国王の病状悪化
知らせは、嵐のように来た。
春の始まりを告げる鐘が学園に響いた朝、全校集会が急遽招集された。大講堂に全学年が集められ、学園長が壇上に立った。
「国王レオナルド三世陛下が、ご病気のため執務を一時休止されることが、本日、王宮より正式に発表されました」
講堂にざわめきが走った。
一時休止。だが「一時」という言葉を額面通りに受け取る者は、この場にほとんどいない。貴族の子弟が集まる学園だ。子供たちの背後には、各家の情報網がある。
セレスティアは最前列の席で微動だにしなかった。
来た。
だが公式発表のタイミングが——早い。
セレスティアの想定では、春の中頃だった。もう少し時間があると思っていた。それが春の初日。つまり病状が想定以上の速さで進行しているか、あるいは——公表せざるを得ない事態が起きたか。
隣のフリーデリケが小声で聞いた。
「セレスティアさま。国王陛下は——」
「わからない。でも大丈夫。おちついて」
嘘だ。大丈夫ではない。だが今ここで動揺を見せるわけにはいかない。
視線を巡らせた。
アレクシスの席。——空だった。
王太子は朝から姿がない。王宮に呼び戻されたのだろう。自分の父が倒れたことを、九歳の少年は今どんな顔で聞いているのか。
コンラートが背後から覗き込むように聞いた。
「セレスティア。アレクシスは——」
「きっと王宮にいる。お父上のそばに」
コンラートの拳が膝の上で握られた。騎士見習いとして主君の傍にいるべき時に、学園に留められている。その歯痒さが見える。
「コンラートさま。今は待って。殿下が戻ったら、そばにいてあげて」
「……ああ」
イザベラの席を見た。宰相の娘は完璧な無表情で壇上を見つめていた。表情を読ませない。だがイザベラの右手が——膝の上で白くなるほど握られている。
リディアは目を細めて講堂全体を見渡していた。
ルシアンの席。——これも空だった。王族だから呼び戻されたのか。
「本日より、学園は通常の授業を行いますが、政治情勢に鑑み、外出規制を強化します。保護者の方への連絡は学園の公式便でお願いいたします」
学園長の言葉が遠くに聞こえた。公式便。つまり私的な密使便の使用が監視される。情報の統制が始まっている。
◇
集会後、セレスティアは真っ直ぐナターシャの部屋に向かった。
「ナターシャ」
「お嬢様。ヴォルフ様から緊急の鳥便が来ています」
ナターシャが小さな紙片を差し出した。ヴォルフの暗号。セレスティアはすぐに解読した。
『国王、意識が三日間戻らず。医師団が見放したとの情報。宰相が貴族院に摂政選出の動議を提出。投票は十日後。母上の手紙は王妃に届いた。王妃の反応は不明』
意識が三日間戻らない。
セレスティアの手が震えた。
「一時休止」ではない。国王は危篤に近い。公式発表は嘘だ。いつものように。
そして宰相は即座に動いた。摂政選出の動議を提出。投票まで十日。速い。速すぎる。王妃や公爵家が対抗策を練る時間を与えない気だ。
「ナターシャ。投票権を持つ貴族院議員の名簿と、各家の派閥一覧。今すぐ」
「すでに用意してあります」
ナターシャが別の紙を広げた。貴族院の勢力図。
議員総数五十二名。過半数は二十七票。
宰相派:二十一票。確定。
公爵家派:十四票。確定。だがこの中には、アルヴェイン公爵自身の一票と、その直系の親族・臣下の票が含まれている。
中立派:十七票。ここが戦場だ。
「中立派のうち、動かせそうな議員は」
「ヴォルフ様の分析では、五名が公爵家に傾いています。だが確約ではありません。残りの十二名は読めない」
十四足す五で十九票。まだ八票足りない。
「宰相派から崩せる議員は」
「現状では困難です。宰相派は利益と恐怖で繋がっています。造反すれば政治生命が終わる」
「中立派の鍵は——」
「モンテヴェルデ侯爵家が最大です。侯爵の票と、侯爵に追従する小貴族三家で四票。これが動けば十九足す四で二十三。あと四票」
モンテヴェルデ侯爵。ヴィオレッタの父。
宰相に弱みを握られ、宰相派に従ってきた侯爵。だがニコラスから得た情報——侯爵の借金は宰相が仕組んだもの——を使えば、状況は変わる。
「ヴィオレッタさまに話す必要がある」
「お嬢様。モンテヴェルデ侯爵を動かすのは——リスクがあります。侯爵が宰相に寝返りを報告すれば」
「しない。侯爵は宰相に嵌められたことを知れば、怒る。怒りは恐怖より強い」
ナターシャが眉を上げた。
「……お嬢様の人間観察は、時々恐ろしいです」
「ナターシャに教わった」
「わたくしはそこまで教えていません」
◇
その日の夜。セレスティアはヴィオレッタの部屋を訪ねた。
「ヴィオレッタさま。大事な話がある」
ヴィオレッタは窓辺に座っていた。目が赤い。泣いていたのだ。
「……国王陛下の話、聞いたわ」
「うん」
「お父様が——きっと宰相と一緒に動くのでしょう。いつものように。宰相に言われるまま。何も自分で考えずに。何も——」
声が震えた。
「ヴィオレッタさま。お父様を——助けられるかもしれない」
ヴィオレッタの目が上がった。
「助ける? お父様を?」
「モンテヴェルデ侯爵が宰相に従っている理由。借金の話は知ってるよね」
「……ええ。お父様が事業に失敗して、宰相に借金を肩代わりしてもらった。それ以来、宰相には逆らえない」
「その借金——宰相が仕組んだものだった」
ヴィオレッタの顔が凍った。
「仕組んだ——?」
「事業の失敗は偶然じゃない。宰相が裏で取引先を操作して、わざと失敗するように仕向けた。侯爵が借金を抱えるように。そして宰相自身が借金を肩代わりすることで、侯爵を支配下に置いた。最初から計画されていた」
証拠の紙をナターシャが渡した。ニコラスの情報網が洗い出した取引記録の写し。
ヴィオレッタの手が震えた。紙を握る指が白い。
「お父様は——嵌められたの」
「うん」
「宰相に——最初から」
「うん」
ヴィオレッタの目に涙が溜まった。だがこぼれなかった。唇を噛んで、堪えた。
「セレスティアさま。わたし——お父様に会いに行く」
「危険だよ」
「分かってる。でも——お父様を宰相の犬のままにしておけない。お父様は犬じゃない。嵌められただけ。騙されただけ。本当のお父様は——」
ヴィオレッタの声が途切れた。
「本当のお父様は、やさしかった。わたしが小さい頃、花を摘んできたら、笑ってくれた。借金のことがあってから、笑わなくなった。ずっと」
「ヴィオレッタさま。お父様に真実を見せて。そして——選ばせてあげて。今度は、騙されずに。自分の意志で」
ヴィオレッタは涙を拭い、背筋を伸ばした。
「行くわ。春休みに。お父様に会いに」
「一人で?」
「一人で。これはわたしとお父様の問題だから。セレスティアさまは——貴族院の他の票を集めて。わたしはお父様の四票を取り戻す」
セレスティアはヴィオレッタの手を握った。
「気をつけて。そして——お父様に伝えてね。『もう一人じゃない』って」
ヴィオレッタが泣いた。今度は堪えなかった。
◇
深夜。セレスティアは自室で月を見ていた。
投票まで十日。母の手紙は王妃に届いた。ヴィオレッタが侯爵を動かしに行く。中立派の残りをどう動かすか。
準備は整いつつある。だが十日は短い。
十日は短い。だが、動くしかない。
十日間の戦いが始まった。




