア、アネリーゼ、そしてアレクシスの五人が揃った。
コンラートは王宮の訓練があるため今日はいない。だが、本人がいなくても、その言葉はここにある。パンを食べながら、何でもない話をした。
「わたしの領地ね、今年は麦の出来がよくて」とフリーデリケが言った。「お父さんが珍しく手紙で喜んでた」
「南方は乾燥が続いてる」とリディアが言った。「川の水位が例年より低い。羊の水飲み場に困ってるって、家から連絡が来た」
「神殿には最近、南方から来た巡礼者が増えてるわ」とアネリーゼが言った。「不安な人が、光の神様に祈りに来てるのかもしれない」
「南方の状況が落ち着けばいいんだけど」とアレクシスが静かに言った。
リディアが言った。「南方では、嵐の前に家族が揃うって言うの。嵐の後より、嵐の前に揃う方が大事って」
「本当の諺?」とフリーデリケが聞いた。
「……半分くらい本当」とリディアが笑った。
石段に風が吹いた。春の風。穏やかな静けさ。何でもない話。何の戦略もない話。それが全てだった。
◇
夕方、自室でセレスティアは窓の外を見ていた。空は夕焼けに赤く染まっている。各勢力が動いている。嵐が近づいている。
処刑への道は、まだ完全には消えていない。宰相は新しい角度から、同じ結論に向かって動いている。それでも。
「運命よ」
セレスティアは窓の外に向かって、声に出して言った。
「私を殺したいなら、来なさい」
夕焼けの赤い空に向かって。
「今度は負けない」
声は震えていた。それでも言えた。怖い。変数が多すぎる。
けれど、仲間がいる。石段があり、ラベンダーがあり、温かなパンケーキがある。何より、心臓は確かな速さで動いている。
光と闇が共鳴している。嵐よ、来い。今度は一人じゃない。
◇
夜、自室の窓から月が見えた。ナターシャに報告書を渡した。今日の整理。各勢力の動き。明日確認すべきこと。
「お嬢様」
「なに」
「眠れていますか」
「……少しは」
「今日の昼、石段から笑い声が聞こえました」
「聞こえてたの?」
「遠くから。……よかったと思いました」
ナターシャが「おやすみなさい」と言って、部屋を出た。扉が閉まった。一人になった。
月明かりが窓に差し込んでいた。明日も、明後日も、嵐は来るかもしれない。来ないかもしれない。けれど、いつか来る。準備しなければならないことは、まだ山ほどある。ふと、リディアの言葉が胸に戻ってきた。
嵐が来る前には、家族が揃う。リディアの言葉どおり、今日の石段には五人が揃っていた。
準備は明日も続く。けれど今夜は、あの石段の光景だけを思っていた。
心臓が動いている。それだけで今日は十分だった。ラベンダーの香りがした。




