コンラートの奮闘
コンラート・フォン・ヴァイスハウプトは、剣のことしか分からない。
政治は分からない。陰謀は分からない。貴族院の票読みなど、何を言っているのかすら分からない。だが、人の目は見える。
「あいつ、また殿下に何か吹き込んでやがる」
王宮の訓練場。午後の休憩時間。コンラートは木剣を肩に担いで、中庭の向こうを見ていた。アレクシスの傍に、カスパルが立っている。
カスパル・ヴェルナー。王太子付き侍従。三十代半ば。目立たない男。目立たない顔。目立たない服。空気のような存在。だがコンラートの目には、見えている。
カスパルがアレクシスに近づく時、必ず左側から近づく。右耳ではなく左耳に囁く。声が小さい。他の人間に聞こえないように。
囁く内容は聞こえない。だが、囁いた後のアレクシスの表情は見える。眉が寄る。目が曇る。口元が引き締まる。
「また、あの顔だ」
アレクシスが不安になる顔。何かを疑い始める顔。
コンラートは学者ではない。論理的な推論はできない。だが辺境伯の家で育った野生の勘がある。
あの侍従は、毒を注いでいる。言葉の毒を。殿下の耳に。
◇
訓練が終わった後、コンラートはアレクシスの部屋を訪ねた。護衛騎士候補として、王宮に部屋を与えられている。アレクシスの部屋は同じ棟の上階だ。
「殿下、入ってもいいか」
「コンラート。ああ、入れ」
部屋に入った。アレクシスは窓辺に座って本を読んでいた。いや、読んでいるふりをしていた。ページが進んでいない。
「殿下。一つ聞いていいか」
「なんだ」
「あの侍従、カスパルって男。あいつ、殿下の傍でいつも何か囁いてるだろ」
アレクシスの動きが止まった。
「……気づいていたのか」
「気づくも何も、あからさまだろ。訓練場から丸見えだ」
「丸見え」
アレクシスが苦笑した。カスパルは「目立たない」ことが武器のはずだ。だがコンラートの目には目立っている。
「何を囁かれてるかは知らねえ。けど、殿下の顔が曇るのは見える。あいつが何か言った後、殿下はいつも嫌な顔になる」
「嫌な顔」
「ああ。こう、眉がぎゅっとなって、口がきゅっとなる。不安そうな顔」
アレクシスは無意識に眉と口に手を当てた。
「……そんな顔をしているか、僕は」
「してる。カスパルと話した後、必ず」
沈黙が落ち、アレクシスは窓の外を見た。
「コンラート。お前に聞きたいことがある」
「おう」
「セレスティアは、信用できると思うか」
コンラートは一瞬も迷わなかった。
「できる」
「即答だな。根拠は」
「根拠? そんなもんねえよ」
「ないのか」
「ないけど、分かる。あいつは嘘をつかねえ。全部は言わねえけど、嘘はつかねえ。言えないことがあるのは分かる。でも、言えないことがあるのと嘘をつくのは違う」
アレクシスが目を見開いた。
「言えないことがあるのと嘘をつくのは、違う」
「そうだろ。俺だって言えねえことくらいある。親父に怒られた話とか、訓練でヘマした話とか。言わねえけど嘘はつかねえ。セレスティアも同じだ」
「カスパルは、セレスティアが何かを隠していると言う」
「隠してるのはそうだろうな。俺にだって分かる。あいつは時々、ずっと遠くを見てる目になる。何か知ってて言わない目だ」
「なのに信用できると?」
「できる」
「なぜ」
コンラートは頭を掻いた。言葉にするのが苦手だ。
「……あいつが殿下を守ろうとしてるのは、嘘じゃねえと思う。理屈は分からんけど。目を見りゃ分かる」
「目?」
「セレスティアが殿下を見る時の目。あれは、大切なものを見てる目だ。宝物とか、壊れやすいものを見る目。俺の姉貴が弟の俺を見る時と、同じ目」
アレクシスは黙った。
「コンラート」
「おう」
「カスパルは、信用できるか」
「できねえ」
これも即答だった。
「あいつは殿下を見る時、殿下を見てねえ。殿下の向こう側を見てる。殿下を通して、別の何かを見てる。そういう目をする奴は信用できねえ」
「殿下の向こう側……」
「ああ。何を見てるかは知らねえ。けど、殿下自身を見てねえのは確かだ」
アレクシスは窓辺から立ち上がった。部屋の中を歩いた。
「カスパルは宰相の人間だ。それは分かっている。僕を監視している。僕から情報を引き出そうとしている。それも分かっている」
「なら切ればいいだろ」
「そう簡単ではない。カスパルを解任すれば、宰相は別の人間を送り込む。見えている敵の方がまし、という判断もある」
「政治ってのは、めんどくせえな」
「ああ。面倒だ」
アレクシスが笑った。久しぶりの笑顔だった。
「コンラート。お前は、単純だな」
「よく言われる」
「褒めているんだ」
「褒められてる気がしねえけど」
「単純でいい。お前みたいに真っ直ぐな人間が傍にいてくれるのは、助かる。カスパルの言葉は曲がっている。セレスティアの言葉は正しいが、何かを隠している。お前の言葉だけが、真っ直ぐだ」
「剣は真っ直ぐ振るもんだろ。言葉も同じだ」
アレクシスは頷いた。
「真っ直ぐ、か」
アレクシスは窓の外を見た。夕日が沈んでいく。
「コンラート。僕は、もう少しで答えが出る」
「答え?」
「セレスティアを信じるかどうかの答えだ。お前の言葉で、見えてきた。言えないことがあるのと嘘をつくのは違う。そうだな。カスパルは、嘘をついている。セレスティアは、言えないことがあるだけだ」
「だろ」
「明日、いや、もう少し考える。だが、答えは近い」
コンラートは木剣を振った。素振りの癖だ。
「殿下。俺は難しいことは分からねえ。けど、殿下が迷ってるなら、殿下の目を信じろ。カスパルの言葉じゃなくて、殿下自身の目で見たものを信じろ」
「僕自身の目」
「殿下はセレスティアの目を見たことがあるか? あいつが殿下と話す時の目を」
アレクシスは、思い出した。石段での会話。廊下での会話。セレスティアの碧い目。
あの目は、嘘をついていなかった。隠しているものはあった。でも嘘は、なかった。
「……ある。見た」
「なら、答えは出てるだろ」
コンラートは木剣を肩に担ぎ直して、扉に向かった。
「明日も訓練がある。寝る。殿下も早く寝ろ。寝不足は剣の天敵だ」
「僕は剣士ではないが」
「政治家にとっても天敵だろ。頭使うんだから」
アレクシスは笑った。声を出して。
「……おやすみ、コンラート」
「おやすみ、殿下」
コンラートが出て行った。部屋に一人残ったアレクシスは、窓辺に座り直した。本を閉じた。読む気になれない。
代わりに、目を閉じて、思い出した。石段の昼食。セレスティアが笑っていた。フリーデリケが丸いパンを見せて、リディアが嘘の南方の諺を言って、アネリーゼが祈りの話をして。あの場所の、セレスティアの目。
あれは、策士の目ではなかった。十歳の少女の目だった。友人と一緒にいる、ただの少女の目。
カスパルは「あの少女は全てを計算している」と言う。
だが石段の上のセレスティアは、計算していなかった。パンを食べて、笑って、隈を隠そうとして、ラベンダーをもらって泣きそうになっていた。あれが、本物だ。
コンラートの言葉が正しい。言えないことがあるのと嘘をつくのは違う。アレクシスは、答えを出しかけていた。もう少しだけ。もう少しだけ考える。
そして明日、石段へ戻る。
◇
訓練場に戻ったコンラートは、月明かりの下で素振りをしていた。一振り。二振り。三振り。
「……セレスティア。あいつ、大丈夫かな」
コンラートは呟いた。
コンラートにも分かる。セレスティアは追い詰められている。あちこちから攻められている。政治の詳しいことは分からないが、「一人で全部やろうとしている」のは見える。
俺にできることは、剣を振ることだけだ。政治も策略も分からない。それでも、殿下が正しい判断をできるよう傍にいることはできる。殿下の目が曇った時に「曇ってるぞ」と言うことはできる。
それしかできない。だから、それをやる。コンラートは真っ直ぐに剣を振った。明日も、明後日も、殿下が答えを出すまで。
それだけで、十分だ。




