アレクシスの答え
昼休み、セレスティアがいつものようにフリーデリケのパンをかじっていた石段に、アレクシスが戻ってきた。階段の下から、足音が聞こえた。
見下ろすと、金髪の少年が立っていた。風属性を宿す目に、もう曇りはなかった。
「久しぶりだな。この石段も」
アレクシスの声だった。
フリーデリケが「あ」と小さく声を上げた。リディアがパンを噛む手を止めた。アネリーゼが静かに目を伏せた。
セレスティアは動けなかった。アレクシスが距離を置いてから、二十日が経っていた。二十日間、石段に来なかった。廊下ですれ違っても目を逸らした。その二十日が、今、終わった。
「殿下」
「隣、座っていいか」
「どうぞ」
アレクシスがセレスティアの隣に座った。石段の定位置。以前と同じ場所。
フリーデリケが黙ってパンを差し出した。アレクシスは受け取った。
「……丸いな」
「今日は丸い日です」
フリーデリケがぎこちなく笑った。王太子に話しかけるのはまだ慣れていない。リディアが言った。
「南方では、久しぶりに食卓へ戻った人には、最初の一口を無言で食べさせるの」
「本当の諺?」
「本当。たぶん」
「たぶんか」
五人で石段に座った。パンを食べた。チーズを分けた。干し果物をつまんだ。
何も聞かなかった。なぜ来なかったのかも。何を考えていたのかも。
アレクシスが自分で話し始めるまで、待った。
◇
昼休みの終わり。フリーデリケとリディアとアネリーゼが先に教室に戻った。
石段にセレスティアとアレクシスだけが残った。
「セレスティア」
「うん」
「考えた。二十日間、ずっと」
「うん」
「君に秘密があることは分かっている」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「三歳の頃から、母上の薬に疑問を持って兄君を動かした。大人でも気づかなかった危険を避け、貴族院では集めた情報を数えていた。全部を『勉強した』だけでは説明できない」
「……うん」
否定しなかった。できなかった。
「カスパルは言った。『秘密がある人間は危険だ』と。『彼女が何を隠しているか分からない以上、信用すべきではない』と」
「……」
「カスパルの言葉は、論理だけで考えれば正しい。秘密がある人間を信用するのは、合理的ではない」
合理的ではない。イザベラの言葉と同じだ。それでも、アレクシスは顔を上げた。
「でも、僕はカスパルの言葉を信じなかった」
セレスティアが顔を上げた。アレクシスの目は澄んでいた。曇りが消え、風の魔力を思わせるほど透明だった。
「なぜ?」
「コンラートが言ったんだ。『言えないことがあるのと嘘をつくのは違う』と」
コンラート。
「コンラートは馬鹿だ。政治も陰謀も分からない。けど、人を見る目だけは正確だ。あいつが『嘘じゃない』と言ったものは、今まで一度も外れたことがない」
アレクシスの声が震えた。十歳の少年の声。
「僕は、カスパルの理屈とコンラートの勘のどちらを信じるか、二十日間考えた」
「それで?」
「コンラートを信じることにした」
セレスティアの目から涙が溢れた。堪えようとした。堪えられなかった。
「あ、ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」
「泣くな。僕はまだ話し終えていない」
アレクシスの声は少し慌てていた。十歳の少年が、泣いている少女の前で困っている声。
セレスティアは涙を拭った。けれど、次から次へと溢れてきて、拭いきれなかった。
「セレスティア。僕はもう、君の秘密を知りたいとは言わない」
「え?」
「知りたかった。ずっと。なぜ君はそんなに聡明なのか。なぜ何でも知っているのか。でも、考えが変わった」
アレクシスが空を見上げた。春の空。高い雲。
「コンラートが言ったんだ。『秘密があるってことは、理由があるってことだ。理由があるなら、話せる時が来るまで待てばいい』と」
コンラート。あの少年は、何でもない顔で核心を突く。
「全てを教えてくれなくていい。秘密があっていい。ただ、嘘だけはつかないでくれ」
「……約束する。言えないことはある。でも、嘘はつかない」
「それでいい」
アレクシスが手を伸ばした。セレスティアの手を握った。
小さな手と小さな手。十歳の少年と十歳の少女。
「僕は君を信じることにした。秘密があっても、理由が分からなくても。君の行動を見て、信じると決めた」
「殿下」
「言葉は嘘をつける。でも行動は、ずっと見ていればごまかせない。君は摂政の時も、その前も、僕を守ろうとしてくれていた。見てきたから分かる」
理屈ではなく、行動で判断した。カスパルの言葉よりも、セレスティアの行動を信じた。
「ありがとう、殿下」
「アレクシスでいい。友人なんだろう」
「ありがとう、アレクシス」
手を握ったまま、二人は石段に座っていた。春の風が吹いた。桜に似た花びらが舞った。カスパルの工作は失敗した。
いや、正確には、アレクシスがカスパルの工作を自分の力で乗り越えた。
宰相の毒は効かなかった。十歳の少年が自分で考え、自分で答えを出したのだ。
セレスティアは泣いた。声を殺して。手を握ったまま。
「アレクシス」
「なんだ」
「わたしね、言えないことがある。今は話せない。でもいつか、全部話せる日が来ると思う」
「待ってる」
「長くなるかもしれない」
「構わない。僕はこの二十日間で、待つのが得意になった」
セレスティアは笑った。涙の混じった笑顔。
「あ。パン、もう一個食べる?」
「もらう」
フリーデリケが残していったパン。丸いパン。二人で分けた。半分ずつ。石段の上で。春の風の中で。
友情が戻った。完全ではない。秘密はまだある。疑問も消えていない。
疑問は残っていても、信頼は戻った。それで十分だ。
◇
その夜、セレスティアは分析ノートを開いた。
『アレクシスが戻ってきた。
「嘘だけはつかないでくれ」と言われた。
約束した。
嘘はつかない。言えないことはある。でも嘘はつかない。
これは重い約束だ。
前世の記憶は秘密にする。でも嘘はつかない。
「なぜそんなに聡明なのか」と聞かれたら、「言えない」と答える。「勉強したから」とは、もう言わない。あれは嘘だったから。
嘘をつかない。それだけで関係は変わる。
カスパルの工作は失敗した。コンラートの一言が、アレクシスを救った。
「言えないことがあるのと嘘をつくのは違う」。
コンラートは自分がどれほど大きなことをしたか、多分分かっていない。
それから、イザベラ。
今日、廊下で声をかけられた。「テオドールの報告書が父の手元にある」と。
あの一言で報告書の存在を知った。
イザベラは動いた。沈黙から、行動へ。
あの子は変わり始めている。ゆっくりと。自分のペースで。
セレスティア 記す
追記。
今日は丸いパンだった。
アレクシスと半分こした。
おいしかった。』
ノートを閉じた。枕の下のラベンダー。南方の木の実。そして今日、アレクシスが握ってくれた手の温もり。セレスティアは目を閉じた。
今夜は悪夢を見ない気がした。初めて。ラベンダーがなくても眠れる気がした。
友人が戻ってきた夜。十歳の夜は温かかった。




