神殿の動き
神殿が動いた。報せを持ってきたのはアネリーゼだった。放課後、ほかの二人がいない時間を見計らい、石段の隅で声をかけてきた。
「セレスティアさま。お話があります」
アネリーゼの顔が強張っていた。いつもの穏やかさが消えている。
「どうしたの」
「大神官シルヴェストル様が、セレスティアさまの名前を、神殿の会議で出しました」
セレスティアの動きが止まった。
「わたしの名前を?」
「はい。『聖魔力の持ち主が現れた可能性がある。もしそれが事実なら、神殿として保護する義務がある』と」
聖魔力。ルシアンが実技試験で見た黒い光。イザベラが報告しなかった光。その情報が、神殿にまで届いている。
「誰から聞いたの、大神官は」
「わかりません。ですが神殿には独自の情報網があります。特に魔力に関することは、神殿の管轄です。王宮魔術師団より先に察知することもあります」
大神官シルヴェストル。
「大神官はどういう人? アネリーゼの目から見て」
アネリーゼは少し考えた。
「……狡い方です。ですが、悪い方ではないと思います」
「狡いけど悪くない?」
「神殿の利益を第一に考える方です。信仰よりも組織を優先する。でも、組織を守ることで、結果的に信仰を守ろうとしている。わたしにはそう見えます」
「聖魔力の持ち主を神殿に保護する、というのは?」
「建前は保護です。ですが本音は、管理です。聖魔力は『神の祝福』とされています。それを持つ者が神殿の管理下にいれば、神殿の権威が飛躍的に高まります」
「……第三の勢力ね」
「え?」
「今まで、宰相と公爵家の二つが戦っていた。そこに神殿が入ってくる。三つ巴になる」
アネリーゼは頷いた。
「はい。大神官は、摂政選出の混乱を見て、今が動く好機だと判断したのだと思います。宰相は敗北して弱った。公爵家は勝利したが消耗している。その隙に」
「アネリーゼ。もう一つ聞いていい?」
「はい」
「あなたに、何か言ってきた? 大神官は」
アネリーゼの目が揺れた。答えを聞く前に、わかった。
「……言われたんだね」
「……はい」
アネリーゼの声が小さくなった。恥じるように。申し訳なさそうに。
「何を言われたの」
「……セレスティアさまに接触し、神殿への帰依を促すように、と」
「アネリーゼ」
「ごめんなさい。わたし、言うべきか迷いました。黙っていた方がいいのか、正直に言った方がいいのか」
「正直に言ってくれてありがとう」
セレスティアは笑った。心からの笑みだった。
「アネリーゼ。あなたは神殿に恩があるんでしょう」
「……はい。わたしは孤児です。神殿に拾われました。治癒の術を教えてもらいました。食べさせてもらい、屋根を与えてもらいました」
「だから大神官の命令を断れない」
「断れません。でも、セレスティアさまを裏切ることもできません」
アネリーゼの目に涙が浮かんでいた。
「泣かないで」
「でも」
「泣かなくていい。わたしが考えるから」
セレスティアは空を見上げた。春の空。高い雲。考えろ。
神殿と全面的に対立するのは得策ではない。宰相の犯罪を追いながら神殿とも争えば、対処すべき問題が広がりすぎる。
かといって、神殿の管理下に入るのも論外だ。聖魔力を神殿に管理されれば、自由に動けなくなる。
服従でも全面対立でもない、「第三の選択肢」が必要だ。
「アネリーゼ」
「はい」
「大神官に、こう伝えて。『セレスティア・フォン・アルヴェインは神殿の信仰を尊重する。ただし、聖魔力の保有については確認されていない。噂に過ぎない。確認が取れるまでは、いかなる措置も時期尚早である』」
「……否定するのですか。聖魔力を」
「否定はしない。確認されていないと言うだけ。嘘ではないでしょう? 正式な魔力測定は受けていないんだから」
技術的には事実だ。ルシアンが見た「黒い光」は目撃証言に過ぎない。王宮魔術師団の正式な測定を受けたわけではない。
「でも、大神官は信じないと思います。情報は既に持っているでしょうから」
「信じなくていい。時間を稼げればいい」
「時間?」
「今、宰相の件で手一杯なの。テオドールの保護、アレクシス殿下の疑念、ヘルマンの警告、全部同時に来てる。ここに神殿まで加わったら、対応しきれない」
アネリーゼは目を見開いた。
「……そんなに多くのことを、同時に?」
「うん。だから、神殿は後回しにさせて。今は、時間がほしい」
「わかりました。大神官に伝えます。ですが、大神官は待たないかもしれません」
「待たなかったら、その時はその時」
セレスティアはまた空を見上げた。問題が多すぎる。宰相のテオドール調査。カスパルの離間工作。アレクシスの疑念。そして神殿の介入。全方向から攻められている。
だが、全方向を同時に防ぐ必要はない。優先順位をつければいい。
今、最も差し迫っているのはテオドールだ。テオドールが宰相の「証拠」にされたら取り返しがつかない。
アレクシスの疑念は、待つと決めた。殿下が自分で考える時間を尊重する。
神殿は、時間を稼ぐ。否定せず、肯定せず、曖昧に。
「アネリーゼ。もう一つお願い」
「なんですか」
「大神官の動きを、教えてほしい。神殿が何を考えているか、何をしようとしているか。わたしに教えてくれる?」
アネリーゼの表情が複雑になった。
「それは、スパイになれということですか」
「違う」
セレスティアは首を振った。
「スパイじゃない。友人として、心配だから教えてほしいだけ。神殿がわたしのことをどう見ているか、知りたい。知らないと、怖いの」
「怖い?」
「知らないところで何か決められるのが怖い。だから教えて。神殿が何を決めたか。何を考えているか。わたしは敵じゃないから、知っていれば、うまくやれる。神殿とも、アネリーゼとも」
アネリーゼは長い間、セレスティアの目を見ていた。そして、頷いた。
「わかりました。わたしが知っていることは、お伝えします。でも、一つだけ」
「なに」
「わたしは神殿を裏切りたくありません。神殿を傷つけるようなことには、使わないでください」
「約束する」
「……ありがとうございます」
アネリーゼが微笑んだ。涙はもう乾いていた。
◇
その夜、セレスティアは自室で分析ノートを開き、暗号で書き始めた。
『第三の勢力、神殿が動いた。
【現状の関係者と立場】
加害計画の中心:宰相ヴィクトール(テオドール調査、カスパル離間工作)
意図未確定:大神官シルヴェストル(聖魔力を理由に管理を狙う)
判断保留:アレクシス殿下(疑念あり。考える時間を求めている)
継続的な協力者:父、母、フェリクス、ヴォルフ、ナターシャ、ヘルマン
継続的な協力者:ヴィオレッタ、リディア、コンラート、フリーデリケ
協力者だが制約あり:アネリーゼ(神殿との板挟み)
独自に判断し始めている者:イザベラ(証拠を父に報告しなかった。協力を強要しない)
時間が、足りるだろうか。
セレスティア 記す』
ノートを閉じ、枕の下にラベンダーの小袋を入れた。フリーデリケが届けてくれた新しい香りに包まれて、目を閉じる。
明日はフェリクスから返事が届き、テオドールの保護と神殿への対応が動き出す。やることは多すぎる。それでも今夜は、ラベンダーの中で眠ろう。
丸いパンの記憶を抱くうち、心臓は静かなリズムを取り戻した。とくん、とくん。とくん、とくん。
心臓が鳴っている。




