閑話 浴場の四人
夕食の後。
寮の廊下を、四人で歩いた。
タオルを腕に抱えて、石鹸の入った小袋を持って。先頭はフリーデリケで、少し大きな歩幅で歩く。後ろにリディア、アネリーゼ、セレスティアの順番だった。廊下の窓から、夜の庭が見える。星が出ていた。
「今日の夕食、パンが一個しか取れなかった」
リディアが天井を見上げながら言った。
「一個じゃ足りなかったの?」
「今日ね、黒糖パンが最後の一個だったんだけど——手を伸ばしたら、もう隣の子が持ってた」
「それはつらい」
「本当につらかった。隣の子は悪くないけど」
「次は早めに手を出せばいいよ」とフリーデリケが振り返った。「先手必勝」
「食堂で先手必勝は品がないよ」
「品がなくても黒糖パンは食べられるよ」
リディアが「確かに」と言い、アネリーゼが小さく笑った。
浴場の引き戸を開けると、白い湯気が流れ出てきた。先客はいなかった。夕食後の一番混む時間は少し過ぎていた。
「空いてる」
フリーデリケが顔を輝かせた。
四人で衣服を脱いで、湯に入った。石造りの壁が湯気で白く霞んでいる。大きな浴槽は三人で入るのにちょうどいい広さで、四人だと少し手足が触れる。フリーデリケとリディアが対面に座り、セレスティアはアネリーゼの隣に座った。
「あったかい」
フリーデリケが目を細めた。誰かが必ず言う言葉だ。
「昨日より湯加減がいい気がする」
「昨日入ってないけど」
「そうだっけ」
しばらく、四人とも黙っていた。
湯の音だけが聞こえた。遠くで廊下を歩く足音がして、また静かになった。
「ここの浴場、石鹸の香りが好き」
フリーデリケが目を閉じたまま言った。「ラベンダーが少し入ってる気がする」
「気のせいじゃないの」
「気のせいでも好き」
リディアが鼻を近づけるように顎を上げた。「……確かに少しする、かも」
「でしょ」
アネリーゼが「神殿の浴場はもっと薬草の香りが強くて、最初は慣れなかったけど、ここのは好きです」と言った。セレスティアも香りを確かめた。ラベンダーかどうかは分からなかったけれど、確かに何か植物のような、柔らかい香りがした。
「寮の浴場でこんなに話すの、初めてかも」
リディアがふいに言った。
「そう? わたしはよく話してたよ」とフリーデリケ。「去年は同室の子と毎回おしゃべりしてた。今年は部屋が変わっちゃったけど」
「四人で来るのは初めてだよね」
「うん。なんか、よかった」
フリーデリケが素直に言った。リディアが「うん」と続けた。アネリーゼが小さく頷いた。セレスティアも頷いた。
◇
「セレスティア。誕生日の翌日、どうだった?」
フリーデリケが聞いた。
「どう、って」
「特別な感じがした? 十歳になった朝」
「……起きたら、昨日と変わらなかった」
「そんなもんか」リディアが湯の中で膝を抱えた。「わたしも去年の誕生日、起きたら普通だった。てっきり特別な気分になると思ってたのに」
「なるよ、特別な気分」フリーデリケが首を振った。「わたしはなった。誕生日の朝、空気が違って見えた気がした」
「気がしただけでしょ」
「気がするだけでいいの。気がすることが大事なの」
フリーデリケが湯気の向こうで胸を張った。「哲学的だ」とリディアが口を挟んだ。
アネリーゼがセレスティアに向いた。「お誕生日、おめでとうございます。石段でお祝いできてよかったです。あの日はよく晴れていて」
「ありがとう。ちゃんと当日に言ってもらえたよ」
アネリーゼが少し遠くを見るような目をした。
「神殿では誕生日のお祝いはするの?」とフリーデリケが聞いた。
「一応は。でも神殿では誕生日より、聖属性が開花した日を祝う習慣があります」
「開花した日?」
「その人が神の加護を受けた日、という意味で。誕生日とは別のことが多い。わたしの場合は四歳の時でした」
「じゃあアネリーゼには特別な日が二日あるんだね」フリーデリケが目を丸くした。「お得だ」
「お得、かどうかは」
「絶対お得だよ。嬉しいことが二回来るんだもん」
アネリーゼが困ったような顔をした。でも口元が少し緩んでいた。神殿の外でこういう言葉を言ってもらうことに、まだ慣れていないのかもしれない。
◇
「ねえ、聞いていい?」
フリーデリケが身を乗り出した。
「なに」とリディアが答えた。
「将来、どんな人と結婚したい?」
沈黙が来た。湯気が揺れた。
「……なんで急に」
「授業で貴族の婚姻制度の話が出たから。なんか急に気になって」
リディアが湯の中で視線を逸らした。「わ、わたしは……優しい人、かな。たぶん」
「たぶん?」
「だって、まだよく分からないから。どういう人が優しいのか、ちゃんと分かるのは会った時でしょ。だからたぶん」
リディアの顔が赤かった。お湯のせいだけではないかもしれない。
「アネリーゼは?」
「神殿の者は婚姻に神官長の許可が必要で……」
「そういう決まりじゃなくて、アネリーゼ自身は」
アネリーゼが少し考えた。「穏やかな人が、いいかもしれません。声が穏やかな人」
「声が、っていうのがいいね」フリーデリケが頷いた。「わたしは、笑顔が多い人がいい。一緒にいて楽しい人」
「フリーデリケらしい」
「セレスティアは?」
三人の目がセレスティアに向いた。
セレスティアは少し考えた。
結婚。前世では、そういう未来を思い描いたことがなかった。十歳で学園に入って、そのまま——終わった。誰かと将来を語る場所が、なかった。
今世はまだ分からない。
「……穏やかな人がいいかな」
「アネリーゼと同じだ」
リディアが湯の中で足を伸ばした。「穏やかな人は人気があるよね」
アネリーゼが少し嬉しそうな顔をした。
「わたしはやっぱり笑顔が多い人がいいな」フリーデリケが湯を揺らした。「それと——ラベンダーを好きな人」
「基準が独特すぎる」
「ラベンダーを好きな人は優しいと思う。絶対」
「どういう理論」
「ラベンダーって、きつくない香りでしょ。きつくない香りが好きな人は、物静かな優しさを持ってると思う」
「それはちょっと分かる気がする」リディアが頷いた。アネリーゼも「……なんとなく分かります」と静かに続けた。
セレスティアも、少し分かる気がした。
◇
お湯がぬるくなってきた頃、「そろそろ出よっか」とフリーデリケが腕を伸ばした。
四人で浴槽から出た。タオルで体を拭きながら、リディアが「来週の夕食に黒糖パンが出たら早めに取る」と宣言した。「応援する」フリーデリケが即答した。
着替えて、廊下に出た。
夜の寮は静かだった。さっきより星が増えていた。
「また来週も一緒に来ようね」
フリーデリケが振り返った。
「うん」とリディアが返した。アネリーゼが「是非」と頷いた。セレスティアも「うん」と言った。
四人で廊下を歩いた。部屋の前で「おやすみ」と言い合った。
◇
自室に戻って、灯りをつけた。
石が机の上にあった。お風呂の間は机に置いてきた。拾い上げた。
冷たかった。上がりたての手には、ちょうどよかった。
ラベンダーの小袋の香りがした。フリーデリケが新しくしてくれたものが、枕の近くに置いてある。
(ラベンダーを好きな人は優しい)
フリーデリケが言った言葉を、もう一度思い出した。
フリーデリケは何も知らない。宰相との戦いのことも、前世のことも。それでも——ラベンダーの小袋をくれて、誕生日にサフランクラッカーを持ってきてくれて、「また来週も一緒に来ようね」と言ってくれる。
石を握った。温まるまでの間、目を閉じた。




