貴族院の攻防
投票まで五日。
セレスティアの日々は、学園と情報戦の二重生活だった。
朝は授業。昼は石段で仲間と食事。放課後はナターシャの部屋で票読み。夜はヴォルフやフェリクスとの鳥便のやり取り。眠るのは深夜を回ってから。
「お嬢様。フェリクス様から返信です」
ナターシャが暗号を解読した紙を差し出した。
『ヴェンデル家次男ディートリヒと接触成功。一族は宰相への恨み深い。ただし公然と宰相に反旗を翻す勇気はない。「宰相が負ける確信がなければ動けない」との回答。確信を示す材料を求めている』
確信。宰相が負ける確信。
当然だ。宰相に切り捨てられた一族が、勝ち目のない反乱に加わるはずがない。彼らが欲しいのは「勝ち馬に乗る」という確信だ。
「ナターシャ。現状の票読みを見せて」
紙を広げた。
宰相派:二十一票。確定。
王妃派:十四票(公爵家)+三票(レイデンブルク侯爵家・見込み)=十七票。
モンテヴェルデ侯爵家:四票。ヴィオレッタが交渉中。
ヴェンデル一族:二票。条件付き。
残りの中立派:八票。未確定。
十七足す四足す二で二十三票。過半数二十七に四票足りない。
「残り八票の中立派の内訳は」
「小貴族が六家。それぞれ一票ずつ。あと二家が一票ずつで八票。このうち三家は宰相寄りです。残りの五家が本当の浮動票」
五家で五票。全て取れれば二十八票で過半数を一票超える。
だが五家全てを取るのは現実的ではない。
「五家の情報。急いで」
「ヴォルフ様がまとめています。明日には届くかと」
◇
投票まで四日。
ヴィオレッタから鳥便が届いた。
『お父様に会えた。証拠を見せた。お父様は——泣いた。十年ぶりに泣くのを見た。
宰相に嵌められていたと知って、最初は信じなかった。でも取引記録を見せたら、顔が変わった。
お父様は怒っている。宰相に。でもそれ以上に——自分自身に怒っている。騙されていた十年間に。わたしを怖がらせていた十年間に。
お父様は言った。「すまなかった」と。わたしに。
わたしは泣かなかった。泣きたかったけど我慢した。ここで泣いたら、お父様がもっと辛くなるから。
モンテヴェルデ侯爵家の四票は、王妃派に投じる。お父様が約束した。
セレスティアさま。ありがとう。お父様を返してくれて。
ヴィオレッタ』
セレスティアは手紙を膝の上に置いた。
四票。確定。
「ナターシャ」
「はい」
「ヴィオレッタさま、すごいね」
「ええ。ですがお嬢様——もう一つ問題があります。侯爵家が宰相派から離反すれば、宰相はすぐに気づきます。投票前に侯爵を脅しにかかる可能性が」
「侯爵は脅しに屈しない。もう騙されていたと知っている。恐怖の根拠がなくなった人間は、脅しが効かない」
「でも——別の脅しを使う可能性は?」
「たとえば?」
「ヴィオレッタ様自身を人質にするとか」
セレスティアの背筋が冷えた。
宰相ならやりかねない。直接的な暴力ではなく、政治的な手段で。ヴィオレッタの学園での立場を脅かす、侯爵家の領地に圧力をかける、あるいは——婚約の話を持ち出す。
「ヴィオレッタさまの護衛を強化して。ヴォルフに頼んで、侯爵領に信頼できる人を——」
「すでに手配済みです。ヴォルフ様の判断で」
「……さすが」
◇
投票まで三日。
ヴォルフからの情報が届いた。浮動五家の詳細。
一、ブリュンヒルデ男爵家。領地は北部。農業貴族。政治に興味が薄い。票は一票。
二、ヘルマン男爵家。領地は東部。商業に強い。宰相の経済政策に恩恵を受けているが、最近の増税に不満。一票。
三、シュテルン伯爵家。軍人貴族。王に忠誠を誓う家系。だが現当主は保守的で変化を嫌う。一票。
四、ヴァルトシュタイン子爵家。法律家の家系。法的根拠を重視する。一票。
五、オーベルシュタイン男爵家。没落寸前の小貴族。借金がある。宰相に接近中。一票。
五家五票。全て取れれば過半数を超える。
「ナターシャ。この五家の中で、最も動かせるのは?」
「ヴァルトシュタイン子爵家です。法律家の家系なら、王妃摂政の法的根拠を示せば納得する可能性があります。法的に正当であることが何より重要な家」
「シュテルン伯爵家は?」
「軍人貴族は王への忠誠が厚い。国王の妻である王妃が摂政を務めることに、感情的な共感を得やすい。ただし——女性の摂政という前例のなさが引っかかる。保守的ですから」
「ブリュンヒルデ男爵家は」
「最も読みにくい。政治に興味がないということは、どちらに転んでもおかしくない。当日の雰囲気で決める可能性があります」
「ヘルマン男爵家は?」
「増税への不満は使えますが——宰相の経済政策で利益を得てきた過去がある。裏切れば報復される。宰相への恐怖が判断を縛る」
「オーベルシュタイン男爵家は」
「借金を抱えた没落貴族は、金で動きます。宰相が先に金を出せば——」
「こちらから金は出さない。金で動く票は、もっと大きな金で裏返る。信用できない」
セレスティアは紙の上に書き込んだ。
確実に取るべき票:ヴァルトシュタイン子爵家(法的根拠で)。
取れる可能性がある票:シュテルン伯爵家(王への忠誠で)。
読めない票:ブリュンヒルデ男爵家。
難しい票:ヘルマン男爵家。
諦める票:オーベルシュタイン男爵家。
二票を確実に取り、一票を何とかすれば、ヴェンデル一族の二票と合わせて——。
計算した。
公爵家派十四。レイデンブルク三。モンテヴェルデ四。ヴァルトシュタイン一。シュテルン一。計二十三票。
ヴェンデルの二票が加われば二十五票。まだ二票足りない。
ブリュンヒルデの一票が取れたとして二十六票。あと一票。
「……一票が足りない」
「お嬢様。ヴェンデル一族は『宰相が負ける確信』がなければ動かないと言っています。確信がなければ二票は来ない。二十三票のまま」
「堂々巡りだ。票がないから確信を示せない。確信がないから票が来ない」
沈黙。
ナターシャが静かに言った。
「お嬢様。一つだけ方法があります。ただし——リスクが高い」
「言って」
「王太子アレクシス殿下の公式声明です。貴族院の議場で、王太子自身が王妃支持を表明する。法的拘束力はありませんが、心理的な影響は絶大です。王太子が母を選んだという事実は——中立派の判断を変える力がある」
「殿下はやると言っていた。自分の心で選んだと」
「問題は——宰相がそれを阻止しようとすることです。殿下が議場に立つ前に、何らかの手段で声明を封じる。殿下の登壇自体を阻む可能性がある」
「殿下の登壇は——法的に」
「王太子は貴族院にオブザーバーとして出席できます。発言権は——慣例上、認められています。ただし議長が発言を制限することは可能。議長は宰相派です」
議長が発言を制限する。それは十分にあり得る。
「だったら——議長が止められない形で声明を出す」
「と言いますと?」
「投票の前ではなく、投票の最中に。議長が発言制限できるのは議事進行中。投票が始まれば議長の制限権は及ばない。投票の途中で——殿下が立ち上がって声明を読む。手続き上は異例だが、違法ではない」
ナターシャの目が見開かれた。
「……お嬢様。それは——かなり荒い手ですが」
「荒い手しか残ってない。丁寧にやる時間はもうない」
「ナターシャ。ヴァルトシュタイン子爵家への接触は、おとうさまに頼む。法的根拠の資料を添えて。シュテルン伯爵家には——レイデンブルク侯爵から口添えを。軍人貴族は同じ軍人貴族の言葉が響く」
「承知しました」
「ヴェンデル一族には——アレクシス殿下の声明が出ることを、事前に伝えて。『王太子が動く。だから安心して動け』と」
「それは——声明の内容が事前に漏れるリスクが」
「漏れていい。むしろ噂として広めて。『王太子が貴族院で何か言うらしい』と。噂は宰相にも届く。だが噂の段階では止められない。止めれば——王太子の口を封じたと見なされる」
「お嬢様……」
ナターシャの声に、かすかな震えがあった。
「あなたは本当に——九歳ですか」
「九歳だよ。背も低いし、算数のテストも百点じゃなかった」
「算数は九十七点でした。減点は字が汚かったからです」
「……うん。字はもうちょっと練習する」
ナターシャが小さく笑った。セレスティアも笑った。
だが笑いはすぐに消えた。
投票まで三日。




