テオドールの影
報せはナターシャから来た。
夜。寮の自室。ナターシャが蝋燭を一本だけ灯して、声を落とした。
「お嬢様。王都で不審な動きがあります」
「不審な動き?」
「テオドールという名の男が、公爵家の元使用人たちに接触しています」
セレスティアの手が止まった。膝の上の本が滑り落ちそうになり、咄嗟に押さえた。
テオドール。
その名前を、セレスティアは知っている。
「テオドール」
「ご存じですか」
「……昔、公爵家にいた従者。わたしが三歳の頃に辞めた人」
嘘ではない。テオドールは確かにセレスティアが幼い頃に公爵家を去っている。
「そのテオドールが今、王都の裏通りの安宿に滞在しています。マティアス様の庇護下にあるようです」
マティアス。副宰相の息子。宰相の右腕。
「接触している元使用人は?」
「台所のバルタザール。厩のハンス。洗濯場のマルタ。いずれもお嬢様が三歳から五歳の頃に公爵家で働いていた者たちです」
三歳から五歳。
セレスティアが最も——不自然だった時期。
その時期の目撃者を——集めている。
「何を聞いているの」
「お嬢様の幼少期の様子です。具体的には——」
ナターシャが手帳を開いた。情報網から得た報告を読み上げる。
「『三歳のセレスティア嬢は、薬師も知らないような薬草の名前を口にしたことがあるか』。『セレスティア嬢は特定の人物に対して、初対面にもかかわらず異常な恐怖反応を示したことがあるか』。『セレスティア嬢が年齢に不釣り合いな知識や判断力を見せた具体的な場面はあるか』」
「……宰相の指示ね」
「間違いなく。テオドール個人にこのような調査能力はありません。質問項目が体系的すぎます。これは——尋問の専門家が作った質問リストです」
セレスティアは目を閉じた。
考えろ。
では宰相は何を——
「禁忌の魔術」だ。
宰相は「前世の記憶」ではなく「禁忌の魔術」という文脈でこの情報を使うつもりだ。「この少女は幼少期から異常だった。闇の魔術に侵されている証拠だ」と。
事実を「闇の魔術の証拠」として読み替えられると——否定できない。
「ナターシャ」
「はい」
「元使用人たちは——何と答えているの」
「バルタザールは『覚えていない』と答えたようです。ハンスは『幼い嬢様と話したことはない』と。マルタは——」
ナターシャの声が一瞬止まった。
「マルタは、答えたようです。『三歳のお嬢様が、台所で薬草の名前を言い当てたことがある。奥様の薬を調べるために』と」
心臓が冷えた。
マルタ。台所の洗い場にいた女性。温かい人だった。セレスティアが台所に忍び込んだとき、怒らずに白湯を入れてくれた。
悪意はない。ただ聞かれたから、正直に答えただけだ。
それが——致命的になり得る。
「マルタに口止めを——」
「既に手配しています。ですが、テオドールは既にマルタの証言を記録しているでしょう」
遅い。一手、遅い。
◇
翌日。
セレスティアは授業中、ずっと考えていた。
テオドールをどうするか。
選択肢は三つ。
一つ。テオドールを排除する。物理的に、あるいは社会的に。証言者を消せば情報は途絶える。
——論外だ。セレスティアは前世の宰相ではない。人を道具として使い捨てることはしない。それに、テオドールを排除すれば宰相は別の手段を使う。モグラ叩きに意味はない。
二つ。テオドールの調査を妨害する。元使用人たちに「何も言うな」と圧力をかける。情報を遮断する。
——これも悪手だ。圧力をかければ、「公爵家は何かを隠している」という印象を強める。宰相の思う壺。
三つ。テオドールを——保護する。
セレスティアの目が開いた。
保護する。宰相に使われる前に、こちら側に引き込む。
マティアスの庇護下にいるということは、逆らえない立場にいるということ。自分の意志で調査しているのではない。やらされている。
「ナターシャ」
放課後。自室に戻ってすぐ、セレスティアは言った。
「テオドールに接触できる?」
「……可能ですが、危険です。マティアスの監視がついているでしょう」
「直接じゃなくていい。手紙を届けて。テオドール本人だけが読めるように」
「内容は?」
セレスティアはペンを取った。暗号ではなく、平易な言葉で書いた。
『テオドールさま。
あなたが誰に頼まれて動いているか、知っています。
あなたが怖い思いをしていることも、知っています。
公爵家はあなたを恨んでいません。
あなたの安全を保障します。
もし話したいことがあるなら、返事をください。
場所と時間を指定します。
セレスティア・フォン・アルヴェイン』
ナターシャが手紙を受け取り、読んだ。眉を上げた。
「……お嬢様。これは——賭けです」
「うん」
「テオドールがこの手紙をマティアスに見せれば、こちらの意図が全て露見します。『公爵家は証人を買収しようとしている』と宣伝されかねません」
「その可能性はある。でも——テオドールはマティアスに見せない」
「なぜ断言できるのですか」
セレスティアは答えなかった。前世の記憶があるからとは言えない。
だが——知っている。テオドールは臆病な男だ。臆病だからこそ、誰にも見せずに隠す。臆病な人間は、情報を独占することで自分を守ろうとする。
「信じてほしい。テオドールは見せない」
ナターシャは数秒、セレスティアの目を見つめた。そして——頷いた。
「承知いたしました。三日以内に届けます」
「ありがとう」
「それと、お嬢様」
「なに」
「もう一つ報告があります。こちらの方が——差し迫っています」
ナターシャの表情が変わった。情報官の顔になった。
「筆頭家臣ヘルマン様から鳥便が来ています。至急、とのことです」
「ヘルマンから?」
ナターシャが小さな筒を差し出した。鳥便用の極小の紙。ヘルマンの筆跡。
セレスティアは紙を広げた。
『宰相が動いている。情報収集の第二段階に入った。
奴のやり方を知っている。第一段階は噂の収集。第二段階は証拠の構築。第三段階は——使用。
テオドールの件は第一段階の終わりか第二段階の入り口。
急がれよ。第二段階に入れば止められなくなる。
ヘルマン・ゲルツ』
三段階。
ヘルマンは宰相の手口を知り尽くしている。かつて同じ政治の世界にいた男だから。
「第二段階は『証拠の構築』」
噂を集め、それを証拠の形に整える。法廷で使える形に。あるいは貴族院で使える形に。
マルタの証言はただの噂だ。台所のおばさんが「三歳のお嬢様が薬草の名前を言ったわよ」と言っただけ。それだけでは何の証拠にもならない。
だが宰相は——それを証拠にする技術を持っている。複数の証言を集め、時系列に並べ、「異常性のパターン」として提示する。「この子供は三歳で薬草を知り、四歳で毒を看破し、五歳で人物の本性を見抜き、九歳で貴族院の票読みをした。これは教育や才能の範囲を超えている。禁忌の魔術以外に説明がつかない」と。
論理的に——正しい。
前世の記憶という正解を除けば、禁忌の魔術は最も合理的な説明だ。
「……ナターシャ。お父様に手紙を書く。それと、おにいさまにも」
「内容は?」
「テオドールの件と、ヘルマンの警告。お父様にはテオドールの保護の準備を。おにいさまには——」
セレスティアは少し考えた。
フェリクスに何を頼むか。
兄は学者だ。剣も政治力もない。だがフェリクスには——知性がある。そしてフェリクスは、セレスティアの秘密に最も近い場所にいる。
「おにいさまには——『三歳の頃のわたしの行動を、魔力の観点から説明できる理論を用意してほしい』と」
ナターシャが目を見開いた。
「理論を——用意する?」
「うん。宰相は『禁忌の魔術』という説明を使おうとしている。それに対抗するには、別の説明が必要なの。『なぜセレスティアは三歳で薬草を知っていたのか』に対する、もっと穏当な答え」
「穏当な答え?」
「たとえば——聖魔力の影響。聖魔力は光と闇の融合体。もし聖魔力が知覚を拡張する効果を持つなら、幼児でも周囲の情報を異常な精度で吸収する可能性がある——とか」
嘘だ。聖魔力にそんな効果はない。多分。
だがフェリクスなら——学術的にもっともらしい理論を構築できる。真実である必要はない。宰相の「禁忌の魔術」説と対等に戦える、もう一つの仮説があればいい。
「真実と戦うには、別の真実を——いえ、別の『もっともらしさ』を用意するしかない」
ナターシャは黙って聞いていた。そして——小さく息を吐いた。
「お嬢様は、本当に十歳ですか」
「……それ、最近よく言われる」
セレスティアは苦笑した。アレクシスにも同じことを言われた。十歳なのに大人みたいに考える。大人よりも正確に。
「……でも、使わないわけにはいかない」
◇
その夜。
手紙を書き終えたセレスティアは、ベッドに座って天井を見上げていた。
疲れていた。体ではなく、頭が。
「……一人じゃない」
自分に言い聞かせた。日記に書いた。一人じゃないと。
でも——本当に?
ナターシャは忠実だ。ヴォルフは強い。フェリクスは賢い。父は頼もしい。
枕の下に手を伸ばした。ラベンダーの小袋。フリーデリケが新しくしてくれたもの。
香りを嗅いだ。
ラベンダー。何も知らない少女がくれた、何の力もない小袋。
だがこの香りだけが——セレスティアを眠らせてくれる。
フリーデリケは何も知らない。前世のことも。宰相との戦いのことも。テオドールのことも。アレクシスの疑念のことも。
何も知らなくて——いい。
知らないまま、ラベンダーを渡してくれる友人がいること。それ自体が——救いなのだから。
目を閉じた。
明日も戦いは続く。テオドールへの手紙の返事を待ちながら。ヘルマンの警告を胸に刻みながら。フェリクスの理論構築を祈りながら。
だが今夜は——眠る。
とくん。とくん。
とくん。とくん。
心臓が鳴っている。




