母たちの手紙
公爵邸に帰ったのは、冬の終わりだった。
セレスティアが手紙に書いた「春が来る前に」を、母リリアーナは正確に読み取った。ヴォルフが学園に迎えに来たのは、手紙を送ってわずか五日後のことだった。
「おかえりなさい、セレスティア」
母は玄関の階段で待っていた。金色の髪が冬の日差しに淡く光っている。「黄金の百合」と呼ばれた美しさは、毒に蝕まれた五年間を経てなお、むしろ深みを増していた。
「ただいま、おかあさま」
抱き締められた。母の腕は温かい。以前より——力がある。回復が進んでいる。
「大きくなったわね。少し背が伸びた?」
「うん。一センチ」
「あら。じゃあすぐに追い越されてしまうわね」
母は笑った。穏やかな笑み。だがセレスティアの目を見つめる視線には、問いが含まれていた。
——帰省の本当の理由を、聞いている。
「おかあさま。あとでお話があるの。おかあさまのお部屋で」
「ええ。お茶を用意させるわね」
◇
リリアーナの私室。
花の匂いがする部屋だった。窓辺に小さなラベンダーの鉢が三つ並んでいる。母自身が世話をしている花だ。壁には押し花の額が掛かり、書机には便箋と万年筆が整然と並んでいる。
この部屋で、母は手紙を書いている。毎週。
「おかあさま。王妃さまとのお手紙は、今も続いているの?」
リリアーナは紅茶を注ぎながら頷いた。
「ええ。月に二回。お互いに」
「おかあさま。今日は——王妃さまからの手紙を、わたしにも見せてもらえますか」
リリアーナの手が止まった。紅茶のポットを持ったまま、セレスティアを見た。
「エレオノーラの手紙を?」
「はい。お願いです」
母は数秒黙った。それから、ポットを静かに置き、書机の引き出しを開けた。
小さな木箱。蓋に薔薇と百合の彫刻。王家の封蝋の跡が残る便箋の束。二十年以上にわたる、二人の女性の絆が詰まった箱。
リリアーナは最も新しい手紙——三日前に届いたもの——を取り出した。
「これが、一番最近のお返事」
王妃の筆跡。流麗だが、よく見ると——字が少し乱れている。以前のものと比べて。
セレスティアは母の許可を得て、手紙を読んだ。
『親愛なるリリアーナへ。
あなたの手紙が届くたびに、少しだけ息ができる気がします。
花壇のラベンダーの話、嬉しかった。わたしの庭の薔薇は、今年は世話が行き届かなくて。侍女たちが減ってしまったの。
レオナルドの顔色が、日に日に悪くなっています。
医師は何も言わないけれど、わたしには分かるわ。夫の顔色くらい、妻が一番よく知っている。
アレクシスには何も知らせていません。あの子はまだ九歳。政治のことより、今は学園で友達と過ごしてほしい。でもいつまで隠し通せるか分からない。
リリアーナ、わたしは怖い。
レオナルドが倒れたら、この国はどうなるの。アレクシスはまだ子供。摂政を——誰が?
あの人が摂政になれば、アレクシスは傀儡になる。わたしが一番恐れていること。
でも、わたしに何ができるの。わたしは王妃というだけの、何の力もない女よ。政治なんて分からない。宰相のように国を動かす頭もない。
ごめんなさい、暗い手紙で。
あなたにだけ。あなたにだけは、弱音を吐いてしまう。
春が来たら、あなたに会いたいわ。
エレオノーラ』
セレスティアは手紙を膝の上に置いた。
指が冷たくなっていた。
「何の力もない女」——違う。違うのだ。
「おかあさま」
「なに?」
「おかあさま。国王陛下の病状が——公式発表より深刻だということ、知ってた?」
リリアーナの目が見開かれた。
「セレスティア。どうしてそれを」
「学園のお友達が、神殿のお祈りの回数が増えているって教えてくれた。ナターシャも王宮の医務官が慌ただしいって言っていた。薬の量が五倍になっているって」
母は椅子に座り直した。背筋を正し——政治家の妻の顔になった。
「……分かっていたわ。エレオノーラの手紙の行間に、ずっと滲んでいたから。でも具体的な数字は知らなかった」
「おかあさま。もし国王陛下が——」
言いにくい言葉を飲み込んだ。だが母は理解した。
「摂政問題ね」
「うん」
リリアーナが目を閉じた。
「宰相が摂政になれば——エレオノーラもアレクシスも、完全に支配される。それは分かっているわ。でもセレスティア、王妃摂政は前例がないの。慣習法にも判例にもない」
「前例がなくても、法律で禁止はされていない。それは——おとうさまに確認した?」
「……していないわ」
「確認してみて。おとうさまは法にくわしいから」
「セレスティア。あなた、いつからこんなに——」
「おかあさま。わたしはおかあさまの娘だもん。おかあさまが心配していることは、わたしも心配する」
嘘ではない。ただ理由が——母が思うよりもずっと深い場所にある。
リリアーナは小さく笑った。呆れたような、感嘆したような笑み。
「あなたは本当に——お父様に似てきたわね。いいえ、お父様よりも大胆かもしれない」
「それでね、おかあさま。王妃さまに、ひとつだけ伝えてほしいことがあるの」
「何を?」
セレスティアは母の目を見た。
「『あなたにはその力がある』って」
リリアーナが息を呑んだ。
「エレオノーラに? その力があると?」
「王妃さまは、自分には何もできないと思っている。宰相にそう思い込まされている。でも——王妃さまは王の配偶者で、アレクシスさまの母親で、この国の王妃。摂政の資格は法的にある。必要なのは——自分にそれができると信じること」
「でもそれは——政治的な提案をすることになるわ。手紙の中で。もし宰相側に傍受されたら」
「だから、直接は書かない。おかあさまの言葉で。友達としての言葉で。政治の言葉じゃなくて——エレオノーラさまを信じているという気持ちだけを」
リリアーナは黙った。
長い沈黙。紅茶から立ち上る湯気が、窓の光に透けている。
「……あなたの言う通りね」
母は立ち上がり、書机に向かった。万年筆を手に取り、便箋を広げた。
「政治の言葉は要らない。エレオノーラに必要なのは、友人の声」
リリアーナが書き始めた。セレスティアは隣の椅子に座り、母の横顔を見ていた。
万年筆が紙の上を滑る音。静かな部屋。花の香り。
母が書いている内容は見えない。見る必要もない。
「……書けたわ」
封をする前に、リリアーナはセレスティアを見た。
「セレスティア。一つだけ聞いてもいい?」
「なに?」
「あなたは——エレオノーラのためにこれをしているの? それとも——」
母の紫の瞳が、静かにセレスティアを見つめていた。
この国のために。宰相に対抗するために。それとも——本当に、一人の女性を助けたいのか。
セレスティアは正直に答えた。
「両方。宰相を止めたい。でも——王妃さまが『自分には何もできない』と思い続けるのは、かなしい。おかあさまが毒で苦しんでいた時と同じだよ。できるのに、できないと思い込まされている。それはかなしい」
リリアーナの目が潤んだ。
「……あなたは優しい子ね。お母様にはもったいないくらい」
「そんなことない。おかあさまの子だから、やさしくなれるの」
母が泣いた。静かに。数滴だけ。それを拭い、手紙を封筒に入れ、封蝋を押した。
アルヴェイン公爵家の鷲の紋章。
「ヴォルフに——」
「うん。密使便で」
手紙は翌朝、ヴォルフの手で王宮に向かった。
◇
夜。
セレスティアは自室の窓辺に座り、冬の月を見ていた。
王妃は変わるだろうか。一通の手紙で。友人の声で。
分からない。前世では王妃は何も変わらなかった。宰相に封じ込められたまま、息子が宰相の傀儡になるのを見ていることしかできなかった。
だが今は違う。リリアーナがいる。手紙がある。友人の声がある。
宰相は男たちの権力で世界を動かそうとしている。法と軍と金と脅迫で。
だがこの世界には、宰相には見えない力がある。
母たちの手紙。女性たちの連帯。友情という名の、最も古い同盟。
宰相は手紙を監視している。だが手紙の行間までは読めない。ラベンダーの香りの意味も、「あなたにはその力がある」という言葉の重さも、二十年の友情を持たない者には伝わらない。
「エレオノーラさま」
セレスティアは月に向かって呟いた。
「立ってください。あなたの息子を守れるのは、あなただけです」
月が雲に隠れた。
セレスティアは窓を閉じた。明日、学園に戻る。




