父と娘の戦略会議
月に一度の帰省日だった。寮外活動の制限は敷かれたが、父の書面許可があれば帰省は可能だ。セレスティアは申請を出し、三日待ち、ようやく許可を得た。
以前は即日許可だった。三日待たされること自体が、宰相派の嫌がらせだ。だが怒っても仕方がない。三日で済んだだけましだと思うことにした。
公爵家の馬車がセレスティアを迎えに来た。御者台にヴォルフが座っていた。
「ヴォルフ」
「お嬢様」
いつもと変わらない。寡黙。無表情。だが、ヴォルフがいるだけで、空気が変わる。安全の気配。
馬車の中で、セレスティアはナターシャと今日の議題を確認した。
「お父様との定例会議。議題は三つ。一、テオドールの保護状況。二、現状の勢力図。三、今後の方針」
「公爵閣下はお忙しいようです。摂政エレオノーラ様の補佐と、貴族院の調整で」
「それでも時間を作ってくれる。お父様は、ちゃんとわたしを見てくれている」
◇
公爵邸の書斎では、ライナルト・フォン・アルヴェイン公爵が、机の上に地図と書類を広げて待っていた。
「セレスティア。よく来た」
「お父様。お元気そう」
「元気ではないが、生きている。それで十分だ」
父の顔には疲労が見えた。だが目は鋭い。
「座りなさい。ヘルマンも呼んである」
書斎の隅にヘルマン・ゲルツが控えていた。白髪の老家臣。鋭い目。手紙の中でしか知らなかった「若き日のヘルマン」の面影が、目元にかすかに残っている。
「ヘルマン。テオドールの件から」
「はい。フェリクス坊ちゃまとヴォルフ殿が、テオドールの身柄を確保いたしました。現在、公爵家の別邸に匿っております」
「無事に?」
「無事に、とは言い切れません。マティアスの監視に気づかれた可能性があります。テオドールの宿からの移動を、尾行されていた形跡が」
セレスティアの眉が寄った。
「宰相に知られた?」
「テオドールが公爵家の保護下に入ったことは、遠からず宰相の耳に届くでしょう。問題は、宰相がどう動くかです」
父が口を開いた。
「テオドールを奪還しに来るか、あるいは、テオドールの信用を潰しにかかるか」
「テオドールの信用を?」
「テオドールが公爵家に保護された場合、宰相は二つの対応が取れる。一つ、テオドールを物理的に取り戻す。だがこれは公爵家との直接対立になるため、危険が大きい。もう一つ、テオドールの証言の信用性を予め潰しておく。『テオドールは公爵家に買収された嘘つきだ』と」
「……先に言い触らされたら、テオドールの証言が使えなくなる」
「その通りだ」
ヘルマンが頷いた。
「第三段階です。宰相は集めた情報を、使う。ただし、今回はテオドールを『証拠』に使うのではなく、テオドールが公爵家に寝返ったことを利用して、公爵家を『証人買収者』に仕立て上げる可能性がある」
攻守が入れ替わる。テオドールを保護したことが、逆に弱点になり得る。
「……でも、保護しないわけにはいかなかった」
「もちろんです。保護は正しい判断です。問題は、保護した後の対処です」
父がセレスティアを見た。
「セレスティア。ここからは君の意見を聞きたい。現状の勢力図を整理しよう」
セレスティアは深呼吸した。
「継続的な協力が確認できるのは、公爵家。王妃エレオノーラ様が摂政として動いてくれている。モンテヴェルデ侯爵家。ヴィオレッタが繋いでくれた。辺境伯家。コンラートの父上。オスヴァルト、魔術師長として技術的な支援。リディアさま、南方の知識と情報。ニコラスの情報網、裏社会の動き」
「対立行動を取っている者は」
「宰相ヴィクトール本人。副宰相マティアス。カスパル。ルシアンは利用されている立場で、本人の意志はまだ確認できていません」
「立場が固定されていない者は」
「神殿。大神官は聖魔力を理由に介入を狙っている。貴族院で態度を決めていない者たち、ブリュンヒルデ男爵、ヴァルトシュタイン子爵、シュテルン伯爵ら。この人たちは摂政選出では賛成してくれたけど、次もそうとは限らない。そして」
セレスティアは一瞬、言葉を切った。
「アレクシス殿下」
部屋の空気が変わった。
「殿下は、今、揺れている。カスパルに疑念を植え付けられた。わたしに秘密があることに気づいている。距離を置いている」
「アレクシス殿下が何を確かめ、どう判断するかで、全てが決まる」
父の声は静かだった。だが重かった。
「殿下が宰相の判断に従えば、摂政体制が崩壊する。殿下が自分で事実を確かめるなら、王権は特定の派閥ではなく法を支える力になる」
「鍵はアレクシス殿下なのね」
「常にそうだ。この国の鍵は、常に王位継承者が握っている」
セレスティアは俯いた。
アレクシスにこちらを選ばせてはならない。必要なのは、誰かの言葉ではなく、自分で事実と証拠を確かめてもらうことだ。アレクシスは「考える時間がほしい」と言った。追えば逃げる。待つしかない。
「お父様。アレクシス殿下のことは、待ちます」
「待つ?」
「殿下は自分で考えている。カスパルの言葉に流されそうになりながらも、自分の目で見て判断しようとしている。その判断を、信じたい」
父は少し驚いた顔をした。そして、微笑んだ。
「……信じて待つか。政治の世界では珍しい戦略だな」
「戦略、かな。ただ、信じたいだけ」
「それでいい。信じて待つのも、立派な戦略だ」
父がセレスティアの頭を撫でた。大きな手。温かい手。
「お父様」
「なんだ」
「ありがとう。わたしの話を、ちゃんと聞いてくれて」
父の目が、一瞬だけ揺れた。
「……お前に謝らなければならないことがある」
「え?」
「お前が三歳の時から、お前は異常なほど聡明だった。母の薬に疑問を持ち、フェリクスを動かして毒を見つけさせた。五歳で情報戦をやった。七歳で人を見抜いた。九歳で貴族院を動かした」
「……うん」
「私は、そのお前の聡明さに、甘えていた。娘に頼りすぎていた。十歳の子供に、国の命運を背負わせていた」
セレスティアは息を呑んだ。
「お前は子供だ。どれほど聡明でも、十歳の子供だ。それを、忘れていた時期がある。策士としてのお前だけを見て、娘としてのお前を見ていなかった」
「お父様」
「すまなかった」
公爵が頭を下げた。セレスティアに。ヘルマンが目を伏せた。セレスティアの目から、涙が落ちた。
「お父様。わたしは、好きで背負ってるの。誰かに頼まれたからじゃない。自分で選んで、背負ってる」
「それでも、お前が泣いていい場所は、ここにある。父の前では、子供でいていい」
セレスティアは泣いた。声を殺して。肩を震わせて。
石段ではフリーデリケの前で泣けなかった。ナターシャの前では泣かなかった。リディアの前では手を握って支えた。アネリーゼの前では指示を出した。でも、父の前では、泣ける。十歳の子供に戻れる。ほんの一瞬だけ。
「……ありがとう、お父様」
「礼を言うのは私の方だ。お前がいなければ、この家はとっくに潰れていた」
「わたしがいなくても、お父様は強い」
「そうでもない。だが、お前がいるから強くなれた。それは確かだ」
ヘルマンが小さく咳払いした。
「……失礼ですが、会議を続けてもよろしいでしょうか」
「ああ。すまない、ヘルマン」
父が照れたように咳払いした。セレスティアは涙を拭いた。
「今後の方針です」
ヘルマンが切り出した。
「テオドールの保護は完了しました。次にすべきは、防御ではなく、攻撃の準備です」
「攻撃?」
「宰相を法廷で裁く。嬢様がそう仰ったと、ナターシャから聞いております」
セレスティアは頷いた。
「宰相を倒すには、法で裁くしかない。そのための証拠を集めている。魔力暴走装置の物証。テオドールの証言。母上の毒殺未遂の処方箋。他にも」
「他にも必要です。宰相を法廷に立たせるには、最低でも貴族院の三分の二の賛成が要る。証拠だけでなく、政治的な多数派工作が必要です」
「三分の二……三十五票」
摂政選出の時は二十七票で勝った。あと八票足りない。
「八票をどこから集めるか、が、次の戦いです」
父が地図を指した。貴族院の議員名簿が広げてある。
「態度を決めていない議員に、もう八人、証拠を示して判断を求める」
「時間はあります。急ぐ必要はない。証拠を集めながら、一人ずつ」
ヘルマンの言葉に、セレスティアは頷いた。
「お父様。もう一つ」
「なんだ」
「フェリクスお兄様が魔力暴走装置の分析を続けている。あの装置は、わたしの魔力波形に特化した罠だった。つまり宰相は、わたしの魔力を密かに測定した。いつ、どこで、誰が、それを突き止めたい」
ヘルマンの目が光った。
「魔力の測定……嬢様が学園に入る前ですか、後ですか」
「装置が仕掛けられたのは五歳の時。測定はそれ以前のはず」
「五歳以前……公爵邸で測定された可能性がありますな。出入りの魔術師がいたかもしれない」
「ヘルマン、調べてくれる?」
「もちろんです。過去の公爵邸への来訪者記録を洗い直します」
新しい糸が見えた。宰相の情報網の、まだ見えていない部分。
それを一つずつ辿っていけば、やがて宰相の全体像が見える。
◇
帰りの馬車の中で、セレスティアは窓の外を見ていた。王都の街並みが流れていく。
「ナターシャ」
「はい」
「お父様が、謝ってくれた」
「……そうでしたか」
「前世では、なかったの。お父様がわたしに謝ることは。わたしの目を見て話すことすら、ほとんどなかった」
ナターシャは黙って聞いていた。
「お父様は、変わった。でもお父様自身が、変わろうとしてくれた」
「公爵閣下は、お嬢様を誇りに思っておいでです」
「知ってる。それが、嬉しくて、怖い」
「怖い?」
「期待に応えられなかったら、って。前世では応えられなかった。全部壊れた」
「今世は違います」
「うん。今世は、違う。お父様がいる。お兄様がいる。ナターシャがいる。みんながいる」
馬車が学園の門に着いた。セレスティアは降りる前に、もう一度窓の外を見た。夕焼け。赤い空。
「あと八票」
セレスティアは、宰相を法廷に立たせるために必要な残り八票を思い、静かに呟いた。一票ずつ集め、一人ずつ信じてもらうのだ。
時間はかかる。でも、急がない。急いで壊すより、ゆっくり積む方がいい。
父が教えてくれた。信じて待つのも戦略だと。
「行ってきます」
馬車を降りた。夕暮れの学園に戻った。寮の廊下で、フリーデリケとすれ違った。
「おかえり、セレスティアさま! お父様お元気だった?」
「うん。元気だった」
「よかった。あ、今日の夕食、豆のスープだって。わたし豆のスープ好きなの」
「わたしも好き」
「一緒に食べよ」
「うん」
セレスティアは笑った。今日一番の、自然な笑顔で。




