ヘルマンの過去
ヘルマン・ゲルツからの二通目の鳥便は、三日後に届いた。
今度は鳥便ではなく、ナターシャの情報網を経由した長文の書簡だった。暗号化されている。ヴォルフ経由で教わった暗号——公爵家の専用暗号。
セレスティアは自室で、蝋燭の明かりの下で解読した。
『セレスティア嬢様へ
テオドールの件について、詳しくお伝えすべきことがあります。
長くなりますが、お許しください。
まず——私自身の過去からお話しする必要があります。
なぜ私が宰相ヴィクトール・ド・ガルニエの手口を知っているのか。
それは——私がかつて、あの男の同僚だったからです。
ヘルマン・ゲルツ記す』
同僚。
書簡の続きを読んだ。
◇
『三十五年前。
私とヴィクトール・ド・ガルニエは、同じ年に官僚試験に合格しました。
同期でした。同じ部屋で机を並べ、同じ上官に怒鳴られ、同じ安酒場で愚痴を言い合った仲です。
信じられないでしょう。あの冷徹な宰相が、若い頃は酒場で文句を言う普通の青年だったなどと。
ですが事実です。ヴィクトールは——普通の男でした。少なくとも最初は。
違いが見え始めたのは、三年目からです。
私たちの同期は十二人いました。官僚試験の合格者です。全員が優秀でした。ですがヴィクトールだけが——上に行きました。異常な速度で。
理由は二つ。
一つは、あの男の頭脳です。これは認めざるを得ません。ヴィクトール・ド・ガルニエは——天才です。記憶力、分析力、人間を読む力。全てにおいて、私たち同期の誰よりも優れていた。
もう一つは——手段です。
ヴィクトールは出世のために、手段を選びませんでした。
同期のうち三人が、不祥事で官僚を辞めました。一人は横領の疑いで。一人は異性関係の醜聞で。一人は——機密漏洩で。
三人とも、冤罪でした。
証拠はありません。ヴィクトールが仕組んだという証拠は、三十五年経った今も、一つもない。
ですが私は知っています。あの三人が辞めた直後、ヴィクトールがその空席を利用して昇進したことを。あの三人の「不祥事」の噂が、いつもヴィクトールの周辺から流れてきたことを。
第一段階。噂を集める。
第二段階。証拠を構築する。
第三段階。使う。
あの男は三十五年間、このやり方を変えていません。
同期の中で、最後まで残ったのは私とヴィクトールだけでした。
私は——逃げました。
ヴィクトールの次の標的が自分だと悟ったからです。あの男の目が変わった瞬間を、今でも覚えています。酒場で向かい合っていた時、ふとヴィクトールが言いました。
「ヘルマン。お前はいい奴だ。だがいい奴は出世できない。この国では」
あれは忠告ではありませんでした。宣告です。「お前は排除する」という。
翌週、私は辞表を出しました。
そしてアルヴェイン公爵家に——先代のお祖父様に拾っていただいた。
以来三十五年。私は公爵家の家臣として生きてきました。
ヴィクトールは宰相にまで上り詰めた。
あの男を止められなかった負い目が、ずっとあります。
三十五年前に私が逃げずに戦っていれば、あの男は宰相になれなかったかもしれない。
そうすれば、公爵家がこれほど苦しむこともなかったかもしれない。
嬢様。老人の繰り言にお付き合いいただき、申し訳ありません。
本題に入ります。
テオドールの件。
あの男——テオドールは、今、三十五年前の私の同期たちと同じ立場にいます。
使い捨てられる身です。
ヴィクトールは手下の安全など考えません。使えるだけ使い、壊れたら捨てる。
テオドールを保護するという嬢様の判断は、正しい。
あの男を宰相の手元に置いておけば、いずれ偽証者に仕立て上げられます。
ですが——急いでください。
ヴィクトールの第二段階は速い。
噂を集め終えたら、証拠の構築に二週間もかかりません。
テオドールが「証拠」にされる前に、保護してください。
そしてもう一つ。
嬢様に申し上げにくいことですが——テオドールが集めている情報の中に、嬢様の「三歳の異常」があります。
あの頃のことを覚えている使用人は少ない。ですが——ゼロではない。
マルタの証言は、おそらく既に記録されています。
他にも話す者が出るかもしれません。
それらの証言は——全て事実です。
事実は否定できません。ですが、解釈は変えられます。
宰相は「禁忌の魔術」と解釈するでしょう。
私たちは——別の解釈を用意する必要があります。
フェリクス坊ちゃまの知恵が必要です。
ヘルマン・ゲルツ 拝』
◇
セレスティアは書簡を読み終えて、しばらく動けなかった。
ヘルマンの過去。三十五年前の若い官僚が、冷徹な同僚の前で敗北し、逃げた。その負い目を三十五年間抱えて生きてきた。
あの老人が「公爵家はわたしの戦う場所です」と言い切る理由が、今ならわかる気がした。三十五年前に逃げた場所で、今度こそ戦い続けると——そう決めているのだ。
「ナターシャ」
「はい」
「テオドールへの手紙、返事は」
「まだです」
「……急がないと。ヘルマンも同じことを言っている。第二段階に入る前に動かないと」
「お父上への書簡は昨日発送しました。公爵閣下がテオドールの保護を手配するには、最短で五日かかるでしょう」
五日。
長い。テオドールへの手紙を送ってから三日。返事はまだ来ない。その間に宰相の第二段階が始まるはずだ。
「五日は待てない。——おにいさまはどう?」
「フェリクス様からの返信は、明日届く予定です」
「わかった。おにいさまの返事を待って、次の手を考える。それまでは動かない」
セレスティアは書簡を暗号のまま引き出しの奥に仕舞った。
書簡を引き出しに仕舞ってから、ヘルマンの言葉が頭を離れなかった。
『ヴィクトールは——普通の男でした。少なくとも最初は』
普通の男が、宰相になった。手段を選ばなかっただけで。
宰相は——怪物ではない。怪物になった人間だ。
なぜ怪物になったのか。何がそうさせたのか。
ヘルマンの書簡は、その一端を垣間見せてくれた。
「いい奴は出世できない。この国では」
若き日のヴィクトールの言葉。
「……大きいな。やりたいことが」
ぽつりと呟いた。蝋燭の炎が揺れた。
しばらく、その炎を見ていた。揺れるたびに影が壁を動く。
ヘルマンは三十五年前に逃げた。今もそれを「負い目」と書いている。三十五年間、逃げた自分を責め続けてきた老人。
だが——逃げなければ、ヘルマンも壊されていたはずだ。生き延びたから、公爵家に仕えることができた。今こうして書簡を寄越すことができた。逃げることと、退くことは違う。ヘルマンは退いて、別の場所で戦い続けた。三十五年分の忠義が、今の書簡になった。
セレスティアは蝋燭を吹き消した。
闇の中で、目を開けたまま、考え続けた。
テオドール。ヘルマン。フェリクス。父。ナターシャ。
手を並べる。宰相と同じように。
——いや。違う。
仲間だ。
信じるしかない。
テオドールへの手紙の返事は、まだ来ていない。三日以内と言ったナターシャの言葉通りなら、明日か明後日になる。返事が来なければ、それもまた一つの答えだ。動けない事情があるか、監視が厳しすぎるか。その時は別の手を考える。
闇の中で、心臓がとくん、と小さく鳴った。
闇の中で、心臓がとくん、と鳴った。




