アネリーゼの使命
アネリーゼは夜の神殿にいた。王都の神殿は王宮の隣に建っている。白い石壁。高い尖塔。夜になると蝋燭の明かりが窓から漏れ、まるで星が建物の中に閉じ込められたように見える。
アネリーゼは学園の寮ではなく、休日には神殿に戻る。ここが、もう一つの家だ。
大神官シルヴェストルの執務室は最上階にある。石の階段を登るたび、足音が反響した。扉を叩いた。
「入りなさい」
低い声。穏やかだが、重い。三十年間、神殿を率いてきた男の声。
「アネリーゼです。お呼びと伺いました」
部屋に入った。
「座りなさい」
椅子を勧められた。大神官の机の上には書類が山積みになっている。神殿の運営は巨大な官僚組織だ。信仰だけでは動かない。
「アネリーゼ。お前は学園でセレスティア・フォン・アルヴェイン嬢と親しいと聞いている」
「はい」
「どのような人物だ。お前の目から見て」
アネリーゼは考えた。どう答えるべきか。セレスティアとの約束がある。神殿を裏切らない。だがセレスティアも裏切らない。
「……優しい方です。頭が良くて、まわりをよく見ていて、でも、疲れている方です」
「疲れている?」
「はい。たくさんのことを背負っています。年齢の割に、たくさん」
大神官は頷いた。
「アルヴェイン嬢には、特別な魔力があるという話がある」
「……噂は聞いています」
「噂ではない。複数の目撃情報がある。実技試験で闇属性に近い光が発現した。光と闇の両方を内包する魔力、聖魔力の可能性がある」
大神官の声は淡々としていた。だが目が光っている。
「アネリーゼ。お前に頼みたいことがある」
「セレスティア嬢に、神殿への帰依を勧めてほしい」
「帰依、ですか」
「正式な帰依ではない。まずは神殿との関係を深めてほしい。神殿に来訪する機会を作る。大神官との面会を受け入れてもらう。そこから、段階的に」
「大神官さま。一つお聞きしてもよろしいですか」
「なんだ」
「セレスティアさまを、利用するおつもりですか」
大神官の目が細くなった。怒ったのではない。アネリーゼの直截さに、少し驚いたように。
「利用という言葉は好まない」
「では、何とおっしゃいますか」
「保護だ。聖魔力は危険な力だ。制御を誤れば持ち主を傷つける。神殿には聖魔力の制御に関する古い文献がある。我々だけが、彼女を守れる」
アネリーゼは十歳だが、神殿で育った。大人たちの建前と本音の区別はつく。
「わかりました。セレスティアさまにお伝えします」
「頼んだぞ。そして、アネリーゼ」
「はい」
「お前は優秀な治癒師見習いだ。神殿はお前の将来に期待している。それを、忘れるな」
アネリーゼは一礼して部屋を出た。
◇
石の階段を降りながら、アネリーゼは手すりを強く握っていた。手が震えていた。
大神官を嫌いになれない。この人は神殿を守ろうとしている。神殿が守られれば、アネリーゼのような孤児を救う場所が残る。大神官の判断は、大神官なりに、正しい。でも。
セレスティアを「手段」にしようとしている。聖魔力という力を、神殿の権威のために使おうとしている。
セレスティアは人間だ。力ではない。あの人は、疲れている。たくさんのものを背負って、夜も眠れないほど。ラベンダーの香りがなければ眠れないほど。そんな人をさらに利用するのは……
「アネリーゼ」
声をかけられた。階段の途中。振り返ると、ベルトランがいた。神殿騎士団長。大柄な男。四十代。実直な顔。
「ベルトラン様」
「大神官と話してきたか」
「……はい」
「聖魔力の件だろう」
隠しても仕方がない。ベルトランは神殿の軍事部門の長だ。大神官の方針は共有されている。
「はい」
ベルトランは周囲を見回した。誰もいないことを確認して、声を低くした。
「アネリーゼ。一つだけ言っておく」
「はい」
「大神官の判断が常に正しいとは限らん」
アネリーゼは目を見開いた。
「神殿は、信仰の場だ。政治の道具ではない。聖魔力の持ち主を管理下に置くことが神の御心かどうか、俺にはわからん」
「ベルトラン様……」
「だが俺は騎士だ。政治は分からん。お前が決めろ。お前の目で見て、お前の頭で考えて、正しいと思うことをやれ」
ベルトランはそれだけ言って、階段を登っていった。
アネリーゼは一人、階段の途中に立っていた。
大神官は「神殿のために動け」と言う。
ベルトランは「自分で考えろ」と言う。
セレスティアは、「正直に言ってくれてありがとう」と言った。
アネリーゼは階段を降りた。神殿の裏口から外に出た。夜の空気が冷たい。星が見えた。手を合わせた。祈った。
誰に祈っているのか、自分でもわからなかった。神に? 亡き両親に? それとも、自分自身に?
(わたしは、わたしの正しいと思うことをする)
◇
翌日、学園の石段で、アネリーゼはセレスティアに全てを伝えた。大神官の言葉、帰依の勧誘、段階的な取り込みの計画。そして、ベルトランの言葉も。
「ベルトラン? 神殿騎士団長の?」
「はい。あの方は、大神官とは違う考えを持っているようです。神殿の中にも、一枚岩ではない部分がある」
「神殿にも良心派がいるのね」
「良心派……そうかもしれません」
「ベルトランは、信仰を守りたい人? 組織を守りたい人?」
「信仰です。あの方は本当に神を信じています。大神官は、組織を信じています」
セレスティアは頷いた。
「ありがとう、アネリーゼ。すごく大事な情報」
「大事……ですか」
「うん。神殿が一枚岩じゃないなら、交渉の余地がある。大神官と直接ぶつかるんじゃなくて、神殿の中の良心派と繋がることで、大神官を牽制できる」
アネリーゼは目を丸くした。
「セレスティアさま。あなたは本当に十歳ですか」
「……それ、最近流行ってる質問なの?」
「え?」
「ナターシャにも同じこと言われた」
セレスティアは苦笑した。
「アネリーゼ。もう一つお願い」
「はい」
「ベルトランに、わたしの名前を伝えて。『アルヴェイン嬢は神殿の信仰を尊重している。敵ではない』と。大神官に直接言えないことを、ベルトランになら言える」
「……わかりました。でも、わたしがベルトラン様と頻繁に話していると、大神官に疑われるかもしれません」
「そうね。じゃあ、自然な形で。治癒師見習いが騎士団長に挨拶するのは不自然じゃないでしょう?」
「不自然ではありません。治癒師は騎士の負傷を治す担当ですから」
「なら、治療の時にさりげなく」
アネリーゼは微笑んだ。
「セレスティアさま。わたしは、あなたの味方です。条件付きですが」
「条件は守る。神殿を傷つけない」
「はい。それだけ守ってくだされば、わたしはあなたの傍にいます」
「ありがとう」
セレスティアが手を伸ばして、アネリーゼの手を握った。小さな手。十歳の手。温かかった。
フリーデリケが石段の上の方から降りてきた。パンの入った布袋を持って。
「二人ともー! 今日のパンは三角! 三角は珍しいよ!」
リディアが後ろから言った。
「南方では三角のパンは不吉とされている」
「えっ嘘!」
「嘘。三角は豊穣の象徴」
「もう! どっちなの!」
「両方。南方の諺は曖昧なの」
「それ諺じゃなくてリディアさまの性格でしょ!」
笑い声が石段に響いた。アネリーゼも笑った。セレスティアも笑った。アネリーゼは祈った。心の中で。
この場所が、ずっと続きますように。神に祈った。今度は、確かに神に。
◇
夜、神殿に戻ったアネリーゼは、治癒室を片付けながら考えていた。
セレスティアの手は温かかった。あの手は、人を救おうとしている手だ。大神官の手は冷たい。計算する手だ。
ベルトランの手は硬い。剣を握ってきた手だ。
アネリーゼの手は、まだ何も持っていない。治癒の術を学んでいるだけの、見習いの手だ。それでもいつか、この手で誰かの傷を治したい。体の傷だけではない。心の傷も。
神殿で学んだ治癒術には、三つの段階がある。
第一段階。体の治癒。傷を塞ぎ、骨を繋ぐ。
第二段階。病の治癒。体の奥にある病の根を探り、原因を取り除く。疲労を取り、活力を与え、体の流れを整えるのも、この段階の応用だ。
第三段階。心の治癒。
第三段階を修めた者は、百年に一人と言われている。心の傷は、体の傷よりも深く、複雑で、治療法が確立されていない。
セレスティアさまの傷は、第三段階の傷だ。あの人が抱えている恐怖。夜ごとの悪夢。ラベンダーがなければ眠れない夜。それは体の病ではない。心の、魂の傷だ。
「わたしが治す」
誰もいない治癒室で、薬棚を前にして声に出した。今の自分は、まだ見習いにすぎない。それでもいつか第三段階を修め、セレスティアさまの心を治す。
薬棚の隅に、乾燥したラベンダーの束があった。神殿の薬草園で育てたもの。
一握り取って、布袋に詰めた。明日、セレスティアさまに渡そう。フリーデリケのとは別に。治癒師からの、処方箋として。アネリーゼは微笑んだ。
石段の仲間に、治癒師が一人いる。




