イザベラの沈黙
イザベラ・ド・ガルニエは、三ヶ月間、沈黙している。
学年末の実技試験で見たもの。セレスティア・フォン・アルヴェインの右手から閃いた黒い光。一瞬——まばたき一回分。だがイザベラの目は見た。
黒い光。闇属性の魔力。
光属性の天才と呼ばれるセレスティアが、闇を持っている。
父に報告すべきだった。
イザベラの日課は決まっている。毎週金曜日、父ヴィクトールへの手紙を書く。一週間の出来事を詳細に記した報告書。誰と話したか。何を学んだか。誰が何をしたか。書式は六歳の時に決められた。最初の一年は侍女が検閲し、不備があれば書き直しを命じられた。今は検閲なしで提出している。信頼されたのではない。もう書式の不備がなくなったからだ。
学年末試験の報告書にも書くべきだった。「セレスティア・フォン・アルヴェインの魔力に、闇属性と思われる反応を確認」と。一行で済む。客観的な事実の記述。感情を交えず、分析を交えず、ただ見たものを書く。父が教えた報告の原則に忠実に。
書かなかった。
三ヶ月が経った。書かないまま。
◇
冬の寮。イザベラの個室は、いつも整然としている。
机の上には教科書が分類順に並び、ペンは銀のペン立てに三本。インクは青と黒の二瓶。便箋は二十枚ずつ、封筒は十枚ずつ。全て父が指定した配置だ。
ベッドの枕元には何もない。他の令嬢たちが人形や花を飾る場所に、イザベラは何も置かない。父が「装飾は思考を鈍らせる」と言ったからだ。
窓の外を見た。冬の夕暮れ。灰色の空。
なぜ書かなかったのか。
この問いが、三ヶ月間イザベラの頭を離れない。毎日考えている。毎晩寝る前に考えている。そして毎朝目が覚めた時、まだ答えが出ていない。
父の教えに従えば、答えは明白だ。
「情報は武器だ。相手の弱みを知ったなら、記録し、保管し、最も効果的なタイミングで使え」
六歳の誕生日に父が教えた言葉。イザベラはそれを完璧に実行してきた。同級生の秘密を知れば報告した。教師の不用意な発言を聞けば記録した。全て父のために。
セレスティアの闇魔力は、最大級の情報だ。公爵令嬢が闇属性を隠しているという事実は、アルヴェイン家に対する決定的な武器になり得る。
書けばよかった。一行で。感情を交えず。
指が動かなかった。
ペンを手に取り、便箋を広げ、「実技試験について」と見出しを書いた金曜日の夜。インクが乾くまで待ち、次の一行を書こうとして——書けなかった。
代わりに書いたのは、「ルシアン殿下が試験範囲を逸脱した攻撃を行い、無効試合となりました」という事実だけだった。嘘ではない。省略だ。
報告すべきことを省略する。
それは父の教えに対する、明確な違反だった。
◇
図書室で会ったのは偶然だった。
——と、イザベラは自分に言い聞かせている。
冬休み明けの第三週。午後の自習時間。イザベラが図書室に入ると、窓際の席にセレスティアがいた。本を読んでいる。
二年前の雨の日を思い出した。あの時もこの図書室で、二人きりだった。
あの時、イザベラは初めて「選んだ」。報告しない、と。小さな反逆。父への初めての背き。
今また、同じ状況にいる。報告すべきことを報告していない。だが今回の規模は、二年前とは比較にならない。
セレスティアが顔を上げた。
「イザベラさま」
自分と同じように。
「セレスティア。隣、いい?」
「どうぞ」
隣に座った。近すぎず、遠すぎず。二年前と同じ距離。
しばらく沈黙した。イザベラは本棚から適当に本を取った。開いたが、文字を追う気にならない。二年前と同じだ。読んでいる振り。
「イザベラさま。何か聞きたいことがある顔をしてる」
見透かされた。
イザベラは本を閉じた。
「あなたに一つ、聞きたいことがある」
「なに?」
「実技試験。あなたの右手。あれは——何だったの」
セレスティアの表情が変わらなかった。完璧な無表情。だが指先が微かに動いた。膝の上で、右手の指先が。
あの黒い光が閃いた、その指先が。
「何のこと?」
「とぼけないで。私は見たわ。黒い光。一瞬だったけど、確かに」
セレスティアが沈黙した。五秒。十秒。長い沈黙。
それから——目を逸らさなかった。イザベラの紫の瞳を、正面から見つめ返した。
「イザベラさま。見たのなら——なぜ、今まで黙っていたの」
質問で返された。
イザベラの心臓が跳ねた。
それが——三ヶ月間、自分に問い続けてきた質問だったからだ。なぜ黙っていたのか。なぜ報告しなかったのか。
「……お父様に報告すべきだったわ。あなたが闇属性を隠しているという情報は、お父様にとって極めて重要なもの。私はお父様の目として学園にいる。見たものを報告するのが私の役割」
「でも——報告しなかった。理由は——」
イザベラの声が詰まった。
理由が分からない。三ヶ月考えて、分からない。合理的な理由が見つからない。父の教え——「合理的であれ」——に従えば、報告しない理由はない。
なのに、報告しなかった。
合理性だけでは説明できない何かが、イザベラの中にある。
「セレスティア。あなたは何を隠しているの」
「答えられないよ」
「でしょうね」
「でも——目は逸らさない」
セレスティアの目。灰色がかった青。深い色。この目は嘘をつく時も正面を向いている。嘘をつく覚悟がある目だ。
イザベラは自分の目がそうであるか、自信がなかった。
「イザベラさま」
「なに」
「一つだけ聞いていい?」
「……いいわ」
セレスティアの声が静かになった。幼い話し方ではない。本当の声。
「あなたは——お父様の命令がなかったら、何をしたい?」
イザベラの呼吸が止まった。
何をしたい。
何を——したい?
「……何を聞いているの?」
「そのまま。イザベラさまが、お父様の娘じゃなかったら。宰相に使われていなかったら。何がしたい? 何が好き? 何を読みたい? 誰と話したい?」
イザベラの口が開いた。言葉が出なかった。
閉じた。
もう一度開いた。出ない。
答えられない。
何をしたいか。考えたことがなかった。服は父が決める。本は父が選ぶ。友人は父が管理する。将来は父が設計する。イザベラの人生にイザベラの意志が介在する余地は、最初から用意されていなかった。
「……分からないわ」
声が掠れた。
「何をしたいか、分からない。考えたことがない」
恥ずかしかった。
「それでいいよ」
セレスティアの声。柔らかかった。
「分からなくて、いいの。だって——今まで考える機会がなかったんだもん。これから考えればいい」
「これからって——」
「うん。今日から。少しずつ」
イザベラはセレスティアの顔を見た。
笑っていた。穏やかに。敵ではなく、味方でもなく。ただ——隣にいる人間として。
「あなた、変な子ね」
「二年前もそういわれた」
「覚えているの」
「イザベラさまとの会話は全部覚えてる。だって面白いから」
面白い。また。二年前と同じ言葉。
イザベラの唇が動いた。今度は途中で止めなかった。
微かに——笑った。
すぐに消した。だが一瞬、確かに笑った。
「セレスティア」
「なに?」
「あなたの秘密は、お父様には報告しない。今回も」
「……報告しないのは、あなたの力をお父様に渡せば、お父様はあなたを潰すから。それは——」
イザベラは言葉を探した。
合理的ではない。宰相の娘として、敵を潰す情報を握っているなら使うべきだ。それが合理的な判断だ。
だが。
「——それは、正しいことなのか分からないから」
正しい。
父の教えに「正しさ」という概念は含まれていなかった。合理的かどうか。有利かどうか。効果的かどうか。それだけだった。
「正しいかどうか」を考えたのは、初めてだった。
セレスティアが目を見開いた。
それから、静かに言った。
「イザベラさま。ありがとう」
「礼はいらないわ。これは私の判断よ」
「うん。知ってる。イザベラさまが自分で選んだこと」
選んだ。
◇
イザベラは図書室を出た。
廊下を歩きながら考えた。
「何をしたいか分からない」。そう答えた自分の声が、まだ耳に残っている。
九年間、父の設計図の上で生きてきた。設計図の外に何があるのか、見たことがない。見ようとしたこともない。
父は正しい。父の判断は常に合理的で、常に最善だ。イザベラは父を信じている。信じている——はずだ。
だが。
あの黒い光。セレスティアの右手から閃いた闇。
あれを父に渡せば、父はアルヴェイン家を攻撃する。セレスティアを「危険な存在」として排除しようとする。それが合理的な政治だ。父の流儀だ。
潰される。
あの目が。あの声が。「面白いから」と笑う顔が。
——潰されるのは、正しくない。
寮の自室に戻った。整然とした机。銀のペン立て。便箋。封筒。
金曜日の報告書を書く。
『お父様へ。
今週は魔術理論の授業で属性間の相互作用について学びました。
リディア・カルヴァリオ嬢の南方魔術が教室でも注目されています。
アレクシス殿下は風属性の制御がさらに向上しています。
コンラート・ヴァイスハウプト卿が騎士訓練生として認可された件は、すでにご存知かと思いますが報告いたします。
特記事項はありません。
イザベラ』
特記事項はありません。
嘘ではない。省略だ。
だが省略は——父の教えに対する反逆だ。報告すべきことを報告しない。見たものを書かない。
イザベラはペンを置いた。
窓の外を見た。冬の空。星が一つ、低い位置に光っている。
何をしたいか、分からない。
だが——何をしたくないかは、輪郭が見えた。
あの子を潰すことに、加担したくない。
それが合理的かどうかは、分からない。正しいかどうかも、まだ分からない。
でも——そう思った。自分で。初めて。
イザベラは便箋を封筒に入れ、封をした。
手が震えていた。
小さな反逆。二度目の。
いつかこの反逆が父に気づかれる日が来るかもしれない。その時、何が起きるのか。教育という名の罰か。それとも——。
考えるのをやめた。今は考えなくていい。
窓の星が、ひとつ瞬いた気がした。気のせいかもしれない。
でも——イザベラは今日、星を見た。
枕元に何も置かない自室で。装飾は思考を鈍らせると教えられた部屋で。
星を、綺麗だと思った。
それを報告する相手は、いない。




