フリーデリケの気づき
石段。昼。
いつもの場所に、いつもの四人がいた。
セレスティア。フリーデリケ。リディア。アネリーゼ。
春の陽射しが石段を温めていた。風が穏やかで、中庭の花壇から甘い香りが漂ってくる。学園の昼休みの、何でもない一コマ。
「今日のパンは丸いの。昨日は四角だった」
フリーデリケが、手のひらに乗せたパンを見せて言った。
「形が違うと味も変わるの?」
リディアが聞いた。
「変わらないけど、気分が変わる。丸いと嬉しい」
「なぜ?」
「なんとなく。丸いものは——優しい感じがする」
リディアが真顔で頷いた。
「南方にも似た言い伝えがある。『丸い食べ物は魂を癒す』と。だから南方の祝祭では丸いパンを焼くの」
「ほんと? それ南方ではみんな知ってるの?」
「……今わたしが作った」
「えっ」
「嘘。南方の諺。たぶん」
「たぶんって何」
アネリーゼがくすくす笑った。セレスティアも笑った。
パンをかじった。チーズを挟んで。干し果物を一粒つまんだ。フリーデリケが持ってきた干し林檎。甘酸っぱい。
「セレスティアさま」
フリーデリケの声が変わった。かすかに。
「なに?」
「最近、眠れてないでしょう」
セレスティアの手が止まった。
「……なんで?」
「目の下。隈がある」
思わず手で目の下を触った。
「隠してるつもりだったけど」
「隠せてない。三日前から気づいてた」
「……ちょっと考えることがあって」
「うん」
フリーデリケはそれ以上聞かなかった。
「考えること」が何かを問い詰めない。政治の話かとも聞かない。大丈夫かとも聞かない。
ただ——干し林檎の袋を、セレスティアの膝の上に置いた。
「甘いもの食べると眠れるって、お母さんが言ってた」
「……ありがとう」
「あと、これ」
フリーデリケが鞄から小さな布袋を取り出した。ラベンダー色の布。紐で口を縛ってある。
「前のやつ、もう香り薄いでしょう。新しいの作った」
セレスティアは受け取った。布袋を鼻に近づけた。ラベンダーの香り。濃い。摘みたてに近い。
「これ——」
「お母さんに頼んで、領地から送ってもらった。うちの庭に生えてるの。たくさんあるから」
フリーデリケの家は小貴族だ。領地は小さい。広い庭があるわけではない。だが庭の隅にラベンダーが植わっている。それを——わざわざ摘んで、乾燥させて、布袋に詰めて。
「フリーデリケ」
「なに」
「ありがとう」
「別にたいしたことしてない」
「たいしたことだよ」
「パンとラベンダーだけだよ」
「それが——」
泣きそうになった。
堪えた。ここで泣いたら、フリーデリケが心配する。心配させたくない。この子には、心配なんかさせたくない。
「——それが、うれしいの」
フリーデリケは小首を傾げた。何がそんなに嬉しいのか、本当にわからないという顔で。
その「わからない」が——いいのだ。
何もわからないまま、パンとラベンダーを持ってきてくれる。
リディアが横から口を挟んだ。
「セレスティア。本当に大丈夫? 隈だけじゃない。少し痩せた」
「大丈夫。食べてるし」
「食べてるのに痩せるのは、頭を使いすぎている証拠よ。南方では——」
「南方の諺?」
「ええ。『頭が熱くなれば体は冷える』。考えすぎると体が痩せるの」
「それは本当の諺?」
「本当。祖母が言っていた」
「リディアさまのお祖母さまって、諺をいくつ知ってるの」
「三千くらい」
「多すぎない?」
アネリーゼが静かに言った。
「セレスティアさま。もし——お祈りが必要でしたら、いつでも」
「お祈り?」
「神殿には『安眠の祈り』という祈祷があります。治癒魔術とは違いますが、心を落ち着ける効果があります。わたしが唱えることもできます」
アネリーゼの目は穏やかだった。治癒師見習いの目。人の痛みに敏感な目。
「ありがとう、アネリーゼ。でも大丈夫。ラベンダーがあれば眠れるから」
フリーデリケの口元が緩んだ。ほんの一瞬。本人も気づいていないような、小さな微笑み。
石段に陽が差している。四人の少女が座っている。パンとチーズと干し果物。
◇
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
教室に戻る途中、フリーデリケがセレスティアの袖を引いた。
「セレスティアさま」
「なに」
「あのね。わたし——政治のことはわからない。セレスティアさまが何と戦ってるかもわからない」
「うん」
「でも——わたしにわかることが一つだけある」
フリーデリケの茶色い目が、真っ直ぐにセレスティアを見ていた。
「セレスティアさまは、一人で全部背負おうとしてる」
心臓が跳ねた。
「わからないなりに、わかる。セレスティアさまは他の人に頼み事をするのは上手。でも——自分のしんどさを誰かに渡すのが、すごく下手」
「……」
「パンとラベンダーしか渡せないけど。それでも——渡しに来るから。毎日」
フリーデリケは言い終わると、照れを隠すように目をそらした。
「……えっと。変なこと言った。忘れて」
「忘れない」
「え」
「忘れない。絶対に」
セレスティアの声が震えていた。自分でもびっくりするくらい。
「フリーデリケ」
「な、なに」
「わたしね。ときどき怖いの。すごく怖い夜がある」
言った。初めて。誰にも言わなかったことを。
フリーデリケは——黙って聞いた。
「何が怖いかは、言えない。ごめんね。でも——怖いの。夜、一人で」
「……うん」
「ラベンダーがあると——少しだけ怖くなくなる。フリーデリケの匂いがするから」
「わたしの匂い?」
「ラベンダーを嗅ぐと、石段を思い出す。フリーデリケが丸いパンを見せて笑ってる顔。それを思い出すと——怖くなくなるの」
フリーデリケの目が——潤んだ。
「——わたし、もっといっぱいラベンダー送ってもらう」
「そんなにいらないよ」
「いっぱい。もう怖くないくらいいっぱい。部屋中ラベンダーにする」
「窒息する」
「しない。ラベンダーは体にいいの。お母さんが言ってた」
セレスティアは笑った。声を出して。
「フリーデリケ」
「なに」
「——ありがとう」
「だから、たいしたことしてないってば」
「してるよ。フリーデリケにしかできないことを、してる」
フリーデリケは首を傾げた。また、わからないという顔で。
教室に入った。午後の授業が始まった。
セレスティアの鞄の中で、新しいラベンダーの小袋が、微かに香っていた。
◇
放課後。
セレスティアが自室に戻ると、ナターシャが待っていた。
「お嬢様。返事が来ました」
「返事——テオドールから?」
「はい」
ナターシャが小さな紙片を差し出した。くしゃくしゃに折り畳まれている。急いで書いたのか、文字が震えている。
セレスティアは紙を開いた。
たった一行だった。
『助けてください。殺されます』
テオドールの返事。
「ナターシャ。お父様に至急の鳥便を。テオドールの保護を——前倒しで」
「五日では間に合いませんか」
「間に合わない。テオドールは追い詰められている。宰相の第二段階が始まっている」
「ナターシャ。おにいさまに連絡を。フェリクスおにいさまとヴォルフに、テオドールの身柄を確保してもらう。お父様の許可を待たずに」
「公爵閣下の許可なしに動くのは——」
「事後承諾にする。お父様は怒らない。テオドールが宰相の手に落ちる方がまずいと分かってるはず」
ナターシャは一瞬だけ躊躇し——頷いた。
「承知いたしました。今夜中に手配します」
「お願い」
ナターシャが部屋を出た。
セレスティアは一人になった。
テオドールの紙片を、もう一度見た。
『助けてください。殺されます』
震える字。小さな字。追い詰められた人間の、最後の叫び。
鞄からラベンダーの小袋を取り出して、机の上に置いた。
フリーデリケの石段と、テオドールの一行。同じ一日の中に、両方がある。
セレスティアは紙片をもう一度折り畳んで、引き出しの中に仕舞った。




