イザベラの選択
また、選ぶ時が来た。夜のマティアスの部屋で、イザベラは一冊の報告書を前にしていた。
「面白いものが上がってきた」
マティアスがテーブルの上に書類を置いた。薄い冊子。表紙に「機密」の印。
「テオドールが公爵家に保護される前に提出した報告書だ。テオドール本人は逃げたが、報告書はこちらの手元にある」
イザベラは書類を見た。読まずにはいられなかった。
『セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢の幼少期における異常行動の記録
証言者:ギーゼラ(元台所使用人)
「三歳のお嬢様が薬草の名を口にした場面は見ていない。奥様の薬を調べたのはフェリクス様で、お嬢様が関わったとは聞いていない」
証言者:ハンス(元厩番)
「三歳のお嬢様が、宰相府の視察団の男を見て震えていた。初対面のはずなのに、まるでその人間を知っているかのように。『首を切る人に似ていた』と口にした」
証言者:不明(匿名の元使用人)
「お嬢様は三歳の時から、まるで大人のように周囲を観察していた。子供の目ではなかった。何かを知っていて、確認しているような目だった」
総括:
セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢は、三歳時点で年齢に不釣り合いな反応と観察力を示していた可能性がある。ただし、奥方の薬に関する本人の関与は確認できず、各供述だけでは通常の幼児との差を立証できない。追加調査を要する。
テオドール記す』
読み終えた時、紙を持つ指先が冷たくなっていた。
処刑執行人に似た顔を恐れ、周囲を大人のような目で見ていた。だが母の薬に関する証言は、セレスティアを異常だとする根拠になっていない。イザベラが真っ先に考えたのは、セレスティアの正体ではなく、この弱い報告を宰相がどう使うかだった。
この報告書が宰相の手に渡れば、セレスティアは追い詰められる。「禁忌の魔術」の嫌疑をかけられる。
以前、マティアスは「父上は次の手を打つだろう」と言っていた。その手とは、聖魔力の危険性を貴族院で問題にし、セレスティアを王国全体の脅威として認識させることなのだろう。その先に待つものまで、考えるまでもなかった。
「マティアス様」
「なんだ」
「この報告書は、既にお父様の手元に?」
「ああ。昨日届けた。父上は、満足していたよ」
満足。宰相が満足する情報。それは、武器になる情報だ。セレスティアを攻撃するための。
「イザベラ嬢。お前に聞きたいことがある」
「はい」
「お前は学園でアルヴェイン嬢を観察している。この報告書の内容、お前も感じていたか? あの少女の異常さを」
実技試験で黒い光を見た時、イザベラは報告しなかった。後でマティアスに問われても、見間違いだったと押し通した。今度は、この報告書を裏づける言葉を求められている。
全面的に認めれば、宰相が使える「証拠」が一つ増える。かといって否定しきれば嘘になる。セレスティアが年齢に似合わぬ聡明さを持つことは、近くで見てきたイザベラ自身がよく知っていた。
「……感じています」
マティアスの目が光った。
「やはりな。具体的には?」
「セレスティア・フォン・アルヴェインは、異常に聡明です。それは間違いありません」
「他には」
イザベラは、余計な意味を拾われないよう慎重に言葉を選んだ。
「ですが、異常な聡明さと禁忌の魔術は、別の話です」
マティアスの表情が止まった。
「何が言いたい」
「聡明な子供は存在します。幼くして大人の知識を持つ天才は、歴史上何人もいます。それだけでは禁忌の魔術の証拠にはなりません」
「だが、三歳で母親の薬を疑い、兄を動かしたという話がある」
「まず、そんな証言はこの報告書のどこにもありません。ギーゼラは逆に、『お嬢様が関わったとは聞いていない』と答えています。薬を調べたのは兄のフェリクス様です。幼い妹が母親を心配して、兄に何か尋ねた可能性までは否定しません。ですが、可能性は証言ではありません」
マティアスの指が、報告書の端で止まった。イザベラは続けた。
「初対面の相手を恐れたことも、本人が語った悪夢と、顔立ちの一部が偶然重なったためだと説明できます。少なくとも、禁忌の魔術を使った証明にはなりません」
「お前は、アルヴェイン嬢を庇っているのか」
「庇っていません。事実を述べています。この報告書を禁忌の魔術の証拠として使えば、反論された時に崩壊します。証拠としては、弱い」
マティアスは顎を撫でながら、しばらく考え込んだ。
「……一理ある。お前の言う通り、報告書だけでは証拠として弱いかもしれない」
「閣下にはそうお伝えください。証拠を固めるなら、もっと決定的なものが必要です」
「決定的なもの、たとえば?」
「聖魔力の現行犯。公の場で、多数の目撃者の前で、聖魔力を使用する場面。それがあれば、否定しようがありません」
マティアスは頷いた。
「なるほど。現行犯か。それを引き出す方法を考える必要があるな」
話は終わりだと告げられ、イザベラは一礼して部屋を出た。背後で扉が閉じ、人のいない廊下へ出てから、ようやく詰めていた息を吐く。報告書だけでは弱いと認めさせた以上、宰相がこれをそのまま切り札にすることはないだろう。わずかでも時間は稼げた。
しかし、その安堵はすぐに消えた。自分の口で「現行犯」を提案してしまったからだ。セレスティアの聖魔力を公の場で引きずり出す罠を、宰相側へ教えたに等しい。
「……馬鹿。わたしは何をしているの」
呟いた。セレスティアを守ろうとしたのか。それとも、ガルニエ家の立場を守ろうとしたのか。自分でも分からない。
セレスティアへの攻撃材料を弱めたい気持ちと、脆い証拠で動いて失敗すればガルニエ家の恥になるという計算。その二つは、もう綺麗に分けられなかった。
それでも、一つだけ認めざるを得ないことがある。
「わたしは、あの子を守ろうとしているのね」
初めて口にすると、胸の内にあったものが急に形を持った。
なぜ守ろうとしているのか。まだ分からない。あの少女が好きなのか。あの少女の「正しさ」に惹かれているのか。それとも、父への反抗なのか。
理由はまだ分からない。それでも、守る側を選んだのは自分だった。
◇
その夜、イザベラは翌朝に伝える言葉を、疑われない形になるまで削り続けた。
テオドールの名は出さない。父とも、宰相府とも言わない。紙には残さない。二人きりの場所へ呼び出せば、会った事実そのものが疑いになる。
だから、授業の合間の廊下を選んだ。生徒が行き交い、成績を競う二人が言葉を交わしても不自然ではない場所。イザベラは学園の廊下を歩いていた。前方から、セレスティアが歩いてきた。
二人の目が合った。セレスティアの碧い目。イザベラの紫の瞳。すれ違う。いつもなら、それだけだ。
だが今日、イザベラは歩調を緩めた。立ち止まりはしなかった。
「セレスティア」
セレスティアも足を止めた。驚いた顔をしている。イザベラが自分から声をかけるのは、初めてだ。
「昨日の論理学の課題。あなた、前提を一つ落としていたわ」
セレスティアの眉が、わずかに動いた。
「証人を保護しても、先に提出された報告書までは消えない。採点する側は、もう読んでいる。そこを見落とすなんて、あなたらしくないわね」
課題の講評にしか聞こえない声で。すれ違いざまに。セレスティアの目が見開かれた。
テオドールを保護しても、提出済みの報告書は消えない。採点する側、宰相は、もう読んでいる。意味が届いた。
イザベラは立ち止まらなかった。そのまま歩き去った。振り返らなかった。
「ご指摘ありがとう、イザベラさま。答案を見直します」
背中に、平静な声が届いた。事情を知らない者が聞けば、試験の話にしか聞こえない。イザベラの足が、一瞬だけ乱れた。歩き続けた。
角を曲がって、廊下の陰に入ったところで、壁に背中を預けた。心臓が早い。
警告は届いた。ガルニエ家の娘が、敵対する公爵家へ自分の意志で手を伸ばしたのだ。父から見れば、明らかな裏切りだった。
だが固有名詞は一つも口にしていない。書いた紙も、封蝋もない。問われれば、論理学の課題について話したと答えられる。完全に安全ではない。それでも、父に教え込まれた慎重さで作れるだけの逃げ道は作った。
それでも後悔はなかった。これまでは黙ることでしかセレスティアを守れなかったが、今日は自分から警告を渡した。
この先どうすればいいのかは、まだ見えない。それでもイザベラは、沈黙の外へ初めて一歩を踏み出していた。




