アレクシスの選択
アレクシスが学園に戻ったのは、国王の病状発表から四日後だった。
顔が変わっていた。
四日前の少年と同じ顔のはずなのに、何かが違う。目の下の隈は消えていないが、目そのものが——硬くなっている。
「アレクシスさま。おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
セレスティアは昼休みの石段でアレクシスを待っていた。リディアとアネリーゼもいる。だが空気を読んで少し離れた場所に座っている。
アレクシスはセレスティアの隣に腰を降ろした。パンを受け取ったが、かじらない。手の中で持っているだけだ。
「父上は——意識が戻った。二日前に。だがまだ起き上がれない」
「そう。よかった」
「よくないよ。起き上がれないんだ。父上は——もう、政務に戻れないかもしれない」
アレクシスの声は平坦だった。感情を押し殺している。宰相に教わった話し方。だが指先が——パンの耳を千切っている。無意識に。
「摂政の話、聞いた?」
「うん」
「母上が立候補した。宰相は——怒っていた。いや、怒ってはいない。笑っていた。母上を笑っている。『王妃に政治は無理だ』と。他の大臣も同じことを言っていた」
アレクシスの声が低くなった。
「僕の前で言ったんだ。『殿下、摂政は経験ある者に任せるべきです。王妃さまではこの国は守れません』って」
「殿下は——なんて答えたの?」
「何も。何も言えなかった」
パンの耳が粉々になった。アレクシスの膝の上に散らばる。
「宰相は正しいのかもしれない。母上は政治を知らない。軍事も外交も。宰相は三十年この国を動かしてきた。経験も実績もある。合理的に考えれば——」
「殿下」
セレスティアが遮った。
「合理的に考えるのは、あとでいい。今は——殿下自身の気持ちを聞かせて」
アレクシスがセレスティアを見た。風属性の澄んだ目。だが今、その目は濁っている。迷いで。
「気持ち?」
「殿下は、どうしたい? 宰相に任せたい? それとも王妃さまに託したい? それとも——別の答えがある?」
「僕がどうしたいかなんて——関係ないだろう。摂政は貴族院が決める。僕の意見は——」
「関係ある」
セレスティアの声が鋭くなった。
「殿下は王太子。この国の次の王になる人。殿下の意思は——この国の未来そのもの。誰も殿下の代わりに決められない」
アレクシスが黙った。
風が吹いた。春先の冷たい風。石段の上の三人——少し離れたリディアとアネリーゼが、風に髪を揺らしている。
「セレスティア」
「なに」
「僕は——どうすればいいんだ」
その声は、九歳の少年の声だった。宰相に鍛えられた王太子の声ではなく、父が倒れて怯えている子供の声。
セレスティアは答えを用意していた。
だが——言わなかった。
「殿下。わたしは答えを言わない」
「え?」
「殿下が信じる人を選んでください。宰相でも、王妃さまでも、他の誰でも。殿下が——自分の心で選んだ人を」
「自分の心で——?」
「宰相は『合理的に考えろ』と言うでしょう。合理的に考えれば宰相が正しい。経験がある。実績がある。でも——殿下の心は、何と言ってる?」
アレクシスの手が胸に触れた。無意識の仕草。
「心……」
「殿下が倒れた時、誰に傍にいてほしい? 殿下が泣いた時、誰に見ていてほしい? 殿下が間違えた時、誰に叱ってほしい?」
アレクシスの目が潤んだ。
「……母上だ」
声が震えた。
「母上に——いてほしい。父上がいなくなったら——母上しかいない。母上に——この国を任せたい。政治を知らなくても。経験がなくても。母上は僕を——道具にしないから」
「僕は母上を選ぶ。自分の心で。自分で——選ぶ」
アレクシスの目に光が戻った。濁りが晴れた。迷いを超えた光。
セレスティアは微笑んだ。
「殿下。その気持ちを、貴族院の前で言えますか」
「言える。言わなきゃいけない。僕は——王太子だから」
◇
放課後。コンラートがアレクシスのもとに駆けつけた。
「アレクシス。大丈夫か」
「大丈夫だ。もう大丈夫」
「国王陛下のこと——俺には何もできないけど。でも——俺はお前の傍にいる。それだけは約束する」
アレクシスが笑った。
この数日間で初めての笑み。不安定な、頼りない笑み。だが本物だった。
「ありがとう、コンラート。お前がいてくれて——」
言葉が途切れた。照れたのだ。九歳の少年は、感謝を言い慣れていない。
コンラートが肩を叩いた。
「飯、食えよ。パンぐちゃぐちゃにしやがって。もったいないだろ」
「……ああ。そうだな」
アレクシスが新しいパンをかじった。一口。二口。三口。
食べた。四日間まともに食事が喉を通らなかった少年が、友人の前でようやく食事をした。食べながら、少しだけ肩の力が抜けていった。
セレスティアは少し離れた場所から、二人を見ていた。
リディアが隣に来た。
「アレクシス殿下——変わったわね」
「うん。自分で選んだ」
「あなたが答えを言わなかったから?」
「……見てたの」
「石段の距離では聞こえないわ。でも——あなたが何かを言わないでいることは、分かった」
「言わないことが、時には一番大きな贈り物になる。南方の諺よ」
「いい諺」
「嘘。今つくった」
セレスティアが笑った。リディアも口角を上げた。
◇
夜。ナターシャの部屋。
「殿下が王妃さま支持を表明されるなら——中立派に大きな影響があります」
ナターシャが票読みの紙を広げた。
「王太子の意思表示は法的拘束力はありません。でも心理的な効果は絶大です。『王太子自身が母を選んだ』という事実は、中立派の判断に影響する」
「うん。でも——殿下の宣言だけでは足りない。票が足りない」
「ヴィオレッタ様のモンテヴェルデ侯爵家の四票。これが動けば——」
「ヴィオレッタさまは明日、実家に向かう」
ナターシャが頷いた。
「残りの中立票。ヴォルフ様から追加の報告です。レイデンブルク侯爵家が態度を軟化させています。公爵閣下が先日の貴族院で見せた姿勢——慣習法を持ち出して宰相を退けた一件が、侯爵の琴線に触れたようです」
「侯爵の票は何票?」
「侯爵家本体で二票。追従する小貴族を含めると三票」
モンテヴェルデの四票とレイデンブルクの三票。合わせて七票。
公爵家派十四票に七票を足すと二十一票。あと六票。
「……まだ足りない」
「お嬢様。一つ提案があります」
ナターシャの目が鋭くなった。情報戦の専門家の目。
「先日失脚した財務卿カール・ヴェンデル。彼は宰相に切り捨てられました。切り捨てられた人間は——恨みを持っている」
「ヴェンデルは貴族院の議員?」
「直接は。だが彼の一族には議員が二人います。財務卿の失脚で一族の威信は地に落ちた。宰相を恨んでいるはずです」
「ヴェンデル一族の二票。接触できる?」
「フェリクス様経由で。フェリクス様は学者の人脈を通じてヴェンデル家の次男と面識があります」
「おにいさまに頼む。すぐに」
あと四票。
残りの四票をどう集めるか。投票まで六日。
時間がない。だが——道は見え始めている。
セレスティアは票読みの紙を見つめた。あと四票。残りの四票をどう動かすか。
ヴィオレッタが帰ってくる。フェリクスが動く。その結果を待ちながら、並行して別の糸を引かなければならない。
時間がない。残り六日で、決着をつける。




