閑話 コンラートが見ていたもの コンラート視点
俺は剣が好きだ。剣のことなら分かる。重心の位置。刀身の反り。握り方と踏み込みのタイミング。相手の目線から攻撃の方向を読む方法。辺境伯の家に生まれて、物心ついた頃から木刀を握っていた。剣の話なら夜通しできる。
でも政治は分からない。誰がどの派閥で、誰が誰の手先で、どの法律がどういう意味を持つか。そういうことを、セレスティアは十歳で全部頭に入れている。ナターシャも分かっている。リディアも、ヴィオレッタも。
あいつの頭はどうなってるんだ。俺にはできない。でも俺には別のものがある。
見る目だ。人の顔を、目を、声を、読む力。辺境の訓練場で磨いた、剣士の感覚だ。
◇
殿下の顔が、カスパルの前では違う。
笑っているのに笑っていない。礼法の先生が「適切な表情」として教えるやつだ。大人みたいな顔。十歳なのに。顔の表情が動いているのに、目が動いていない。仮面だと思う。よく見ると分かる。
剣でも同じことが起きる。形は正しいのに、気が入っていない。本気じゃない時の型。師匠に「型と気は別物だ」と言われた。カスパルの前での殿下は、まさにそれだ。型だけある。気が入っていない。
でも俺が騎士見習いの合格を報告した時、殿下の顔が戻った。
教科書を脇に挟んだまま、こちらへ走ってきた。「本当か! すごいぞ、コンラート!」って言った時の顔は、ちゃんと十歳の顔だった。型じゃない。気が入っている。本物だ。
俺、その顔が好きだ。殿下はそういう顔で生きていくべきだと思う。政治とか関係なく。
◇
セレスティアを見ていると、不思議なことがある。
あいつはいつも穏やかだ。怒らない。慌てない。俺が七歳、あいつが五歳で初めて会った時から、ずっとそうだ。どんな場面でも、声が静かで、目が冷静で、言葉が整っている。嵐の中の岩みたいな安定感がある。
でも時々、目が変わる。遠くを見る。ものすごく遠いところを。窓の外でも、廊下の奥でもない。もっと遠い、どこか別のところを。
俺は戦場に行ったことはない。でも父上の剣士仲間に何人か会ったことがある。北方の戦線から帰ってきた騎士たち。一度、父上の酒宴に同席した時だ。あの人たちの目と、セレスティアの目が時々重なる。何かを見てきた人の目。
遠くを見て、戻ってくる。戦場から帰ってきた人間が、日常に戻ってくる時の目に似ている。十歳が、何を見てきたんだ。
聞いたことはない。聞かなくていいと思っている。でも、見てきた、という確信がある。
◇
ヴィオレッタに聞いたことがある。
「セレスティアって、何者だと思う?」
ヴィオレッタが「聞くべきではない質問ね」と言った。
「なんで」
「聞いて、答えが分かったとして。それで何かが変わるの?」
「変わらないけど、知りたい」
「あなたが知っても変わらないなら、聞く必要もない」
素っ気ない答えだ。でも違う意味があると思った。
つまり「何者か分からなくても、隣にいる理由はある」ってことじゃないか。
俺なりの解釈だから、合ってるかは分からない。ヴィオレッタに言ったら「全然違う」と言われるかもしれない。でもそう聞こえた。
ヴィオレッタはもともと、ここにいるはずじゃなかった人間だ。最初の頃、あいつはセレスティアと同室にいたけど、目も合わせなかった。今は違う。完全に仲間とは言い切れないかもしれないけど、少なくとも「隣にいることを選んだ人間」だ。
何かが変えた。セレスティアが変えたのか、ヴィオレッタ自身が変えたのか、分からない。でも変わった。人間が変わる時、外から見ると「突然変わった」ように見える。でも剣の稽古と同じで、少しずつ積み重なった結果が、ある日表に出る。ヴィオレッタもそうだ。
◇
殿下とセレスティアの間には、何かある。二人が話す時、殿下の顔が少し変わる。仮面じゃなくて、本人の顔になる。セレスティアの前では、殿下がちゃんと十歳になれる。
この学園で、殿下がちゃんと十歳でいられる時間は少ない。王太子だから。期待があって、視線があって、正しく振る舞わなければならない。常に見られている。品定めされている。でもセレスティアの隣では、少し違う。
走ってくる。声が大きくなる。口元だけじゃなくて、目が笑う。俺はそれを、最初から見ていた。
◇
セレスティアが何をしているのかは、よく分からない。
戦っているのは分かる。剣ではなく、言葉と頭で。誰かを守ろうとしているのも分かる。でも全部は見えない。
全部が見えなくていいと思う。全部見えなくても、隣にいられる。剣士は仲間の作戦を全て知らなくてもいい。自分の役割を果たせばいい。俺に見えるのは、結果だけだ。
殿下が笑っている。フリーデリケが安心して笑っている。ヴィオレッタが少しずつ変わっている。リディアが、ここが居場所だと思いはじめている。アネリーゼが、誰かのために祈っている。
セレスティアが何かをしているから、そうなっている。剣じゃないけど、それも守り方だと思う。
俺が剣で守るのとは違う守り方。だが同じ方向を向いている。
◇
俺は誓いを立てた。殿下の盾になる。友人の背中を守る。それだけだ。
セレスティアが何者か、どんな戦いをしているか、俺には全部は見えない。でも見えなくてもいい。剣士は相手の全てを知る必要はない。間合いと意図が分かれば、対応できる。
俺の仕事は、あいつが戦っている間、背中を空けておかないことだ。剣が必要な場面では俺が前に出る。そうじゃない場面では、俺は剣でいる。それで十分だ。俺に合った役割がある。
あいつが何を考えているかは分からない。聞かない。知らなくていい。でも、あいつの隣にいる人間の顔は見える。
みんな本物だ。嘘がない。剣士の目で見れば分かる。本物かどうか。構えに嘘はない。
フリーデリケは笑う時に顔全体で笑う。リディアは諺を作る時にちゃんと楽しんでいる。アネリーゼは光を使う時に迷わない。ヴィオレッタは何も言わないけど、離れない。ナターシャは何も言わないけど、いつもいる。セレスティアは走り続けているけど、帰ってくる。
そういう人間が集まる場所に、俺もいていい。
辺境の出身で、政治が分からなくて、剣しか取り柄がない俺が。ここにいていい。
武官の家に預けられ、王都の道場へ通っていた子供。喧嘩に飛び込み、石を投げられ、額から血を流していた子供。そんな俺が、今は殿下の傍にいていい。それで十分だ。十分すぎる。
あの日、セレスティアが額の血を止めてくれた。傷を治してもらったのは、学園の保健室で光魔力を見せてくれた時が初めてだ。けれど、血を怖がりながら逃げなかったあの小さな手が、全部の始まりだった。
◇
昼休みに、石段を遠くから見た。セレスティアが何か食べながら、フリーデリケと話している。アネリーゼが笑っている。リディアが何か言って、セレスティアが声を出して笑った。
あんな顔をするやつだったんだな、と思った。
策士の顔でも、何かを計算している顔でもない。普通の顔だ。声を出して笑う、十歳の顔だ。よかった。
遠くからそれだけ思って、訓練に戻った。俺の仕事は剣だ。石段の上の話を邪魔することじゃない。
次の日の訓練で、殿下に本物の笑顔が戻っていた。十歳の顔。俺は何も言わなかった。言わなくていい。剣士は、全部言わなくていい。
いつもと変わらない訓練だった。それでいい。




