宰相の次の手
宰相の部屋に、三つの報告が届いた。一つ目。カスパルから。
「アレクシス殿下がアルヴェイン嬢の元に戻りました。石段で昼食を共にしています。離間工作は失敗しました」
宰相は蝋燭の炎を見ていた。表情は変わらない。
「原因は」
「護衛騎士候補のコンラート・フォン・ヴァイスハウプトです。殿下に直接進言したようです。殿下はカスパルの言葉より、ヴァイスハウプトの言葉を選びました」
「辺境伯の息子か。……剣しか知らぬ少年に、私の策が覆されたわけだ」
嘲りではなかった。分析だった。
「複雑な策は、単純な言葉に弱い。古い教訓だ。カスパル、しばらく殿下から距離を取れ。追えば追うほど逆効果になる」
「承知いたしました」
二つ目。マティアスから。
「テオドールが公爵家に保護されました。報告書は確保済みですが、テオドール本人は公爵家の別邸にいます」
「報告書の内容は」
「三歳時の異常行動に関する聞き取りです。人物への恐怖反応、年齢不相応に見えた観察力。奥方の薬については、本人の関与を見た者はいません。イザベラの評価では、証拠としては弱いとのことです」
「イザベラの評価?」
「はい。イザベラ嬢は、報告書の内容を『天才児の早熟さで説明可能』と分析しました」
宰相の指が机を叩いた。規則的なリズム。
「イザベラが、そう言ったか」
「はい」
長い沈黙。蝋燭の炎が揺れた。
「……イザベラの分析は正しい。報告書だけでは弱い。だがイザベラの判断が正しいことと、イザベラの動機が正しいことは別だ」
「閣下」
「イザベラは二度、アルヴェイン嬢に有利な行動を取っている。実技試験の黒い光を報告しなかった。そして今回、報告書の証拠価値を下げた」
マティアスの表情が変わった。
「まさか、イザベラ嬢が公爵家へ情報を……」
「断定はしない。だが可能性は考慮する。イザベラの件は後で対処する。今は別の問題が優先だ」
三つ目。南方からの情報。
「アルマンド将軍がアルカディア旧領を制圧。レグナシオン国境への偵察部隊を確認」
宰相は地図を広げた。南方の地図。国境線。
「外患は使える」
「使える、とは」
「南方の脅威を名目に、国防強化法案を貴族院へ提出する。国防の指揮権を摂政ではなく、宰相府へ集中させる法案だ」
マティアスの目が光った。
「摂政の権限を削る」
「摂政選出で失った権限を、国防で取り返す。貴族院の中立派は国防には敏感だ。『南方の脅威に対処するには強力な指揮系統が必要』と主張すれば、中立派を引き込める」
「見事です、閣下」
「見事ではない。当然の手だ。負けた翌日から、次の手を打っている。マティアス、法案の草稿を作れ。一週間以内に」
「承知いたしました」
マティアスが退室した。
◇
宰相は一人になった。報告書をもう一度読んだ。テオドールの報告書。
『奥方の薬を調べたのはフェリクス。令嬢本人の関与を見た者はいない』
『初対面の人物に恐怖した』
『大人のような目をしていた』
イザベラは「天才児の早熟さで説明可能」と言った。
だが宰相は別の仮説を持っていた。
「予知」。
この少女には、未来を知る力があるのではないか。
合理主義者の宰相にとって、予知など本来なら一笑に付すべき仮説だ。だが、それなら説明がつく。
目撃者がいないのは、誰にも見られず兄を動かしたからではないか。もし三歳で毒の存在を「知っていた」のなら。裏切り者を見抜いたのも、裏切りを「知っていた」から。票読みまで、結果を「知っていた」と仮定すれば説明できる。
全てが「事前に知っていた」で説明できる。
予知か。あるいは、もっと異常な何か。
「聖魔力と予知の関連を調べさせろ」
呟いた。誰もいない部屋で。
神殿の古文書に手がかりがあるかもしれない。聖魔力は千年の歴史の中で数例しか確認されていない。だがその数例の中に、「予知」に類する能力が記録されている可能性はある。
宰相は椅子から立ち上がり、灯りの点在する夜の王都を窓越しに見下ろした。
「カスパルの離間が失敗した。テオドールは公爵家に逃げた。そしてイザベラまで」
イザベラ。実の娘まで揺れている。
宰相の胸に、何かが刺さった。怒りか。失望か。名前のつかない何かか。いや。感情は排除する。
イザベラは変数だ。制御すべき変数。娘であっても、変数は変数だ。
どこで変わったのか。学園に入ってからか。あの少女の傍にいるようになってからか。
「正しさ」などという曖昧な概念に動かされるようになった娘を、宰相は理解できなかった。いや、理解しようとしなかった。理解する必要がないと判断した。
変数は制御できる。時間の問題だ。
「新しい戦略が必要だ」
アレクシスとの分断が無理なら、別の角度で攻める。
「聖魔力の危険性」。
この少女が聖魔力を持つ可能性を、貴族院で問題にする。
聖魔力は千年に一度の力。だが同時に、千年に一度の脅威でもある。
「この少女は危険だ」と王国全体に認識させる。
危険な存在は排除される。
反逆の嫌疑を捏造するより、「聖魔力の脅威」を公に認めさせる方が確実に追い込める。
宰相は蝋燭を吹き消した。
「テオドールの報告書は弱い。現行犯の証拠が必要だ」
イザベラの進言。現行犯。聖魔力を公の場で発現させる。そのための状況を作る。意図的に暴走を引き起こす。
特定の波形に反応し、装置側から異常を作る。基礎は五年前の魔力暴走装置と同じだ。だが五年前は記録した波形を炉へ流して、本人の仕業に見せかけた。今度は本人が測定器へ流す魔力を増幅し、抑え込んだ闇まで引きずり出す。
「次の学園の公開行事は何だ」
蝋燭のない闇の中で、宰相は考えた。学期末の魔力演習。王族や貴族院議員も列席する公式行事。生徒一人ずつが壇上に立ち、魔力を放出する。神殿と王宮魔術師団の双方が記録に立ち会う。
そこでセレスティアの聖魔力を暴発させる。多数の目撃者。公式記録。否定しようがない証拠。
反応のさせ方は五年前と同じでよい。炉の内部ではなく、壇上の石板に仕込む。測定装置の中に埋め込み、セレスティアが壇上に立った瞬間に反応させる。
今回も暗殺が目的ではない。「発現」させるだけでいい。聖魔力を制御不能の状態で吹き出させる。多くの人間の前で。
神殿は「保護」を主張するだろう。王宮魔術師団は「危険」と判断するだろう。貴族院は騒ぐだろう。その混乱の中で、国防強化法案と聖魔力管理法案を同時に提出する。
「準備には二ヶ月」
そう呟き、次の学期末までの二ヶ月を逆算する。工房への発注、装置の製作、壇上への仕込み。信頼できる者が三人いれば足りる。宰相は闇の中で手順を組み上げた。
◇
宰相は書斎の棚から一冊の古い書物を引き出した。「神聖魔力研究史」。古書市場で入手してから三十年、一度読んで棚に戻していた。
蝋燭を再び灯した。書物を開いた。千年前の記録。聖魔力を持つとされた者の名前。その者たちの能力の記述。
「予知」に類する記録は確かにある。三件。五百年前。四百五十年前。三百年前。
程度は様々だが、共通する描写があった。「まるで未来を知っているかのような判断力」。「初見の人物を見た瞬間に本性を見抜く力」。
宰相は書物を閉じた。
「証拠として使える」
神殿の古文書との照合が必要だ。文書は公開されていないが、神殿には協力者がいる。
三十五年前の若い官僚は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、目的のために手段を選ばない老人だ。
十歳の少女を標的にすることに、一片の躊躇もない。
その老人こそ、宰相ヴィクトール・ド・ガルニエだ。闇の中の、鷹の目だけが光っていた。




