束の間の凪
第129話「束の間の凪」
摂政投票の翌日。
セレスティアは——目の腫れが引かなかった。
昨日、泣きすぎた。ナターシャの部屋で。リディアの隣で。声を殺して泣いた分、目に全部出ている。
「お嬢様。——冷やした布巾をどうぞ」
ナターシャが差し出した布巾を目に当てる。ひんやりして気持ちいい。
「ナターシャ。今日の授業は」
「午前が魔術理論、午後が歴史です。——休まれますか」
「出る。——普通にしていないと、何かあったと思われる」
「……昨日の投票結果は学園中に知れ渡っています。お嬢様が何かしたとは思われていませんが——目が腫れていれば、泣いたとは思われます」
「泣いたのは事実だし。——花粉症ということにして」
「この季節に花粉症は無理があります」
「じゃあ本を読みすぎた」
「それならお嬢様らしいと思います」
授業を受けた。魔術理論は集中できた。頭を動かしている間は余計なことを考えなくて済む。歴史は危なかった。「王権と摂政制度の歴史」が教材に含まれていて、昨日の投票と重なる。
だが九歳の公爵令嬢は表情を崩さなかった。それだけの訓練は積んできた。
◇
昼休み。
セレスティアは石段に向かった。
中庭の裏手にある、苔むした石段。ここは王宮教育プログラムの頃に見つけた場所だ。人目につかない。木陰になっていて、夏は涼しく、春は花が咲く。
今は春の終わり。藤の花が石段の上の棚から垂れ下がっている。
石段の三段目に座った。いつもの場所。
フリーデリケが来た。
走ってきた。息を切らしながら。両手に包みを抱えて。
「セレスティアちゃん! お昼持ってきた!」
「フリーデリケちゃん。——走らなくていいのに」
「だって早く会いたかったんだもん。——はい、焼きたてのパン。お母様が朝便で送ってくれたの」
包みを開くと、丸いパンが四つ。まだほんのり温かい。バターの香りがする。
「フリーデリケちゃんのおかあさまのパン、すき」
「でしょう? お母様、パン焼くの上手なの。——昨日のこと聞いたよ。摂政、王妃様に決まったんでしょう?」
「うん」
「すごい。——セレスティアちゃんが頑張ったんでしょう?」
「わたしだけじゃない。たくさんの人が」
「でもセレスティアちゃんがいなかったら、こうはならなかった。——わたし、そう思う」
パンを齧った。柔らかい。ほんのり甘い。
「おいしい」
「でしょう?」
リディアが来た。
静かに。猫のように。気配なく石段の端に座った。
「——隣、いいかしら」
「リディアさま。——いつからいたの」
「今来た。——パン、一つもらえる?」
「どうぞ」
リディアがパンを手に取った。小さく千切って、口に運ぶ。
「おいしい。フリーデリケの母上の?」
「うん! 分かる?」
「この焼き加減は南方の流儀。——バターの量が多いのが特徴」
「リディアさま。——昨日はありがとう。隣にいてくれて」
「別に。——一人で待つのが嫌だっただけ」
コンラートが来た。
石段を二段飛ばしで駆け上がってきた。
「おう! みんないるじゃないか!」
「コンラートさま。——うるさい」
「うるさいとは何だ。俺は祝いに来たんだ」
コンラートが石段に座った。大きな体。九歳にしては体格が良い。騎士の家系だけある。
「セレスティア。——お前、すごいな」
「何が」
「摂政投票だよ。お前が仕組んだんだろう? 全部」
「仕組んだなんて言わないで。——みんなが自分の意志で投票した」
「はいはい。——でも、すごい。俺は剣しか振れないけど、お前は国を動かす。尊敬するよ」
コンラートの言葉は不器用だ。だが嘘がない。この子もフリーデリケと同じだ。
「コンラートさま。剣を振れることも十分すごい」
「当然だ。——でも今日はお前が主役だ。パンくれ」
最後の一つをコンラートが食べた。一口で半分消えた。
◇
四人で石段に座っていた。
春の風が吹いている。藤の花が揺れる。
アネリーゼは来なかった。今日は神殿の礼拝がある。だが朝のうちに手紙が届いていた。
『セレスティアさん。昨日は——お疲れさまでした。光が正しい道を照らしますように。——アネリーゼ』
「セレスティアちゃん。——これからどうなるの」
フリーデリケの声に、微かに不安が滲んだ。
「摂政は王妃様に決まった。——でも宰相はまだ権力を持っている。報復が来ると思う」
「報復——」
「何をしてくるかは分からない。——でもわたしたちに直接手を出すことはないはず。学園の中は安全」
「安全——。なら、いいけど」
フリーデリケの手がセレスティアの袖を掴んだ。無意識の動作。この子は不安な時に近くの人の服を掴む。
「だいじょうぶ。——わたしがいる」
「うん。——セレスティアちゃんがいるなら、だいじょうぶ」
リディアがパンの最後のひとかけらを口に運んだ。
「わたしも——いるわ」
「俺も! 何が来ても剣で叩き斬る!」
コンラートが拳を振り上げた。石段の上の藤の花が揺れた。
セレスティアは笑った。
◇
午後。授業が終わった後。
セレスティアは一人で中庭を歩いていた。
ナターシャが少し離れてついてきている。
「ナターシャ。——宰相の反撃は、いつ頃から来ると思う」
「早ければ明日。——遅くても一週間以内かと」
「わたしもそう思う。——今日のうちにできる準備は」
「ヴォルフに鳥便を送りました。公爵閣下にも報告済みです。——フェリクス様にも」
「ありがとう」
「それから——アレクシス殿下から伝言がありました」
「殿下から?」
「『石段で待つ。時間があれば来い』——以上です」
セレスティアの足が止まった。
アレクシスが石段で待っている。
◇
石段。
昼とは違う光。夕方の陽光が斜めに差し込んで、藤の花を金色に染めている。
アレクシスが三段目に座っていた。一人で。
「殿下」
「セレスティア。——座れ」
隣に座った。昼間、フリーデリケが座っていた場所。
しばらく無言だった。
藤の花が風に揺れている。
「昨日——壇上で、怖くなかった?」
セレスティアが先に口を開いた。
「怖かった。——足が震えた。声も震えた。——五十二人の顔が全部見えた」
「見えた?」
「うん。——一人ずつ。宰相の目も見えた。あの目は怖い」
「でも逃げなかった」
「逃げたかった。——でも、逃げたら母上を守れないと思った」
アレクシスが膝を抱えた。
「セレスティア。——僕は、お前がいなかったら壇上に立てなかった」
「わたしは何もしてない。殿下が自分で立った」
「違う。——お前が教えてくれた。『自分の言葉で話せ』って。あの言葉がなかったら、僕はマティアスの書いた原稿を読んでいた」
「読んでいたら——どうなってた」
「宰相の言いなりのままだった。——たぶん、一生」
アレクシスの目が夕日に照らされていた。金色の睫毛が光っている。
「ありがとう、セレスティア」
「お礼はいらない」
「いらなくても言う。——ありがとう」
セレスティアは目を逸らした。
泣きそうになったから。
昨日散々泣いたのに、まだ涙が残っていた。
「殿下。——これで終わりじゃない」
「分かってる。——宰相は負けても止まらない」
「うん。——明日から、また戦い」
「戦おう。——一緒に」
アレクシスが手を伸ばした。小さな手。九歳の手。
セレスティアはその手を取った。
五歳の時に初めて取った手。あの日から四年。
手のひらが大きくなっている。指が伸びている。
でも温かさは同じだ。
「一緒に」
セレスティアが握り返した。
夕日が石段を照らしている。
明日から嵐が来る。宰相の報復が来る。
でも今日だけは——凪だ。
春の風。藤の花。パンの匂い。仲間の笑い声。アレクシスの手の温もり。
摂政投票の翌日。
セレスティアは——目の腫れが引かなかった。
昨日、泣きすぎた。ナターシャの部屋で。リディアの隣で。声を殺して泣いた分、目に全部出ている。
「お嬢様。——冷やした布巾をどうぞ」
ナターシャが差し出した布巾を目に当てる。ひんやりして気持ちいい。
「ナターシャ。今日の授業は」
「午前が魔術理論、午後が歴史です。——休まれますか」
「出る。——普通にしていないと、何かあったと思われる」
「……昨日の投票結果は学園中に知れ渡っています。お嬢様が何かしたとは思われていませんが——目が腫れていれば、泣いたとは思われます」
「泣いたのは事実だし。——花粉症ということにして」
「この季節に花粉症は無理があります」
「じゃあ本を読みすぎた」
「それならお嬢様らしいと思います」
授業を受けた。魔術理論は集中できた。頭を動かしている間は余計なことを考えなくて済む。歴史は危なかった。「王権と摂政制度の歴史」が教材に含まれていて、昨日の投票と重なる。
だが九歳の公爵令嬢は表情を崩さなかった。それだけの訓練は積んできた。
◇
昼休み。
セレスティアは石段に向かった。
中庭の裏手にある、苔むした石段。ここは王宮教育プログラムの頃に見つけた場所だ。人目につかない。木陰になっていて、夏は涼しく、春は花が咲く。
今は春の終わり。藤の花が石段の上の棚から垂れ下がっている。
石段の三段目に座った。いつもの場所。
フリーデリケが来た。
走ってきた。息を切らしながら。両手に包みを抱えて。
「セレスティアちゃん! お昼持ってきた!」
「フリーデリケちゃん。——走らなくていいのに」
「だって早く会いたかったんだもん。——はい、焼きたてのパン。お母様が朝便で送ってくれたの」
包みを開くと、丸いパンが四つ。まだほんのり温かい。バターの香りがする。
「フリーデリケちゃんのおかあさまのパン、すき」
「でしょう? お母様、パン焼くの上手なの。——昨日のこと聞いたよ。摂政、王妃様に決まったんでしょう?」
「うん」
「すごい。——セレスティアちゃんが頑張ったんでしょう?」
「わたしだけじゃない。たくさんの人が」
「でもセレスティアちゃんがいなかったら、こうはならなかった。——わたし、そう思う」
パンを齧った。柔らかい。ほんのり甘い。
「おいしい」
「でしょう?」
リディアが来た。
静かに。猫のように。気配なく石段の端に座った。
「——隣、いいかしら」
「リディアさま。——いつからいたの」
「今来た。——パン、一つもらえる?」
「どうぞ」
リディアがパンを手に取った。小さく千切って、口に運ぶ。
「おいしい。フリーデリケの母上の?」
「うん! 分かる?」
「この焼き加減は南方の流儀。——バターの量が多いのが特徴」
「リディアさま。——昨日はありがとう。隣にいてくれて」
「別に。——一人で待つのが嫌だっただけ」
コンラートが来た。
石段を二段飛ばしで駆け上がってきた。
「おう! みんないるじゃないか!」
「コンラートさま。——うるさい」
「うるさいとは何だ。俺は祝いに来たんだ」
コンラートが石段に座った。大きな体。九歳にしては体格が良い。騎士の家系だけある。
「セレスティア。——お前、すごいな」
「何が」
「摂政投票だよ。お前が仕組んだんだろう? 全部」
「仕組んだなんて言わないで。——みんなが自分の意志で投票した」
「はいはい。——でも、すごい。俺は剣しか振れないけど、お前は国を動かす。尊敬するよ」
コンラートの言葉は不器用だ。だが嘘がない。この子もフリーデリケと同じだ。
「コンラートさま。剣を振れることも十分すごい」
「当然だ。——でも今日はお前が主役だ。パンくれ」
最後の一つをコンラートが食べた。一口で半分消えた。
◇
四人で石段に座っていた。
春の風が吹いている。藤の花が揺れる。
アネリーゼは来なかった。今日は神殿の礼拝がある。だが朝のうちに手紙が届いていた。
『セレスティアさん。昨日は——お疲れさまでした。光が正しい道を照らしますように。——アネリーゼ』
「セレスティアちゃん。——これからどうなるの」
フリーデリケの声に、微かに不安が滲んだ。
「摂政は王妃様に決まった。——でも宰相はまだ権力を持っている。報復が来ると思う」
「報復——」
「何をしてくるかは分からない。——でもわたしたちに直接手を出すことはないはず。学園の中は安全」
「安全——。なら、いいけど」
フリーデリケの手がセレスティアの袖を掴んだ。無意識の動作。この子は不安な時に近くの人の服を掴む。
「だいじょうぶ。——わたしがいる」
「うん。——セレスティアちゃんがいるなら、だいじょうぶ」
リディアがパンの最後のひとかけらを口に運んだ。
「わたしも——いるわ」
「俺も! 何が来ても剣で叩き斬る!」
コンラートが拳を振り上げた。石段の上の藤の花が揺れた。
セレスティアは笑った。
◇
午後。授業が終わった後。
セレスティアは一人で中庭を歩いていた。
ナターシャが少し離れてついてきている。
「ナターシャ。——宰相の反撃は、いつ頃から来ると思う」
「早ければ明日。——遅くても一週間以内かと」
「わたしもそう思う。——今日のうちにできる準備は」
「ヴォルフに鳥便を送りました。公爵閣下にも報告済みです。——フェリクス様にも」
「ありがとう」
「それから——アレクシス殿下から伝言がありました」
「殿下から?」
「『石段で待つ。時間があれば来い』——以上です」
セレスティアの足が止まった。
アレクシスが石段で待っている。
◇
石段。
昼とは違う光。夕方の陽光が斜めに差し込んで、藤の花を金色に染めている。
アレクシスが三段目に座っていた。一人で。
「殿下」
「セレスティア。——座れ」
隣に座った。昼間、フリーデリケが座っていた場所。
しばらく無言だった。
藤の花が風に揺れている。
「昨日——壇上で、怖くなかった?」
セレスティアが先に口を開いた。
「怖かった。——足が震えた。声も震えた。——五十二人の顔が全部見えた」
「見えた?」
「うん。——一人ずつ。宰相の目も見えた。あの目は怖い」
「でも逃げなかった」
「逃げたかった。——でも、逃げたら母上を守れないと思った」
アレクシスが膝を抱えた。
「セレスティア。——僕は、お前がいなかったら壇上に立てなかった」
「わたしは何もしてない。殿下が自分で立った」
「違う。——お前が教えてくれた。『自分の言葉で話せ』って。あの言葉がなかったら、僕はマティアスの書いた原稿を読んでいた」
「読んでいたら——どうなってた」
「宰相の言いなりのままだった。——たぶん、一生」
アレクシスの目が夕日に照らされていた。金色の睫毛が光っている。
「ありがとう、セレスティア」
「お礼はいらない」
「いらなくても言う。——ありがとう」
セレスティアは目を逸らした。
泣きそうになったから。
昨日散々泣いたのに、まだ涙が残っていた。
「殿下。——これで終わりじゃない」
「分かってる。——宰相は負けても止まらない」
「うん。——明日から、また戦い」
「戦おう。——一緒に」
アレクシスが手を伸ばした。小さな手。九歳の手。
セレスティアはその手を取った。
五歳の時に初めて取った手。あの日から四年。
手のひらが大きくなっている。指が伸びている。
でも温かさは同じだ。
「一緒に」
セレスティアが握り返した。
夕日が石段を照らしている。
明日から嵐が来る。宰相の報復が来る。
でも今日だけは——凪だ。
春の風。藤の花。パンの匂い。仲間の笑い声。アレクシスの手の温もり。




