アネリーゼの光
アネリーゼが学園に戻ってきたのは、冬休み明けの最初の日だった。
「セレスティアさま!」
門をくぐった瞬間に、銀色の短い髪が走ってきた。息を切らしている。頬が赤い。走ってきたのだ。門から校舎までの長い石畳を。
「アネリーゼさま。おひさしぶり」
「二ヶ月も離れてしまって——ごめんなさい。神殿の修行が長引いて」
セレスティアはアネリーゼの手を取った。温かい手。以前より——温かい。
「修行、がんばったんだね」
「はい。治癒の術がもう少し上手になりました。小さな傷なら、もう完全に塞げます」
アネリーゼが誇らしそうに笑った。
「お昼、いっしょに食べようね」
「はい! ——あ、リディアさまもご一緒ですか」
「うん。石段で」
「石段……?」
「あとで分かるよ」
◇
昼休み。礼拝堂の横の石段。
三人が並んで座った。セレスティア、リディア、アネリーゼ。パンとチーズと干し果物。いつもの昼食。
アネリーゼは最初、戸惑っていた。大食堂ではなく、冷たい石段で食事する習慣に。だがリディアが無言でチーズを差し出した瞬間、受け入れた。
「リディアさま。お元気でしたか」
「ええ。あなたこそ。神殿の修行は厳しいと聞いたけれど」
「厳しかったです。毎日朝四時に起きて、日が暮れるまで祈りと術の練習を。でも——」
アネリーゼの目が柔らかくなった。
「——治せるようになることが、こんなに嬉しいことだとは思いませんでした」
治す喜び。セレスティアはあの日を思い出した。コンラートの唇の傷を、光魔力で少しだけ癒した時の感覚。あの時の温かさ。
「アネリーゼさま。神殿で——何か聞いた話はある?」
「聞いた話、ですか」
セレスティアは慎重に言葉を選んだ。直接的には聞かない。
「うん。何でもいいの。神殿のこと、王都のこと、気になったこと」
アネリーゼは首を傾げた。
「そういえば——修行中に、先輩の神官さまが話していたことがあります」
「なに?」
「最近、王宮からの祈祷依頼が増えているそうです。国王陛下のご快癒を願う祈祷。以前は年に一度だったのが、この半年で三回」
セレスティアの指先が冷たくなった。
年に一度が半年で三回。祈祷の頻度が三倍になっている。
「それと、大神官シルヴェストルさまが、最近よく王宮に出入りしているって」
「ありがとう、アネリーゼさま。大事な話だった」
「え? そんなに大事なことでしたか?」
「うん。でも——今は気にしないで。それより、修行の話もっと聞かせて」
アネリーゼの顔が明るくなった。
「治癒の術には三段階あるんです。第一段階は傷を塞ぐ。これはもうできます。第二段階は病を癒す。これは——まだ難しいです。病の根っこを見つけないと治せないので」
「病の根っこ?」
「はい。傷は表面にあるから見えます。でも病は身体の奥にある。目に見えない場所を探って、原因を特定して、それを光の力で溶かす。先輩の神官さまでも、できる方は少ないそうです」
「第三段階は?」
アネリーゼの声が静かになった。
「心の傷を癒す。——と、教本には書いてあります。でも……心の傷を治せた治癒師は、歴史上でも数えるほどだそうです」
心の傷。
セレスティアの首筋が痛んだ。無意識に手を当てた。前世の刃の記憶。処刑の傷。
リディアがセレスティアを見た。首を押さえる癖に気づいている。だが何も言わなかった。
「アネリーゼさま。第三段階——心の傷の治癒は、光魔力で?」
「はい。でも普通の光魔力では届きません。もっと深い光が必要だと。聖女マリエルは第三段階の使い手だったと伝えられています」
聖女マリエル。五百年前の聖魔力保有者。グレーテルも、オスヴァルトも、その名を口にした。
聖魔力による心の治癒。
もしそれが可能なら——自分自身の前世のトラウマも。アレクシスの歪められた心も。ヴィオレッタの父への恐怖も。
治せるのだろうか。
「わたしも——いつかできるようになりたい」
アネリーゼが真剣な目でセレスティアを見た。
「セレスティアさまなら、きっとできます。だって——セレスティアさまの光は、わたしのとは違うんです」
「違う?」
「わたしの光は、ただ温かいだけです。あったかくて、柔らかくて、傷を塞ぐ光。でもセレスティアさまの光は——」
アネリーゼが言葉を探した。
「——深い。光の奥に、別の何かがある。影みたいなもの。でもそれは怖い影じゃなくて——深さ。井戸の底の水みたいな。暗いけど、冷たくはない。温かい闇」
温かい闇。
セレスティアの目が潤んだ。
「アネリーゼさま。ありがとう」
「え? わたし、何かしましたか?」
「うん。大事なことを教えてくれた」
アネリーゼが首を傾げた。リディアが小さく微笑んだ。
三人は石段でパンの残りを食べた。冬の日差しが壁から反射して、少しだけ温かい。
食べながら、アネリーゼがちらちらとリディアを見ていた。
「リディアさま——いつも、こうして食べているんですか?」
「冬はそうね。夏は日陰を探すけれど」
「寒くないですか」
「寒い。でも静かだから」
アネリーゼがその答えを真剣に受け取った。頷いた。
「分かります。神殿でも、朝一番の祈りの時間が好きでした。誰もいない回廊で、一人で祈っている時だけが——本当に静かで」
「神殿では何を祈っていたの」
「治せますように、と。力が育ちますように、と。——もう一つ」
アネリーゼが少し迷った。
「誰かが傷ついても、わたしがそこにいられますように、と」
リディアが静かにアネリーゼを見た。それから、パンを一口食べた。
「悪くない祈りね」
アネリーゼが嬉しそうに俯いた。
◇
放課後。
アネリーゼと別れた後、セレスティアはナターシャの部屋に向かった。
「ナターシャ。国王陛下の祈祷依頼が増えているって」
「アネリーゼ様から?」
「うん。半年で三回。大神官も王宮に出入りしている」
ナターシャの表情が引き締まった。
「お嬢様。実は——私の情報網でも、王宮の医務官の動きが慌ただしくなっているとの報告があります。薬の発注量が通常の五倍に。ニコラスが『触れない』と言った情報——国王の病状は、私たちが思っている以上に深刻かもしれません」
「公式発表は」
「いまだに『軽微なご不調』のまま。変更なし」
「フェリクスおにいさまには」
「今日中に届けます。兄君からも、王都の伝手を通じた情報が来ているはずです。大神官と宰相の関係——宰相は大神官と表向きは良好ですが、王妃エレオノーラさまも神殿との独自のつながりを持っています。大神官の動きが、どちらの意向によるものかで——」
「次の一手が変わる」
「はい」
いずれにせよ、時間がない。
国王の病状が公になれば、摂政問題が一気に浮上する。宰相が摂政になれば全てが終わる。
その前に——手を打たなければ。
「おかあさまに手紙を書く。急いで」
セレスティアはペンを取った。母リリアーナ宛の手紙。暗号ではなく、娘としての手紙。
だが行間に——切迫した願いを込めて。
『おかあさまへ。
お元気ですか。学園は寒いけれど、お友達と石段でお昼を食べています。リディアさまとアネリーゼさまが一緒です。
王妃さまとのお手紙は続いていますか。王妃さまにお会いしたいです。いつか機会があれば。
おかあさまの花壇のラベンダー、今年はたくさん咲きますように。
セレスティアより
追伸。春が来る前に、一度帰省してもいいですか。おかあさまに相談したいことがあります』
手紙を封じた。ヴォルフ経由の密使便で送る。
窓の外に冬の月が出ていた。同じ月を、王宮の王妃も見ているだろうか。
アネリーゼの言葉が残っている。「温かい闇」。




