閑話 副宰相の計算 マティアス視点
夜の宰相府は静かだ。マティアス・ベルンハルトは執務室の燭台を一本だけ灯し、書類を広げていた。副宰相の机は年中書類で埋まっている。父から引き継いだ習慣だ。
いや、父に教えられた習慣だ。引き継いだわけではない。まだ。
マティアスは三十二歳になった。副宰相の座に就いて七年。父ヴィクトール・ド・ガルニエが老いを見せ始めてから、実質的な執務の多くを担っている。
◇
今日の整理。一、テオドールの件。報告書は既に父上の手元にある。公爵家がテオドールを保護したが、情報は先に流れた。損失はない。むしろ、公爵家が動いたことが分かった。有益な反応だ。
二、ルシアンの件。今日、第一王子はイザベラを呼んだ。マティアスが手引きした会合だ。ルシアンの返答を聞いた。「実力で覆す」。
子供らしい台詞だと思った。だが、子供らしさがまだあるうちは、扱いやすい。
ルシアンは道具になりうる。父にとって。そしてマティアス自身にとっても。ただし、ルシアンが自分を道具だと気づいた時、話は変わる。
三、イザベラの件。マティアスは書類の一点を見つめた。
イザベラは嘘をついた。三度目だ。実技試験での「黒い光」を見ていないと言った。だが見ていた。マティアスには分かる。彼女の目が、見たという事実を隠しきれていなかった。
報告するか。
父上に。「イザベラが虚偽の報告をしています。セレスティア・フォン・アルヴェインの魔力を隠蔽しています」と。
できる。今すぐでも。だがマティアスは、しなかった。今日も。昨日も。先月も。
なぜか、と問われれば、答えに詰まる。合理的な理由は一つもない。イザベラの虚偽報告は父上にとって有益な情報だ。イザベラを管理するためにも、知っておくべき情報だ。それでも報告しなかった。
マティアスは燭台の炎を見た。揺れている。
◇
セレスティア・フォン・アルヴェインのことを考えた。
三歳。あの子が三歳の時、初めて名前を意識した。宰相府の視察員を見て激しく取り乱し、「首を切る人に似ている」と口にした幼い令嬢。視察報告を読んだ父上は、「悪夢を見た子供の錯乱だ。だが継続観察はしておけ」と言った。
その報告から二年後、王宮教育課程でマティアスは直接会った。小さな少女。銀髪。碧眼。二年前の恐慌を押し隠したような目をしていた。あの時の目が、まだ記憶に残っている。
怯えていたのに、怯えを見せなかった。五歳の目をしていなかった。何かをずっと考え続けている目。見えているものが多すぎる目。あの子は、何者なのか。
今も分からない。確かなのは、公爵家に生まれた普通の令嬢ではないということだ。三歳で説明のつかない恐怖を見せ、五歳で父親を動かし、同じ年に魔力暴走の濡れ衣を免れ、九歳で摂政選出に絡んだ。
母の毒を最初に疑ったのも、あの子だったのか。当時の記録にあるのは、次兄フェリクスが薬を調べたことだけだ。テオドールが探した元使用人も、幼い令嬢の関与を見ていない。だが、誰にも見られず兄を動かしたのだとすれば――。
マティアスはそこで思考を止めた。それは事実ではない。今のところは、空白に置いた仮説でしかなかった。
五歳の時に仕掛けた罠が失敗した。装置は正常に作動した。セレスティアの波形を捉え、結界を破らない出力で炉を暴走させた。あの場にいた子供たちへ「聖魔力は危険だ」と刻みつけるはずだった。
だがあの子は放出前に退出した。オスヴァルトは全員を避難させた。目撃者だけを残すつもりが、誰も残らなかった。聖魔力の暴走に見せるはずの罠は、出所不明の設備事故になった。偶然か。
そう思いたい。しかし、偶然だとしたら、偶然が重なりすぎている。
◇
父上は言う。「あの令嬢は消すべきだ」と。
マティアスは頷く。副宰相として当然の反応だ。だが、頭の中で、別の計算が走っている。
あの令嬢が宰相を倒すとしたら、どうなるか。
宰相が倒れる。ガルニエ家が失墜する。マティアスも道連れになる。それが一つの未来だ。
だがもう一つの未来もある。あの令嬢と、どこかで折り合いをつける未来。宰相派の後継としてではなく、ガルニエ家として生き残る未来。可能か。分からない。だが考えていた。
今はまだ、父上の命令に逆らうことはできない。
だが「逆らう」ことと「遅らせる」ことは違う。情報を意図的に伝えないことは、罪ではない。判断の遅延だ。
マティアスは書類を閉じた。答えは出ない。まだ。
ただ、今夜も、イザベラの嘘を報告しなかった。その事実だけが残っている。
◇
燭台の炎が揺れた。廊下で足音がした。夜番の衛兵だ。規則正しい足音。時刻を刻む音。
マティアスは窓の外を見た。王都の夜。無数の灯りが遠くにある。
あの灯りの一つの下に、アルヴェインの令嬢がいる。学園の寮で何かを考えているのか。眠っているのか。
十歳の子供が、宰相府の最も深い部分まで、既に爪を立てている。恐ろしい、と思った。そして、少しだけ、面白い、とも思った。
燭台の炎が揺れた。しばらく、消さなかった。




