王妃の孤独── 王妃エレオノーラ視点
摂政になった。
わたし——エレオノーラ・レグナシオンが、この国の実質的な統治者になった。
嘘みたいだ。
昨日まで王宮の奥で怯えていたわたしが。宰相の顔色を窺い、夫の病状に泣き、息子の将来を案じるだけだったわたしが。
国を、動かしている。
◇
摂政就任から一月が経った。
毎朝、執務室の椅子に座る。机の上には昨夜のうちに積まれた書類の山。大臣たちの報告書。貴族院からの嘆願書。地方領主からの訴え。南方の軍事情報。
全部読む。全部判断する。全部——わたしが。
「陛下、本日の予定を申し上げます」
侍女エミーリアが予定表を読み上げる。午前中は財務報告。昼は貴族院議員との会食。午後は軍務大臣との協議。夕方はアレクシスの教育報告を受ける。夜は——
「夜は陛下のお休みの時間です」
「休み……」
最後に休んだのはいつだろう。思い出せない。
「エミーリア。夫の様子は?」
「陛下——国王陛下は今朝、少し起き上がられたそうです。お粥を召し上がりました」
「起き上がった——」
涙が出そうになった。堪えた。摂政の前で泣くわけにはいかない。
夫のレオナルドは病床にいる。心臓の病だ。摂政選出の前から悪化していた。わたしが摂政になってから——少しずつ、回復している。
「お前が国を守ってくれるなら、安心して休める」
夫がそう言った。痩せた手で、わたしの手を握って。
その言葉が——重い。嬉しいけれど、重い。
◇
わたしは——強い人間ではない。
学生の頃から、人前に出るのが苦手だった。声が小さい。目を合わせるのが怖い。大勢の前で話すと手が震える。
王妃になったのは、家柄のせいだ。政略結婚。レオナルドとの結婚は、両家の利害が一致しただけ。わたし自身の意思は——あまり関係なかった。
でもレオナルドは——優しかった。
「エレオノーラ。無理に笑わなくていい。お前の自然な顔が好きだ」
そう言ってくれた人だった。
その人が倒れた。宰相に権力を握られた。わたしは王宮の奥で——何もできなかった。
何もできない自分が、情けなかった。
◇
変わったのは——あの子のおかげだ。
セレスティア・フォン・アルヴェイン。
リリアーナの娘。わたしの大切な親友の、大切な娘。
初めて会ったのは、あの子が五歳の時だった。王宮のお茶会で。
小さな女の子。銀色の髪。碧い目。おとなしくて、行儀が良くて——
でも目が違った。
五歳の子供の目ではなかった。
わたしを見たあの子の目は——「知っている人を見る目」だった。初対面なのに。まるで——長い間会えなかった人に再会したような。
不思議だった。
だが不快ではなかった。むしろ——温かかった。あの子の目には、敵意も計算もなかった。あったのは——安堵。「よかった、この人は元気だ」とでも言うような安堵。
◇
リリアーナ。
わたしの親友。学生時代から、たった一人の、本当の友人。
宰相に引き離された。結婚後、リリアーナとの文通を禁じられた。「公爵家と王家の私的な交流は政治的に好ましくない」と。
嘘だ。宰相がわたしとリリアーナの絆を断ちたかっただけだ。わたしたちが繋がっていると——宰相には都合が悪い。
手紙すら届かなくなった。
リリアーナが毒で倒れたと聞いた時——わたしは一人で泣いた。王宮の自室で。誰にも見せずに。
何もできなかった。友人が苦しんでいるのに。
でも——リリアーナは生きていた。あの子が救った。三歳のセレスティアが、母の毒を看破した。
わたしは——王妃なのに、友人一人救えなかった。
その差が——恥ずかしかった。
◇
摂政選出の時、セレスティアがわたしを推薦したと聞いた。
「王妃様が摂政になるべきです」と。
信じられなかった。わたしが? この——何もできない、怯えるだけの王妃が?
リリアーナが手紙をくれた。久しぶりの手紙。ブリュンヒルデ男爵経由で届いた。
『エレオノーラ。
あなたならできるわ。
あなたは弱い人じゃない。弱いと思い込んでいるだけ。
学生の頃、あなたが教授に反論した日のことを覚えている?
「女に学問は不要」と言われて、あなたは立ち上がった。
声は震えていたけれど、最後まで言い切った。
あの時のあなたを、わたしは今でも誇りに思っている。
リリアーナより』
泣いた。読みながら。
そうだ。あの時——わたしは立ち上がった。声は震えていた。膝は笑っていた。でも——言い切った。
「女にも学ぶ権利はあります」と。
あの時の自分を——忘れていた。
宰相に怯え、王宮の奥に閉じ込められている間に——忘れていた。
リリアーナが思い出させてくれた。
わたしは——立ち上がれる人間だ。
◇
摂政になってから、毎日が戦いだ。
宰相は表面上はわたしに従っている。だが水面下では——報復を進めている。公爵家への監査。フェリクスの助成金凍結。ヴォルフの異動打診。
わたしは——一つ一つを防ぐ。摂政の権限で。
監査は「不当な圧力」として差し戻した。助成金は王室の予備費から補填した。ヴォルフの異動は「公爵家の内政に対する不当な介入」として却下した。
できる。わたしにも——できる。
でも、怖い。
夜、一人で布団の中で震えている。これで良かったのか。判断を間違えていないか。宰相は次にどう来るのか。
怖くて怖くて——でも朝になれば、椅子に座る。書類を読む。判断する。
それが——摂政の仕事だから。
◇
アレクシスのことも気がかりだ。
息子は十歳。まだ子供だ。なのに——国の命運を背負わされている。
セレスティアと距離を置いていた時期があった。カスパルに吹き込まれて。
わたしは気づいていた。だが口を出さなかった。
息子には——自分で考え、自分で答えを出す力がある。わたしがそれを信じなければ、誰が信じるのか。
結果——アレクシスは自分の力で答えを出した。セレスティアを信じると決めた。
よかった。
あの子と——リリアーナの娘と、わたしの息子が。信頼し合えることが。
◇
夜。一人の時間。
レオナルドの病室を訪ねた。夫は眠っていた。穏やかな寝顔。
手を握った。痩せた手。でも——温かい。
「レオナルド。わたし、頑張っているわよ」
囁いた。眠っている夫に。
「怖いけど。毎日怖いけど。でも——立っている。あなたが安心して休めるように」
返事はない。夫の規則的な寝息だけ。
「リリアーナが手紙をくれたの。あの頃と同じ声で。『あなたならできる』って」
涙が頬を伝った。
「できているかしら。わたし——ちゃんと、できているかしら」
夫の手を握り締めた。
返事はない。でも——手が、微かに握り返した。眠りの中で。
それだけで。
明日も——立てる。
◇
あの子を見ていると、不思議な気持ちになる。
セレスティアという少女。
でもわたしの目には——「必死に生きている子供」にしか見えない。
あの子の目の下の隈。時々震える手。ラベンダーの小袋を握り締める仕草。
あの子は——怖がっている。何かを。深く。根源的に。
何を怖がっているのか、わたしは問わない。
ただ感謝している。
◇
明日も書類が積まれる。大臣が報告に来る。貴族院が注文をつける。宰相が微笑む。
怖い。
でも——椅子に座る。背筋を伸ばして。
リリアーナが「あなたならできる」と言ってくれたから。
レオナルドが手を握り返してくれたから。
あの子が——セレスティアが、わたしを信じてくれたから。
王妃エレオノーラは——もう、怯えない。
嘘。まだ怯えている。毎日。
でも——怯えながら立つことを覚えた。




