アネリーゼの問い
学園に戻る前日の朝。
公爵邸の庭に、アネリーゼが来ていた。
神殿の見習いとして、定期的にリリアーナの経過を診に来ている。今日もそのためだった。年が明けて最初の診察。冬の終わりの空気が、少しだけ柔らかくなっていた。
診察を終えて出てきたところで、セレスティアと鉢合わせた。
「アネリーゼさま。おかあさまの具合は」
「順調です。春になる頃には、もう少し回復されると思います」
「良かった」
「去年より手の力も戻っています。お薬も少し減らせるかもしれない。医師の先生と相談します」
「本当に?」
「はい。まだ様子を見ながらですが」
アネリーゼが少し照れたように俯いた。
「わたしはただ、手を当てているだけで——先輩に教えられたことをしているだけなんですが」
「それがすごいことだよ」
「そうですか……」
「手を当てる時、何を考えてるの?」
「……治れ、と思っています。それだけです。むずかしいことは考えない。ただ、この方が楽になってほしいという気持ちを、手のひらに込めて」
「それだけで術が働くの?」
「魔力は気持ちに素直だと、先輩が言っていました。複雑なことを考えると光が揺れる。シンプルな気持ちの方が、きれいに流れるって」
庭の石椅子に二人で座った。冬の終わりの風が、少し柔らかくなっていた。遠くで鳥が鳴いた。
◇
「セレスティアさま」
「なに?」
「一つ、聞いてもいいですか」
「うん」
「セレスティアさまは、神を信じますか」
セレスティアはすぐに答えなかった。
答え方を考えているのではない。答えがどこにあるかを、探していた。
◇
「……分からない」
「そうですか」
アネリーゼはがっかりした様子ではなかった。うなずいた。静かに。信じると言ってほしかったわけではなく、本当の答えを聞きたかったような顔だった。
「わたしも、いつも確信があるわけではありません」
「アネリーゼさまが?」
「はい。神殿にいると、祈ることに慣れてしまって。信じているのか、習慣なのか、分からなくなる時があります」
「神殿で育ったから、もっと確信があるのかと思ってた」
「信じているということと、確信があるということは、違うかもしれません」とアネリーゼが言った。「わたしは信じたいと思っています。でも、全ての瞬間に確信があるわけではない。それでも祈っています」
「なぜ?」
アネリーゼがしばらく考えた。
「神殿に入って最初の年、治癒の術がうまくいかなかったことがあります。同じ期の見習いの子が、足を傷めていて——わたしが手を当てたのですが、光がうまく流れなくて、全然塞がらなかった。その子が泣いていて、でもわたしには何もできなくて」
「それで?」
「夜に一人で祈りました。ちゃんと治せるようになりたい、と。神様へというより——自分の気持ちを確かめるために。翌朝、もう一度手を当てたら、今度は少し流れた。術が上手くなったわけじゃないと思います。ただ、自分が何をしたいのかが、はっきりしたから」
「でも」とアネリーゼが続けた。「祈る時に、自分が何を大切にしているか分かります。何のために祈っているかを考えると、自分の心が見える気がして」
「何のために、祈ってる?」
「今は……みなさんのために。ご家族や、お友達のために」
「リリアーナさまのためにも?」
「はい。毎回、診察の後に。早くお元気になってください、と」
「知らなかった」
「言うものでもないと思っていたので」
アネリーゼが少し照れたように言った。
それが届いているかどうかは分からない。でも、誰かが自分のために祈ってくれているということが——ただそれだけで、少し温かくなる。
セレスティアの胸の中で、何かがほぐれた気がした。
◇
「アネリーゼさまの祈りは、本物だと思う」
「え?」
「神がいるかどうかは分からない。でも、アネリーゼさまが誰かのために祈る時の気持ちは本物だから。その気持ちが届く先に何があるかは、わたしには分からないけど」
アネリーゼが静かに笑った。いつも控えめな笑顔だ。目が少し細くなる。
「そうですね。届く先は分からなくても、祈ることで、わたしの心が決まる気がします。『この人を守りたい』という気持ちが、より確かになる」
「じゃあ」とセレスティアが言った。「わたしも祈れるかな。神を信じていなくても」
「できると思います」
「何のために祈れば、いい?」
「誰かのために」アネリーゼが答えた。「それだけでいいと思います」
「たとえば?」
「たとえば——今日、わたしがリリアーナさまのために祈ったように。春には庭に出られますように、って。その気持ちが届いても届かなくても、わたしの中で『この方が春に庭に出られたら嬉しい』という気持ちが確かになる。それだけで十分だと思います」
「なるほど」
セレスティアは自分の手のひらを見た。「じゃあ、わたしも——」
◇
「じゃあ、今日から祈ってみる」
「何を?」
「ナターシャとヴォルフが、ずっと元気でいられますように。おかあさまが春に庭に出られますように。おにいさまたちが怪我しないように」
アネリーゼが微笑んだ。
「それは、立派なお祈りです」
「立派かな」
「はい。心が込められているから」
◇
庭に風が吹いた。冬の、最後の風。
木の葉が揺れた。
「ひとつだけ、わたしも聞いていい?」
「はい」
「アネリーゼさまは——これからも、神殿の治癒師になるの?」
「はい。なりたいです。……ずっと決めていたわけじゃないですが、治せるようになった時に、そう思いました。人の痛みを減らすことができるなら、それをしたいって」
「大変じゃない? 神殿の修行、厳しいんでしょ」
「大変です。朝四時に起きて、寒くて、お風呂も週に二回しか入れなくて」アネリーゼが少し笑った。「でも、治せた時の気持ちは——それだけの価値がある」
シンプルな答えだった。だからこそ本物だと思った。
「学園に戻ったら、また声をかけてください」
「うん。またお茶飲もう」
「はい」
アネリーゼが立ち上がった。白い神殿の衣が風に揺れた。小さなお辞儀をして、庭を出て行った。
セレスティアは石椅子に残った。
「誰かのために祈る」
声に出した。誰にでもなく。
神を信じるかどうかは、まだ分からない。でも試してみる。神がいないとしても、誰かのことを思う時間は意味があると思う。何かを大切にしていることを、自分に確認する時間だ。
目を閉じた。
ナターシャとヴォルフのことを思った。フリーデリケとリディアのことを思った。フェリクスとエドヴァルトのことを思った。アネリーゼのことも思った。
それから——アレクシスのことを思った。
いつも仮面を貼り付けて、カスパルのそばにいる少年。本当の笑顔を見せるのは、友達と突然会えた瞬間だけ。あの子が、もう少し自由に息ができますように。
「届くかな」
声に出た。誰にでもなく。
「届く先は分からなくても、気持ちが確かになる」。アネリーゼの言葉が頭の中に響いた。
そうだ。届くかどうかより、今のわたしの中で、この子たちを大切に思っているということが——確かになる。
それが祈りかどうかも、分からない。
でも心が、じんわりと温かくなった。
遠くで鳥が鳴いた。冬の終わりの声だ。もうすぐ春が来る。
石椅子が、少しだけ温かくなっていた。




