次兄は知りすぎた── フェリクス視点
僕は学者だ。
仮説を立て、データを集め、検証し、結論を出す。それが僕の生き方だ。十八歳で王立学術院に入り、二十歳で魔力波形の基礎理論を発表し、二十二歳の今は——助成金を凍結されながらも研究を続けている。
研究には慣れている。
だが——妹に関する「仮説」だけは、検証する気になれない。
◇
最初に違和感を覚えたのは、セレスティアが三歳の時だ。
あの子が台所に忍び込んで、母の薬を調べろと言った時。薬草の名前を言い当てた時。
僕は五歳だった。弟のフェリクスではなく——兄としてのフェリクスとして、妹の言葉に従った。「宝探しごっこ」に付き合い、ディートリヒの部屋に「偶然」辿り着いた。
あれは——偶然ではなかった。
三歳の子供が薬草の名前を知っているはずがない。三歳の子供が裏切り者の居場所を知っているはずがない。
当時の僕は五歳だった。まだ「仮説を立てる」という思考法を知らなかった。だから単純に——妹は天才なのだと思った。
だが学者になってから、考えが変わった。
天才という説明は——不十分だ。
セレスティアが持っているのは「頭の良さ」ではない。「知識」だ。それも——経験に基づく知識。三歳の子供が経験を持っているはずがない。
では——どこから来た知識なのか。
◇
仮説を立てた。学者として。
仮説A:セレスティアには特殊な魔力があり、周囲の情報を無意識に吸収している。
検証:聖魔力の文献を調べた。聖魔力が知覚を拡張するという記録は——ない。皆無ではないが、「三歳児が薬草学を習得する」レベルの拡張は想定されていない。
結論:仮説Aは弱い。だがセレスティアを守るための「表向きの説明」としては使える。だから論文の形にまとめている。妹に頼まれた「もっともらしい理論」だ。
仮説B:セレスティアは何者かから秘密裡に教育を受けている。
検証:公爵家の出入り記録を調べた。セレスティアが三歳の頃、特別な教育者が出入りした記録はない。母リリアーナは病床にあり、父は政務で多忙。マルガレーテは普通の養育係だ。
結論:仮説Bは成立しない。
仮説C:セレスティアは「未来の記憶」を持っている。
……これが、最もシンプルな説明だ。
学者の原則がある。「最もシンプルな説明が、最も正しい可能性が高い」。オッカムの剃刀。
セレスティアは——未来を知っている。
毒のことを知っていた。だから三歳で薬を調べた。
ディートリヒが裏切り者だと知っていた。だから部屋に僕を誘導した。
宰相の手口を知っていた。だから先手を打てた。
摂政選出の結果を知っていた。だから票読みができた。
魔力学の古文書には「時間回帰」の仮説がある。ヨハン先生が残した未整理のノートの中に、一行だけ書かれていた。
『聖魔力の本質は光と闇の融合にあらず。時間と空間の接点にある』
ヨハン先生は——何を知っていたのだろう。
先生が急逝していなければ、聞けたかもしれない。だが先生はもういない。残されたのは膨大な未整理のノートと——一行の謎だけだ。
◇
仮説Cが正しいとする。
セレスティアが「未来の記憶」を持っているとする。
なら——その「未来」で、何が起きたのか。
妹の行動パターンを分析すれば、推測できる。
母の毒を看破した。→ 「未来」では母が毒で死んだ。
ディートリヒを炙り出した。→ 「未来」ではディートリヒの裏切りに気づかなかった。
宰相と全力で戦っている。→ 「未来」では宰相に潰された。
処刑を異常に恐れている。→ 「未来」では処刑された。
……処刑。
妹は——「前の人生」で処刑されたのではないか。
仮説に過ぎない。証拠はない。だが——説明がつく。
あの子が時々見せる表情。遠い目。震える手。夜中にうなされる声。ラベンダーがなければ眠れない夜。
◇
僕は、この仮説を誰にも話さない。
父にも。兄にも。もちろんセレスティア本人にも。
なぜか。
理由は三つある。
一つ目。証拠がない。学者が証拠なしに仮説を公表するのは恥だ。
——これは建前だ。本当の理由ではない。
二つ目。もし仮説が正しいと分かったら、セレスティアの周囲の人間が変わってしまう。父は娘を「異常者」として扱うかもしれない。あるいは逆に、「前世の知識」を最大限利用しようとするかもしれない。どちらにしても——妹の負担が増える。
三つ目。——これが本当の理由だ。
もし本当に妹が「死んだ未来」から戻ったのだとしたら。
あの子は——前の人生で、孤独だったはずだ。
誰にも秘密を打ち明けられず。誰にも本当の自分を見せられず。全てを一人で背負って——潰された。
だから今度は「仲間を作ろう」としている。ナターシャを。ヴォルフを。ヴィオレッタを。リディアを。アネリーゼを。フリーデリケを。
でも——根っこの部分では、まだ一人で背負おうとしている。フリーデリケが見抜いた通り。「自分のしんどさを誰かに渡すのが、すごく下手」。
その妹に——「僕は全部知っているぞ」と突きつけたら。
妹は壊れるかもしれない。
「最後の秘密」を暴かれることは——「最後の砦」を奪われることだ。
僕にはその権利がない。
◇
だから僕は——知らないふりをする。
妹が「薬を調べて」と言えば調べる。
「書庫に行って」と言えば行く。
「理論を構築して」と言えば構築する。
「テオドールを保護して」と言えば保護する。
理由は聞かない。「なぜ知っているのか」と問い詰めない。
今は、兄であることを選ぶ。
◇
魔力暴走装置の分析を続けている。
あの装置は——セレスティアの魔力パターンに特化していた。つまり誰かが、七歳以前にセレスティアの魔力を密かに測定した。
妹はその「誰か」を突き止めたいと言っている。
公爵邸への来訪者記録を洗い直している。だが記録に残る来訪者の中に、怪しい魔術師は見当たらない。
記録に残らない来訪者がいた可能性がある。
あるいは——来訪者ではなく、公爵家の内部にいた人間。常にセレスティアの傍にいて、魔力を測定できる立場にあった人間。
そんな人間がいるとすれば——
僕は一つの名前を思いついた。だがまだ確証がない。
確証が取れるまでは——セレスティアにも言わない。
学者は慎重でなければならない。
そして兄は——妹を不安にさせてはならない。
◇
夜。研究室で一人、ノートに書いた。
『仮説C:時間回帰。
検証方法:不明。直接的な検証は不可能。
間接的検証:セレスティアの「予知的行動」が今後も続くか観察する。
前世で起きた事件と同じ事件が「形を変えて」起きた場合、仮説Cの信憑性が高まる。
追記。
もし仮説Cが正しいなら、セレスティアは「前の人生で死んだ自分」の恐怖を抱えて生きている。
毎日。毎晩。ラベンダーの香りに縋りながら。
僕にできることは——隣にいることだ。
問い詰めることではなく。
隣にいること。
フェリクス・フォン・アルヴェイン記す
追記の追記。
セレスティアが「おにいさま」と呼ぶ時の声が好きだ。
前世でも——僕のことを「おにいさま」と呼んでいたのだろうか。
呼んでいたなら。
前世の僕は——妹を守れなかったのだろうか。
その答えは——聞きたくない。聞かない。
だが今世では——守る。何があっても。』
ノートを閉じた。
窓の外に、星が見えた。
妹は今頃、学園の寮で眠っているだろう。枕の下にラベンダーを入れて。
眠れているといい。
悪夢を見ていないといい。
兄は——遠くから祈ることしかできない。




