王妃の覚悟
王宮。王妃の私室。
エレオノーラは窓の前に立っていた。
翡翠色の瞳が、中庭の薔薇園を見ている。冬が終わりかけた庭。枝には蕾がない。今年は侍女が減り、世話が行き届かなかった。枯れた枝が目立つ。
手の中にリリアーナからの手紙がある。三度読んだ。
『親愛なるエレオノーラへ。
暗い手紙なんて、謝らないで。あなたの手紙はいつだってわたしの宝物よ。
エレオノーラ。あなたは「何の力もない女」と書いていたけれど——わたしはそう思わない。
あなたは覚えている? 学院の二年目、あの嵐の夜。寮の屋根が半分吹き飛んで、下級生たちが泣いていた時。あなたが真っ先に立ち上がって、みんなを礼拝堂に誘導したこと。教師より先に。誰に命じられたわけでもなく。
あの時わたしはあなたの後ろにいた。あなたの背中を見ていた。あの背中は、怖がっている背中じゃなかったわ。
エレオノーラ、あなたにはその力がある。
ラベンダーの種を同封するわね。あなたの庭にも植えてみて。手がかからないの。放っておいても咲くから。
あなたの親友より
リリアーナ』
あなたにはその力がある。
エレオノーラは手紙を胸に押し当てた。
嵐の夜のことは覚えている。あの時、考える前に体が動いた。泣いている子供たちを見て、立ち上がった。怖かった。だが怖さより先に足が動いた。
あれは——力だったのだろうか。
扉を叩く音がした。
「王妃さま。宰相閣下がお見えです」
侍女の声。エレオノーラは手紙を素早く書机の引き出しに仕舞い、背筋を伸ばした。
「お通しして」
◇
宰相ヴィクトール・ド・ガルニエが入ってきた。
白髪交じりの髪。鷹のような目。六十を超えてなお、この男の存在感は部屋の空気を変える。冷たくする。
「王妃さま。お加減はいかがでしょうか」
「わたくしは元気よ。病気は陛下であって、わたくしではないわ」
「失礼を。ご心労がおありかと思いまして」
心労。その心労の原因の半分は目の前の男だ。エレオノーラはそう思ったが、顔には出さなかった。
「宰相。用件は何かしら」
「摂政の件でございます」
来た。
「陛下のご病状は——率直に申し上げます。回復の見込みは極めて低い。医師団の見解は一致しております」
「……そう」
知っていた。知っていたが、宰相の口から聞くと、現実の重さが違う。
「王太子アレクシス殿下はまだ九歳。親政は不可能です。よって——摂政の選出が不可避となります」
「あなたが摂政になりたいのでしょう」
直球。エレオノーラ自身が驚いた。いつもならもっと婉曲に言う。だが今日は——リリアーナの手紙が背中を押している。
宰相の目が一瞬だけ細くなった。
「私は国のために最善を尽くすのみです。摂政は貴族院の投票で決まります。私が望む望まないの問題ではありません」
嘘だ。この男は三十年間、この瞬間のために布石を打ってきた。国王の病は——天の配剤か、あるいはこの男にとって計画通りか。
エレオノーラの背筋が冷えた。まさか——病そのものが仕組まれた可能性は。
いや。今はその疑いを口にすべきではない。証拠がない。
「王妃さま。摂政選出にあたり、ご賛同をいただければ。王妃さまのお言葉は、貴族院に大きな影響力を——」
「わたくしの賛同?」
「ええ。王妃さまが摂政候補を推薦されれば、貴族院も安心するでしょう」
推薦。つまり——エレオノーラの口から、宰相を摂政として推薦させたい。王妃の権威を利用して、自分の摂政就任を正当化する。
なんという厚かましさ。
だが以前のエレオノーラなら——頷いていただろう。宰相に逆らう術を知らなかった。「政治は分からない」「あの人に任せた方がいい」と自分に言い聞かせて。
今日は違った。
「宰相。わたくしは——少し考える時間をいただきたいの」
宰相の眉が微かに動いた。
「時間、ですか。投票まで十日しかございませんが」
「三日でいいわ。三日だけ待って」
「……承知いたしました」
宰相が去った。
扉が閉まった瞬間、エレオノーラの膝が崩れた。椅子に倒れ込むように座った。
怖い。
あの男の目。三十年間この国を支配してきた男の目。あの目の前で「待って」と言った。たったそれだけのことで、心臓が破裂しそうだ。
だが——言えた。
いつもなら「はい」と言っていた。宰相が提案し、エレオノーラが同意する。それが十五年間の習慣だった。
今日、初めて「待って」と言った。
引き出しを開けた。リリアーナの手紙を取り出した。
あなたにはその力がある。
「リリアーナ……」
呟いた。友人の名前を。
あの嵐の夜。学院の寮。屋根が吹き飛び、下級生が泣いていた。誰よりも先に立ち上がった。教師を待たなかった。自分で判断して、動いた。
あの時の自分は——怖くなかった。いや、怖かったけれど、怖さを感じる暇がなかった。目の前に泣いている子供がいたから。
今、目の前に——泣いている子供がいる。
アレクシス。
九歳の息子。父が倒れ、宰相に囲まれ、自分の意志を奪われようとしている子供。
あの子を守れるのは——わたしだ。
母親だから。
エレオノーラは立ち上がった。
◇
翌日。エレオノーラはアレクシスの部屋を訪ねた。
「おかあさま」
アレクシスは窓辺に座っていた。顔が白い。目の下に隈がある。眠れていないのだろう。
九歳の少年。金髪が伸びて、襟にかかっている。いつもは侍従が整えるが、王宮の混乱で手が回っていないのだ。
エレオノーラはアレクシスの前に膝をついた。母として。王妃としてではなく。
「アレクシス。お父様のこと、怖い?」
アレクシスの唇が震えた。
「……怖くないよ」
嘘だ。
「怖くていいのよ。おかあさまも怖い」
アレクシスの目が見開かれた。
「おかあさまが——怖い?」
「ええ。お父様が心配で、毎日怖い。でもね、アレクシス」
息子の手を取った。小さな手。まだ子供の手。
「おかあさまが、あなたを守るわ」
「守る……?」
「誰にも、あなたを操り人形にはさせない。あなたはあなたのままでいていい。お父様が戻るまで——おかあさまが、この国を支える」
アレクシスの目に涙が溢れた。
「おかあさま。僕——」
「泣いていいのよ」
アレクシスがエレオノーラにしがみついた。九歳の少年が、母の胸で泣いた。声を殺して。肩を震わせて。
エレオノーラは息子の背を撫でながら、心の中で決めた。
三日後。宰相に返事をする時、こう言う。
「わたくし自身が、摂政に立候補します」
前例がない。女性の摂政は、この国の歴史上一度もない。
だが法律で禁じられてはいない。
宰相は笑うだろう。王妃に政治ができるはずがないと。
だがエレオノーラは知っている。嵐の夜に動けたことを。泣いている子供の前で立ち上がれたことを。
あの夜と同じだ。目の前に泣いている子供がいる。
今度の子供は——自分の息子だ。
◇
三日後。
エレオノーラは宰相を呼んだ。
「宰相。三日間考えました」
「ご決断を伺えますか」
「ええ。わたくしは——摂政候補を推薦します」
宰相の目に安堵が浮きかけた。
「わたくし自身を」
空気が凍った。
宰相の顔から一切の表情が消えた。三十年間政治の頂点に立ってきた男が、一瞬——完全に虚を突かれた。
「……王妃さま。失礼ですが——」
「前例がないと言いたいのでしょう。知っているわ。でも法律では禁じられていない。王の配偶者は摂政の資格を有する。王国基本法第七十三条第二項」
エレオノーラの声は震えていなかった。
三日間で法律を読んだ。侍女に古い法典を探させ、自分で読んだ。第七十三条第二項。摂政の資格要件。王族もしくは王の配偶者、または貴族院の推薦を受けた者。
王妃は最初の要件を満たしている。
「……なるほど。法的には確かに」
宰相が笑った。穏やかに。だが目が笑っていない。
「王妃さま。摂政は名誉職ではございません。国政の全権を代行する重責です。政務の経験がおありでしょうか」
「ないわ」
「軍事の知識は」
「ないわ」
「外交の実績は」
「ないわ」
三連続の「ない」。宰相の口角が上がった。勝った、と思ったのだろう。
「ですが——わたくしにはあるの」
「何が、でしょうか」
「息子を守りたいという意志が」
宰相の笑みが止まった。
「政務の経験がなければ学べばいい。軍事の知識がなければ教わればいい。外交の実績がなければ積めばいい。でも——息子を守る母の意志は、誰にも教わるものではないわ」
「王妃さま。感情で政治はできません」
「知っているわ。でも——感情のない政治に、この国を任せたくないの」
宰相の目が細くなった。鷹の目。獲物を見定める目。
だがエレオノーラは怯まなかった。膝は震えている。心臓は壊れそうだ。だが目を逸らさない。
「貴族院で投票しましょう、宰相。あなたもわたくしも、正々堂々と」
「……承知いたしました。王妃さまがそうお望みなら」
宰相が一礼して退室した。
扉が閉まった。
エレオノーラの膝が崩れた。椅子にしがみついた。全身が震えている。
だが——笑った。
震えながら、笑った。
言えた。言い切った。あの男の目の前で。
引き出しの手紙に手を伸ばした。もう読まなくてもいい。一字一句覚えている。
あなたにはその力がある。
「ありがとう、リリアーナ」
声が掠れた。
窓の外で、一羽の鳥が飛んだ。春の鳥。まだ冬の残る空を、一直線に。




