南方の異変
リディアが石段に来なかった日が、初めてあった。
昼休み、いつもの場所にはフリーデリケとアネリーゼがいたが、リディアの姿だけがなかった。
「リディアさま、今日は授業の後すぐに寮に戻りました」
アネリーゼが言った。
「体調が悪いの?」
「いえ……手紙が届いたようです。南方から」
南方。セレスティアの胸がざわめいた。
リディア・フォン・アルカディア。南方アルカディア王国の王女。祖国は二年あまり前、東の隣国エルディアに併合され、リディアは亡命王族としてレグナシオン王国に身を寄せた。
南方からの手紙。それが良い知らせであることは、まずない。
「行ってくる」
セレスティアは石段を降りて、寮に向かった。
◇
リディアの部屋の扉を叩いた。返事がなかった。もう一度叩いた。
「リディアさま。セレスティアです」
長い沈黙。そして、鍵が開く音。扉が細く開いた。リディアの顔が見えた。目が赤かった。
リディアが泣いた顔を見たのは、初めてだった。鎧が、外れている。
「……入って」
部屋に入った。リディアの部屋は質素だった。亡命者としての生活費は限られている。机の上に手紙が一通。開封済み。
リディアはベッドの端に座った。セレスティアは向かい合って椅子に座った。
「何があったの」
リディアは手紙を差し出した。セレスティアは受け取って読んだ。南方の言語だが、リディアに教わった基礎知識で、大意は読み取れた。
『アルカディア旧領における情勢報告。
アルマンド将軍が旧王宮を占拠。「アルカディア解放軍」を名乗り、周辺三国に宣戦を布告。
将軍は旧王家の復権を旗印にしているが、実態は軍閥による領土支配。
旧王家の遺臣は将軍の軍門に降るか、投獄されている。
レグナシオン王国の南方国境にも緊張が波及。アルマンド軍の偵察隊が国境線付近で確認された。
リディア殿下に告ぐ。祖国は、もうありません。
報告者 旧臣ガスパール』
「……」
セレスティアは手紙を置いた。リディアは窓の外を見ていた。目は乾いていた。泣き尽くした後の目だ。
「アルマンド将軍は」
リディアの声は平坦だった。感情を押し殺した声。
「父の部下だった。父が信頼した将軍。父が死んだ後、祖国を守ると誓った男。その男が、祖国を乗っ取った」
「リディアさま」
「旧王家の復権を旗印にしている。つまりわたしの名前を使っている。『王女リディアの名の下に』と。わたしに断りもなく」
声が震えた。押し殺した感情が、隙間から漏れている。
「祖国はもうない、とガスパールは言った。でも、わたしはまだ生きている。王女として生きている。名前を勝手に使われて、わたしの知らないところで人が死んでいる」
リディアの手が拳を握った。
「わたしの名前で、戦争をしている」
セレスティアは黙って聞いた。リディアの痛みは、セレスティアには完全には理解できない。祖国を失う苦しみ。自分の名前が戦争の道具にされる怒り。
でも、名前を奪われることの苦さは、どこかで知っている気がした。
「リディアさま」
「なに」
「手を、握っていい?」
リディアが振り向いた。赤い目。セレスティアは手を伸ばした。リディアの手を握った。冷たかった。南方育ちなのに、冷たい手。
「わたしには、リディアさまの祖国を取り戻す力は、今はない」
「……わかってる」
「でも、約束する。リディアさまの国のことを、わたしたちの問題にする。レグナシオン王国の問題として、向き合う」
リディアの目が揺れた。
「それは」
「外交。今まで考えてなかった。宰相との戦いで手一杯で、外のことを見ていなかった。でもリディアさまが教えてくれた。国の外にも、守るべきものがある」
「セレスティア。あなたは十歳よ。自分の国の宰相と戦うだけで手一杯なのに、南方のことまで」
「今すぐじゃない。今すぐは無理。でも、将来。わたしが力を持ったら。その時は、リディアさまの祖国のことも、一緒に考える。約束する」
リディアは長い間、セレスティアの目を見つめていた。そして、崩れた。
涙が落ちた。一粒。二粒。やがて、堰を切ったように。
「……ずるい。そういうこと言うの、ずるい」
「ずるくない。本気だよ」
「わかってる。あなたが本気なのは、わかってるから、ずるいの」
リディアがセレスティアの手を握り返した。強く。
「わたしね。この国に来てから、ずっと一人だった。亡命者だから。王女だけど、国がない王女。どこにも属さない。誰の味方でもない」
「うん」
「石段で初めてパンを食べた時、こんなところに居場所ができるとは思わなかった」
「リディアさまの居場所は、あの石段にある。ずっと」
「……南方にね、本当の諺があるの」
「嘘じゃなくて?」
「嘘じゃない。本物。おばあさまが教えてくれた」
リディアは涙を拭った。けれど、拭ってもまた新しい涙が頬を伝った。
「『故郷とは土地ではない。人である』」
「……いい諺」
「祖国は滅んだ。土地は奪われた。でも、ここに人がいる。セレスティアがいる。フリーデリケがいる。アネリーゼがいる。石段がある」
「うん」
「だから、わたしは、まだ故郷を失っていない」
セレスティアはリディアの手を両手で包んだ。冷たい手が、少しだけ温まった。
◇
石段に戻ったのは、授業の鐘が鳴り始める寸前だった。
フリーデリケがまだそこにいた。パンの袋を膝に乗せたまま、石段の縁に座って待っていた。
「リディアさまは?」
「大丈夫」
「……そっか」
フリーデリケはそれだけ言った。詳しいことを聞かなかった。
「三角のパン、残してあるよ」
「ありがとう」
パンを受け取った。冷めていたが、甘かった。アネリーゼが隣で温かい水を差し出してくれた。
「どうぞ。少し温めました」
「ありがとう」
三人で石段に座った。誰も喋らなかった。春の風だけが、静かに石段を渡っていった。鐘が鳴った。立ち上がる前に、フリーデリケが言った。
「リディアさまにも、三角のパン、取っといてある」
「渡してあげて」
「うん」
◇
その夜、セレスティアは自室で分析ノートを開いた。
『南方の情勢が動いた。
アルマンド将軍。アルカディア旧領を制圧。リディアさまの名を騙って戦争を起こしている。
国内問題だけではなく、外交問題も視野に入れなければならない。
内と外。両方の敵に対処しなければならない。
リディアさまに南方の政治地図を教えてもらう。
南方諸国の力関係。アルマンド将軍の弱点。レグナシオン王国が取るべき外交戦略。
追記。
リディアさまが言った南方の諺。
「故郷とは土地ではない。人である」。
この諺を、忘れない。
セレスティア 記す』
ノートを閉じた。枕の下のラベンダー。今日は、もう一つの香りもある。
リディアが別れ際にくれた小さな木の実。南方の木の実。名前は知らない。だが温かい匂いがする。
「これ、南方では『友誼の実』と呼ぶの」
「本当の名前?」
「本当。……たぶん」
「たぶんか」
笑い合った。泣いた後の笑顔。一番きれいな笑顔だとセレスティアは思った。ラベンダーと、南方の木の実。二つの香りを枕元に置いて、目を閉じた。
明日、リディアに南方の政治地図を教えてもらおう。新しい教科書だ。宰相と戦うだけでは、足りない。




