摂政決定
貴族院。大議場。
円形の議場に五十二の席が並んでいる。天井には王国の紋章が描かれた天窓があり、春先の朝の光が議場の中央に落ちている。
セレスティアはここにいない。九歳の子供に貴族院への出席資格はない。
セレスティアは学園のナターシャの部屋で、鳥便を待っていた。ヴォルフが議場から逐一報告を送ってくる手筈になっている。
リディアがいた。石段ではなく、ナターシャの部屋に。セレスティアが呼んだ。
「リディアさま。今日——たぶん、待つことしかできない。でも一人で待ちたくなかった」
「知ってるわ。だからここにいる」
リディアの声は穏やかだった。
◇
議場。
エドヴァルト・フォン・アルヴェイン公爵が席についた。議場の右翼。公爵家派の中心に。
左翼には宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ。白い髪。鷹の目。三十年間この国を動かしてきた男が、いつもと同じ表情で席についている。動揺の気配はない。
中央のオブザーバー席に、王太子アレクシスが座った。
九歳の少年。金髪が整えられ、正装を着ている。顔は白い。だが目は——まっすぐ前を向いていた。
隣にマティアスがいた。副宰相。アレクシスの教育係。白髪の痩せた男が、アレクシスの耳元に何か囁いている。
アレクシスの表情が一瞬揺れた。だが——首を横に振った。
マティアスの顔が強張った。
「開会を宣言する」
議長の声が議場に響いた。宰相派の議長。大柄な男。声だけは立派だ。
「本日の議題。摂政選出に関する投票。候補は二名。宰相ヴィクトール・ド・ガルニエ閣下、および王妃エレオノーラ陛下」
議場にざわめきが走った。王妃の名前が正式に候補として読み上げられたのは初めてだ。
「投票に先立ち、各候補の所信表明を行います。まず——宰相閣下」
宰相が立った。
「諸卿。国王陛下のご病状は深刻であり、国政の空白は一日も許されません。三十年間、私は陛下の信任を受け、この国の政務を担ってまいりました。経験と実績をもって、摂政の重責を全うする所存です」
「続いて——王妃エレオノーラ陛下」
エレオノーラが立った。
白いドレス。金の髪。翡翠の瞳。王妃の威厳。だが——手が微かに震えていた。
五十二人の貴族が見ている。この国の権力者たちが。その視線の重みに、エレオノーラの肩が一瞬だけ沈んだ。
だがすぐに——背筋が伸びた。
「諸卿。わたくしには政務の経験がありません。軍事の知識もありません。外交の実績もありません」
議場がざわめいた。自分の弱みを冒頭で認めるのは、政治の場では異例だ。
「ですが——わたくしには、このお方を守りたいという意志があります」
エレオノーラがアレクシスを見た。
「息子を。この国の次の王を。誰の傀儡にもさせないために。わたくしは——摂政に立ちます」
沈黙。
宰相が微かに笑った。「感情論だ」と言いたげな笑み。
だが議場の空気が——変わった。
所信表明が終わった。
「投票を開始します。記名投票。議席番号順に投票してください」
一人ずつ、壇上に進み、候補者名を書いた紙を投票箱に入れる。
一票目。二票目。三票目。
公爵家派が次々と投票する。王妃の名前を。
宰相派も投票する。宰相の名前を。
票が積み上がっていく。
十票。十五票。二十票。
中立派の番が来た。
レイデンブルク侯爵が立った。老齢の侯爵。白い髭。壇上に進み——投票した。表情は読めない。
モンテヴェルデ侯爵ロレンツォが立った。
議場の視線が集まった。宰相派だった男が、どちらに投票するか。
ロレンツォの手が震えていた。壇上の投票箱の前で、一瞬だけ足が止まった。
宰相の目がロレンツォを射抜いた。鷹の目。逃げるなと言っている。
ロレンツォは——投票した。
壇上を降りる時、宰相を見なかった。まっすぐ自席に戻った。背中が——少しだけ伸びていた。
投票が進む。
ヴァルトシュタイン子爵。法律家の家系の当主。壇上で一瞬も迷わず投票した。法的根拠が確認できれば、この男は迷わない。
シュテルン伯爵。軍人貴族。壇上で背筋を正し、軍人の敬礼をしてから投票した。王の妻を守る。それが軍人の名誉だと、レイデンブルク侯爵の手紙が伝えた。
ヴェンデル家の二人。壇上に進む足取りが硬い。宰相に切り捨てられた一族。恐怖と恨みが入り混じる表情。だが——投票した。
ブリュンヒルデ男爵。
六十歳の農業貴族。小柄な老人。政治に興味がない。議場の空気に居心地悪そうにしている。
壇上に進んだ。投票箱の前で——止まった。
長い。三秒。五秒。議場が息を呑む。
男爵の手が投票用紙を持っている。まだ何も書いていないのか。それとも——。
男爵が投票した。壇上を降りた。
表情は読めなかった。
最後の議員が投票を終えた。
「投票を締め切ります。開票に——」
その瞬間。
「お待ちください」
声が響いた。若い声。少年の声。
アレクシスが立ち上がっていた。
議場が凍った。
議長が慌てた。「殿下、今は——」
「王太子として、開票前に一言申し上げたい」
声が震えている。だが——立っている。九歳の少年が、五十二人の貴族の前で。
議長が宰相を見た。宰相の目が細くなった。止めるか。止めれば——王太子の口を封じたと見なされる。
「……どうぞ、殿下」
宰相が頷いた。止められなかった。議場の空気が、止めることを許さなかった。
アレクシスが壇上に進んだ。
小さな体。大きな議場。天窓からの光がアレクシスの金髪を照らしている。
「僕は——九歳です」
声が議場に響いた。マイクも拡声器もない。だが少年の声は、不思議なほど明瞭に届いた。
「九歳の僕には、政治のことは分かりません。何が正しいかも、分かりません」
議場が静まり返った。
「でも——一つだけ分かることがあります」
アレクシスの目が潤んだ。だが涙は落とさなかった。
「僕の母は、僕を道具にしません。僕が泣いたら、一緒に泣いてくれます。僕が間違えたら、叱ってくれます。僕を——僕のまま、見てくれます」
議場のどこかで、誰かが息を呑んだ。
「僕は——母を信じます。母に、この国を任せたいです。政治の経験がなくても。何も知らなくても。母は——学んでくれると思います。僕のために。この国のために」
声が震えた。最後の言葉を絞り出した。
「僕は自分で——母を選びました。誰にも言われていません。自分の心で」
沈黙。
長い沈黙。
アレクシスが壇上を降りた。足が震えていた。オブザーバー席に戻った時、膝が折れかけた。マティアスが手を伸ばしたが——アレクシスはその手を取らなかった。自分の力で座った。
「……開票を行います」
議長の声が震えていた。
開票が始まった。一枚ずつ、投票用紙が読み上げられる。
「宰相閣下。宰相閣下。王妃陛下。王妃陛下。宰相閣下。王妃陛下——」
交互に。拮抗している。
十票。十五票。二十票。
宰相二十一票。王妃二十二票。
残り九枚。
「王妃陛下。王妃陛下。宰相閣下。王妃陛下——」
宰相二十二票。王妃二十五票。残り五枚。
「宰相閣下。宰相閣下。王妃陛下。宰相閣下——」
宰相二十五票。王妃二十六票。残り一枚。
議場が凍りついた。
最後の一枚。これが宰相なら二十六対二十六の同数。議長裁定で宰相が勝つ。
これが王妃なら二十七対二十五。王妃の勝利。
議長が最後の投票用紙を開いた。
「——王妃陛下」
二十七対二十五。
王妃エレオノーラが、摂政に選出された。
◇
学園。ナターシャの部屋。
鳥便が届いた。ヴォルフの暗号。一言だけ。
『勝った』
セレスティアの手から紙片が落ちた。
膝が崩れた。床に座り込んだ。
「お嬢様——」
ナターシャの声。
「勝った」
声が掠れた。
「勝った。二十七対二十五」
リディアがセレスティアの肩に手を置いた。
「おめでとう——とは、まだ言わない方がいいかしら」
「うん。まだ早い。宰相は——負けても止まらない」
だが——今日は。
今日だけは。
「リディアさま」
「なに」
「泣いていい?」
「いいわよ」
セレスティアは泣いた。
声を殺して。
リディアが何も言わずに、隣にいた。ナターシャが紅茶を淹れた。
しばらくして、セレスティアは顔を上げた。目が赤い。鼻も赤い。
「ナターシャ。次の手を考えよう」
「……泣いた直後にそれですか」
「泣くのは終わった。次は——宰相の反撃に備えないと」
ナターシャはため息をついた。呆れではなく、深い感嘆のため息。
「承知しました。お嬢様」
窓の外に春の風が吹いていた。




