ルシアンの野心
第一王子ルシアン・レグナシオンは十二歳になっていた。
王太子アレクシスより二つ年上だが、王位継承権は第二位だった。この国の法では、側室の長男よりも正妃の嫡男が優先される。
それが、ルシアンにはずっと、棘のように刺さっていた。
「王太子殿下は十歳の少女に操られている。それが王太子の姿か」
ルシアンは自室で、鏡に向かって呟いた。鏡の中の自分は、顔立ちだけなら父に似ている。赤みがかった茶髪と灰緑色の目は母譲りだが、目元には父の面影があった。だが父ほど穏やかではない。もっと、尖っている。
マティアスが教えてくれた。「殿下の資質は、王太子殿下のそれを凌ぐ」と。
お世辞だと分かっている。マティアスは副宰相だ。宰相の手足だ。ルシアンを持ち上げることで利用しようとしている。分かっている。
だが、分かっていても、嬉しい言葉は嬉しい。
アレクシスは褒められる。いつも。「アレクシス殿下は聡明だ」「アレクシス殿下は将来の名君だ」と。
ルシアンを褒めてくれるのは、マティアスだけだった。
「殿下、失礼します」
扉が開いた。マティアスが入ってきた。三十二歳。端正な顔立ち。父の宰相に似た冷たい知性を持っているが、もう少し、柔らかい。それが計算なのか天性なのか、ルシアンには分からない。
「イザベラ嬢が参りました」
「通せ」
イザベラ・ド・ガルニエが入ってきた。十一歳。宰相の娘。黒い髪を結い上げた、大人びた少女。
「ルシアン殿下。お呼びでしょうか」
「座れ。話がある」
イザベラは椅子に座った。背筋が真っ直ぐだ。宰相の家で教育された所作。
マティアスが部屋を出た。二人きりになった。
「イザベラ。率直に聞く」
「はい」
「僕と、組まないか」
イザベラの表情が動かなかった。予想していた、とでもいうように。
「組む、とは」
「王太子殿下では王国は守れない。父上は病に倒れ、母上が摂政をしているが、あれは公爵令嬢の傀儡だ。アルヴェイン家が王権を操っている。そんな状態で、南方の脅威に対処できるのか」
南方。アルマンド将軍の動き。ルシアンはマティアスから情報を受けている。
「王太子殿下は、セレスティア・フォン・アルヴェインに依存している。あの令嬢がいなければ、王太子殿下は何も決断できない。そんな王が、この国を率いていけるのか」
「殿下のお考えは、王太子殿下に代わり、殿下自身が王位を継ぐべきだと?」
「今すぐじゃない。だが、将来的に。僕の方が適任だという事実を、貴族院に認識させる。そのために、お前の力がいる」
「わたしの力」
「お前は宰相の娘だ。ガルニエの名前は、この国の政治で最も重い名前の一つだ。お前が僕の側にいれば、貴族院の旧宰相派が動く」
イザベラは沈黙した。ルシアンは待った。この少女が考える時間を。
「……殿下。一つお聞きします」
「なんだ」
「殿下は、アレクシス殿下を、憎んでいらっしゃいますか」
ルシアンの目が揺れた。ほんの一瞬。
「憎んでいない」
「では」
「憎んでいない。だが、悔しい。僕はアレクシスより努力している。アレクシスより政治を学んでいる。アレクシスより、この国のことを考えている。なのに第一王子の僕ではなく、アレクシスが王太子だ。母の身分が違うだけで」
「お生まれは、変えられません」
「分かっている。だから、実力で覆す」
ルシアンの目が燃えていた。少年の目だ。野心に満ちた、まだ若い目。
イザベラは、その目を見て、父の顔を思い出していた。あの目と、似ている。
「殿下。わたしは、お答えを保留させてください」
「保留?」
「はい。殿下のお誘いは光栄です。ですが、今すぐお返事はできません」
ルシアンの眉が寄った。
「なぜだ」
「わたしは父の娘です。父の意向を確認しなければ」
「宰相の意向か。分かった。だが、遅くなりすぎるな。状況は動いている」
「承知しています」
イザベラは一礼して部屋を出た。
◇
廊下を歩きながら、イザベラは考えていた。ルシアンと組むか。
父の指示があれば、ガルニエ家の利益のために組むべきだ。宰相が摂政選出で敗北した今、ルシアンという新たな手を確保するのは合理的な判断だ。頭では、そう分かっている。
だが、イザベラの中で別の声が囁いた。
あの夜会で芽生えた声。セレスティアの前で「あなたは何を隠しているの」と問うた時に生まれた声。
「正しいこと」と「合理的なこと」は、同じだろうか。
ルシアンと組むのは合理的だ。だが正しいのか?
ルシアンは王太子を追い落とそうとしている。アレクシスは、愚かではない。十歳の少女に「操られている」とルシアンは言うが、イザベラの目にはそうは見えない。アレクシスは自分で考え始めている。あの少女に依存しているのではなく、あの少女から学んでいる。
それを「操られている」と断じるのは、正しくない。
「正しくない」。
その言葉が、イザベラの胸に刺さった。
いつから自分は「正しい」を気にするようになったのか。
ガルニエの娘は「合理的」であればよかった。感情に流されず、利益を計算し、最善手を打つ。それが父に教えられた生き方だ。
なのに、「正しい」を考えてしまう。
イザベラには、まだ分からなかった。
◇
廊下の角で、マティアスが待っていた。
「イザベラ嬢。ルシアン殿下との話はどうだった」
「保留にしました」
「保留か。賢明だ」
マティアスは微笑んだ。計算された笑み。
「父上の意向を確認してからでも遅くはない。ところで、一つ面白い話がある」
「面白い話?」
「テオドールの調査で、興味深いものが上がってきた」
喉が乾いた。テオドール。セレスティアの幼少期を調べている男。
「セレスティア・フォン・アルヴェイン嬢の三歳時の異常行動に関する報告書だ。なかなか読み応えがある」
「……報告書?」
「ああ。三歳で母の薬を疑い、兄に調べさせたらしい。特定の人物に初対面で恐怖した。異常だろう? 三歳の子供がそんなことをするか?」
マティアスは、報告書にない主語を滑り込ませた。薬を調べたのはフェリクスで、妹の関与を見た者はいない。「らしい」の一語で、推測を事実の隣へ置いたのだ。
マティアスの声は軽い。だが目は、鋭い。
「テオドールは公爵家に保護されたようだ。だが報告書は既に父上の手元にある。公爵家は一手遅かったな」
イザベラは黙っていた。報告書は、既に宰相の手にある。テオドールを保護しても、情報は流出した後だった。
「イザベラ嬢。この報告書をどう思う?」
「……わたしに聞く意味がありますか」
「ある。お前は学園でアルヴェイン嬢を近くで見ている。実技試験での『黒い光』も見ている。お前の観察は、価値がある」
「……黒い光については、確認できていません。見間違いの可能性があります」
嘘だ。イザベラは黒い光を見た。はっきりと。光と闇が混ざった、あり得ない色の魔力。
だが、実技試験の後も報告しなかった。そして今も、見間違いだと言い切った。二度目の沈黙だった。
「見間違いか。残念だ」
マティアスは、信じていない。イザベラの嘘を見抜いている。だが追及しなかった。
「まあいい。報告書だけで十分だ。父上は、次の手を打つだろう」
マティアスが去った。
背中を見送りながら、イザベラは思った。マティアスは全てを父上に報告するのだろうか。それとも、自分の中に留める情報を、意図的に選んでいるのだろうか。父よりも柔らかく、だからこそ読めない。どこまでが宰相の意志で、どこからがマティアス自身の意志なのか。それが、イザベラにも、まだ分からなかった。
イザベラは廊下に一人残った。手が震えていた。
二度目の「報告しない」。
いや、正確には今回は沈黙ではない。問いを向けられた上で、「見間違いかもしれない」と答えた。情報を省いただけの一度目より、明確に父の側から遠ざかる行為だった。
一度目は衝動から始まった。五ヶ月をかけて、その沈黙を「何も考えず父へ情報を渡すだけの目にはならない」という境界線に変えた。
そして今、自分の口でその境界線を守った。
それが絶対に「正しい」のかは、まだ分からない。
ただ、あの少女の秘密を暴くことに、加担したくなかった。それだけだ。イザベラは拳を握った。
「わたしは、何がしたいんだろう」
答えは出ない。まだ。だが、沈黙の意味は変わりつつある。三度目が来た時、何を選ぶのか。
それは、まだ分からなかった。




