アレクシスの疑念
変化は少しずつだった。
最初に気づいたのはコンラートだった。
「セレスティア。最近、アレクシスの様子がおかしい」
放課後の中庭。コンラートが眉を寄せて言った。
「おかしいって?」
「昼飯を一緒に食わなくなった。石段に来ない日が増えた。来ても——黙ってる。前はもうちょっと喋ってたのに」
「……そう」
セレスティアも気づいていた。アレクシスが距離を取り始めている。石段に来る頻度が減った。来ても、セレスティアの目を見ない。
摂政選出の後、アレクシスは変わった。自分で選んだという自信が芽生えた。だがその直後から——別の変化が起きている。
気づいている。だが気づいているからといって、止められるわけではない。
◇
ある日の放課後。
セレスティアが図書室に向かう途中、廊下でアレクシスとすれ違った。
「アレクシスさま」
「ああ。セレスティア」
目が合った。だがすぐに逸れた。
以前のアレクシスなら、立ち止まって話しかけてくる。「石段で食べないか」と。「今日の授業の話を聞いてくれ」と。
今のアレクシスは——通り過ぎようとした。
「殿下。少し話せますか」
アレクシスの足が止まった。振り返った。風属性の澄んだ目。だがその目に——曇りがある。
「……何だ」
「最近、お元気がないように見えて。国王陛下のこと?」
「父上は——少しずつ回復している。母上が摂政になったから、父上の負担が減ったと医師が言っていた」
「よかった」
「ああ。……それだけか」
「うん。それだけ」
セレスティアは微笑んだ。追及しない。問い詰めない。距離を取られている時に踏み込めば、逆効果になる。
アレクシスが去りかけて——立ち止まった。
「セレスティア」
「なに」
「君はいつも——正しいことを言う」
「……え?」
「摂政の時も。母上を選べと言った。結果は正しかった。いつも正しい」
アレクシスの声が変わった。質問ではなく、観察の報告のような。
「でも——なぜ?」
「なぜって?」
「なぜ君は何でも知っているんだ。僕たちは十歳だ。なのに君は——大人みたいに考える。大人よりも正確に。貴族院の票読みまでしていた。十歳の子供が。なぜ?」
セレスティアの心臓が跳ねた。
「……勉強したからです」
嘘だ。勉強だけでは説明がつかない。前世の記憶があるとは言えない。
アレクシスの目が細くなった。
「勉強で——票読みができるようになるのか」
「本を読めば、ある程度は——」
「どんな本を?」
答えられなかった。十歳の子供が読んで票読みを習得できる本など、存在しない。
沈黙。
アレクシスの目に——疑念が浮かんでいた。敵意ではない。まだ。だが信頼の中に、小さな罅が入った。
「セレスティア。僕は君を信じたい。信じたいんだ。でも——分からないことがあると、不安になる」
「殿下——」
「カスパルが言ったんだ。『あまりにも聡明すぎる人間は、何かを隠している可能性がある』と」
「殿下。カスパルの言葉は——」
「分かってる。カスパルは宰相の人間だ。僕を君から引き離そうとしていることも、たぶん分かってる」
アレクシスの声は冷静だった。
だが——
「分かっていても、疑問は消えないんだ。カスパルの言葉が正しいから疑っているんじゃない。僕自身が——前からずっと感じていたことを、カスパルに言語化されてしまっただけだ」
「セレスティア。僕は——もう少し、自分で考えたい」
「……うん」
「距離を取るわけじゃない。ただ——考える時間がほしい」
「分かった。殿下が考える時間、待ってる」
アレクシスが去った。
廊下にセレスティアだけが残った。
足が震えていた。
動けなかった。廊下の石壁が冷たかった。
ポケットの中の石を、指先で探した。川底の石。ざらりとした感触がある。握ると少しずつ体温が馴染んでいく。
アレクシスが曲がっていった廊下の先には、もう誰もいなかった。
どう答えればよかったのか、しばらく考えた。正しい答えは——ない。「勉強したから」では足りない。「本を読めば」でも足りない。「なぜ知っているのか」という問いには、真実しか答えられない。その真実は言えない。
だから嘘しかない。嘘が通じない相手に、嘘しか言えない。
アレクシスは「距離を取るわけじゃない」と言った。それだけを、セレスティアは胸の中にしまった。
ようやく足が動いた。
図書室への廊下は、少し遠かった。今日借りるつもりだった本の題名を、歩きながらまた思い出した。何でもないことを考えて、足を動かした。
◇
夜。ナターシャの部屋。
「カスパルの工作が始まりました」
「知ってる。今日、殿下に直接言われた」
「殿下が——直接?」
「うん。『なぜ君は何でも知っているのか』って」
ナターシャの表情が曇った。
「……お嬢様。これは——対処が難しい問題です。カスパルを排除しても、殿下の疑念は消えません」
「うん。殿下は嘘を見抜く。わたしが『勉強したから』って答えても、嘘だと分かってる」
「かといって真実を——前世の記憶があるとは——」
「言えない。言えば別の問題が起きる。信じてもらえないか、信じてもらえたとしても——狂人扱いされるか、もっと大きな秘密を抱えることになる」
「では——どうされますか」
セレスティアは目を閉じた。
答えは——ない。
「今は——待つ。殿下が自分で考える時間を尊重する」
「待つだけで?」
「待つだけじゃない。殿下が考える材料を——行動で示す。言葉じゃなくて。わたしが何者かは言えない。でもわたしが何をしたいかは——見せられる」
「何をしたいか」
「殿下を守りたい。この国を守りたい。それは——嘘じゃないから」
ナターシャは黙った。
「カスパルの動きは——どこまで把握できますか」
「学園内では難しい。王太子付き侍従だから、普段は王宮にいる。殿下の耳元に何を囁いているかまでは分からない」
「では我々にできることは——」
「待つことだけ。コンラートとフリーデリケには話さない。巻き込まない」
ナターシャが小さく頷いた。
「……お嬢様。一つだけ。アレクシス殿下の疑念が深まれば——最悪の場合、殿下が宰相側に戻る可能性があります。その時は」
「その時は——別の方法を考える。でも今は、殿下を信じる」
信じる。
それしかできない。
信じて、待つ。
怖い。とてつもなく怖い。
だが心臓は止まっていない。とくん。とくん。
ナターシャが部屋を出た後、セレスティアは灯りを消した。暗い部屋に横になって、石を握った。
ずっとそうしてきた。怖い時に。眠れない時に。石は何も言わない。ただそこにある。
アレクシスの疑問は、正当だ。十歳の少女が国政を読む。誰が見てもおかしい。宰相でさえそう思っている。だからカスパルが種を蒔く必要もなかった——種はもう、とっくにそこにあった。
言葉で答えられないなら、行動で答えるしかない。
石段での昼食の時、正直だった。贈り物に気持ちを込めた。嘘はついていない。少なくとも——行動では。だからきっと、見てくれる。
アレクシスは「信じたい」と言った。「信じている」ではない。「信じたい」だ。その違いを、セレスティアはよく分かっている。
それでも——十分だった。
石が温かくなっていた。目をそっと閉じた。窓の外で、静かに風が動いた。




