侯爵の涙
投票まで二日。
モンテヴェルデ侯爵ロレンツォが、公爵邸を訪ねてきた。
ヴォルフから鳥便で知らせが来た時、セレスティアは学園にいた。だが「侯爵が公爵に面会を求めている」という一報を受け、ナターシャを通じて父に伝言を送った。
『おとうさま。侯爵の話を聞いてあげてください。全部聞いた後で——選ばせてあげてください』
伝言の意味を、父エドヴァルトは理解しただろうか。
◇
公爵邸の応接間。
エドヴァルト・フォン・アルヴェインは、向かいに座る男を見ていた。
モンテヴェルデ侯爵ロレンツォ。五十代半ば。かつては精悍な体格だった男が、十年で萎れている。頬がこけ、目の下に深い影が落ち、背中が丸くなっている。
「公爵閣下。突然の訪問をお許しください」
「構わない。座ってくれ、ロレンツォ卿」
侯爵の手が震えていた。膝の上で握られた拳が白い。
「娘が——ヴィオレッタが、証拠を持ってきました」
「聞いている」
「私は——愚かでした」
侯爵の声が掠れた。
「事業の失敗。借金。宰相の助け。十年間——宰相に逆らえずに生きてきました。宰相が命じれば従い、投票で指示された通りに手を挙げ、娘を——」
声が途切れた。
「娘を、宰相への忠誠の証として学園に送りました。監視役として。九歳の娘を——道具にした」
エドヴァルトは黙って聞いていた。
「それが——全て、宰相に仕組まれていたと。事業の失敗も、借金も、最初から宰相が仕掛けた罠だったと。娘が——九歳の娘が、私に教えてくれました」
侯爵の目に涙が溢れた。
「閣下。私は——今まで何をしていたのか。十年間、宰相の犬として——家名を穢し、娘を怖がらせ、妻を泣かせ——」
「ロレンツォ卿」
エドヴァルトの声は静かだった。責める声ではない。
「君は騙されたのだ。宰相は三十年かけて権力を築いた男だ。君一人が抗えなかったことを、恥じる必要はない」
「ですが——」
「大事なのは、ここからだ。ロレンツォ卿。君はここに何をしに来た」
侯爵が顔を上げた。涙に濡れた目で、公爵を見た。
「投票に——王妃さまに票を投じに来ました。モンテヴェルデの四票を。宰相に——もう従わない」
「それは君自身の判断か」
「はい。娘に——教えられました。『自分で選んで』と」
エドヴァルトは立ち上がり、侯爵に手を差し伸べた。
「歓迎する。遅くはない、ロレンツォ卿」
侯爵がその手を取った。震える手で。だが——握り返す力があった。
「閣下。一つ——お伝えしなければならないことがあります」
「何だ」
「宰相は——投票前に動きます。中立派への圧力を強めている。昨夜、宰相の使者がヘルマン男爵家を訪ねたとの情報があります。借金の帳消しと引き換えに、宰相派への投票を約束させたようです」
「それと——オーベルシュタイン男爵家にも使者が行っています。こちらは領地の保全を条件に」
二家が宰相側に取り込まれた。浮動五家のうち二家。
残りはブリュンヒルデ男爵家、シュテルン伯爵家、ヴァルトシュタイン子爵家の三家三票。
エドヴァルトの表情は変わらなかった。
「ロレンツォ卿。情報に感謝する。他に知っていることは」
「宰相は——王太子殿下の発言を警戒しています。殿下が貴族院で何か言うという噂が、宰相の耳に入っている」
「宰相は殿下の発言をどう止めるつもりだ」
「議長を使って発言を制限するか——あるいは、殿下自身に圧力をかけるか。殿下の教育係マティアスを通じて」
「マティアスが殿下に何を言うか——」
「推測ですが。『陛下の病状を悪化させたくなければ、余計なことをするな』と。殿下は父君の病を気にしている。その感情を利用する」
「ロレンツォ卿。ありがとう。この情報は——極めて重要だ」
◇
エドヴァルトはすぐにセレスティアに鳥便を送った。
暗号を解読したセレスティアの顔が強張った。
「マティアスが殿下に圧力をかける……」
ナターシャが眉を寄せた。
「『父上の病を悪化させたくなければ黙れ』——殿下はこれに耐えられますか」
セレスティアは考えた。
アレクシスは自分で選んだ。母を選ぶと。だがマティアスの言葉は——アレクシスの最も柔らかい場所を突く。父への愛。
「声明を読むか読まないかは殿下を信じるしかない。こっちにできるのは——殿下が声明を読めるように、議場の状況を整えること」
「具体的には?」
「議長が発言を制限できないタイミングを作る。投票の手続き中——開票の直前。ここで殿下が立てば、議長は止められない」
「手続き的に可能ですか?」
「王太子の発言権は慣例で認められている。開票前の所信表明は前例がないが、禁止もされていない。法的に——ヴァルトシュタイン子爵家が認めるような根拠が必要」
「ナターシャ。おとうさまに伝えて。ヴァルトシュタイン子爵に——王太子の発言権に関する法的見解を求めて。子爵が『法的に問題ない』と太鼓判を押せば、議長は止められない。そして子爵自身が王妃派に傾く根拠にもなる」
「お嬢様。あと——シュテルン伯爵家は」
「レイデンブルク侯爵からの口添えは?」
「侯爵は手紙を書いたそうです。『軍人として、王の妻を守ることは名誉である』と」
「伯爵が応じれば一票。これで——」
計算した。
公爵家派十四。レイデンブルク三。モンテヴェルデ四。ヴァルトシュタイン一(見込み)。シュテルン一(見込み)。ヴェンデル二(条件付き)。
計二十五票。過半数二十七に二票足りない。
ブリュンヒルデ男爵家の一票が取れれば二十六票。あと一票。
「一票……」
「ブリュンヒルデ男爵は政治に無関心です。票読みでは最も動かしにくい」
「無関心な人間を動かすには——政治の言葉じゃなくて、別の言葉が要る」
「別の言葉?」
セレスティアは目を閉じた。
ブリュンヒルデ男爵家。北部の農業貴族。政治に興味がない。それは——裏を返せば、利益や恐怖では動かないということ。宰相の脅しも、公爵家の勧誘も効かない。
だが投票には来る。棄権はしない。貴族としての義務は果たす。
では何で判断するのか。
「ナターシャ。ブリュンヒルデ男爵の人物像をもっと詳しく」
「六十歳。妻に先立たれ、息子が一人。息子は軍に入り、現在は国境警備隊。男爵は領地で一人暮らし。農業と園芸を趣味としている。政治的な野心はゼロ。貴族院には義務として出席するだけ」
農業と園芸。
セレスティアの頭の中で、何かが繋がった。
「おかあさまの花壇。ラベンダー」
「は?」
「おかあさまに聞いてみる。ブリュンヒルデ男爵家と、花の話で繋がる線がないか」
「花の話で——票を?」
「政治の言葉で動かない人には、政治じゃない言葉で近づく」
ナターシャは呆れたような、感嘆したような顔をした。
「……もう何も驚きません」
鳥便を母に送った。
返事は翌日来た。
『ブリュンヒルデ男爵夫人——故人——は、学院時代のわたくしの先輩でした。園芸好きの方で、わたくしにラベンダーの育て方を教えてくださった方。男爵が園芸を趣味にしているのは、奥様の影響でしょう。
男爵にお手紙を書いてみましょうか。花の話を添えて。
おかあさまより』
◇
投票前夜。
セレスティアは自室の机に向かい、全ての手を頭の中で並べた。
確定票:公爵家十四、レイデンブルク三、モンテヴェルデ四。計二十一票。
見込み票:ヴァルトシュタイン一(法的根拠で納得済み)、シュテルン一(侯爵の口添えに応じた)。計二票。
条件付き票:ヴェンデル二(殿下の声明が出れば動く)。計二票。
不確定票:ブリュンヒルデ一(母の手紙の効果は不明)。
二十一足す二足す二で二十五票。ブリュンヒルデが加われば二十六票。
過半数は二十七票。
最大で二十六票。一票足りない。
どう計算しても——一票足りない。
「……足りない」
呟いた。声が震えた。
窓の外に月が出ていた。冬の終わりの月。丸くない。欠けている。
足りない。
でも——。
セレスティアは目を閉じた。
心臓が鳴っている。とくん。とくん。
明日。投票が始まる。一票足りなくても——行く。
足りない分は、当日、議場で何とかする。
何とかなるかは分からない。
でも——心臓が止まらない限り、諦めない。




