フェリクスの解答
フェリクスの書斎は、いつも散らかっている。
だが今日の散らかり方は、いつもと質が違った。机の上にヨハンの研究ノートが三冊開かれ、その隣にフェリクス自身のノートが五冊積まれ、壁に貼られた紙には魔力波形の図と数式がびっしりと書き込まれている。
狂気じみた研究の跡。学者が何かに取り憑かれた時の光景だ。
「待っていたよ、セレスティア」
フェリクスは眼鏡を外し、赤くなった目をこすった。徹夜明けだ。いや、二徹かもしれない。顔色が悪い。だが目だけが異様に輝いている。
「おにいさま。寝てないでしょう」
「寝たよ。昨日の昼に二時間」
「それは寝てないっていうの」
「まあ聞いてくれ。座りなさい。今から——僕が一年半かけて解読したものを見せる」
セレスティアは椅子に座った。フェリクスが壁の紙の前に立った。
「ヨハン先生の研究ノート。全六巻。二巻までは普通の学術記録だった。三巻から暗号化が始まる。四巻で暗号の層が二重になり、五巻で三重になった。そして六巻は——全ページが暗号。しかも各ページが異なる暗号鍵で書かれている」
「六巻が核心……」
「そう。六巻の最後の十二ページが、ヨハン先生の到達した最終結論だ。解読に一年半。何度も行き詰まった。だが——三日前に、最後の暗号鍵が解けた」
フェリクスの手が震えていた。徹夜の疲労ではない。興奮だ。
壁の紙を指差した。中央に大きな図が描かれている。
二つの波形。一つは白く、一つは黒い。光と闇の魔力波形。二つの波は異なる周期で振動している。
「これが通常の状態。光と闇がバラバラに振動している。周期が合わないから干渉し合い、不安定になる。暴走のリスクが常にある」
図の右側に、別の状態が描かれていた。二つの波形が完全に重なっている。白と黒が同じ周期で振動し、重なった部分が銀色に塗られている。
「これがヨハン先生の言う『同期状態』。光と闇の固有振動数が一致した時、二つの波形が完全に重なり、共鳴が起きる。この共鳴状態が——聖魔力の完全制御」
「固有振動数を一致させる……どうやって?」
「そこが核心だ」
フェリクスが別の紙を指した。人体の図。心臓の位置に赤い丸が描かれている。
「ヨハン先生の最終結論。固有振動数の同期には、外部的なリズム——呼吸法や訓練——だけでは不十分。必要なのは、身体の内部に存在する天然のクロック信号」
「天然のクロック……」
「心臓だ」
フェリクスの目が真剣だった。
「人間の心臓は、一分間に六十回から八十回の鼓動を打つ。この鼓動のリズムは、全身の血流を通じて魔力の流れにも影響を与えている。ヨハン先生はこれを『生体魔力時計』と名付けた」
「グレーテルが教えてくれた三拍子の呼吸法——あれは心臓のリズムに近づくための手段だった。だが呼吸はあくまで近似値。本当の同期は、呼吸ではなく心拍そのものに魔力を乗せることで起きる」
セレスティアの心臓が速くなった。皮肉だ。心臓の話をしている時に、心臓が反応している。
「つまり——心臓の鼓動に、光と闇の振動を乗せる?」
「そう。心拍をメトロノームにして、光と闇を同時に振動させる。心臓が打つたびに、光が一回脈動し、闇が一回脈動する。同じタイミングで。同じリズムで。そうすれば固有振動数は自動的に一致する。心臓が止まらない限り、同期は崩れない」
「グレーテル先生の『感情と共に踊れ』——あれは感情が心拍を変えるからだ。恐怖で心拍が上がれば、魔力のリズムも上がる。だが上がっても同期が維持されていれば暴走しない。問題は心拍の速さじゃない。光と闇が同じ速さかどうかだ」
「リディアさまの『共存する』——あれも同じこと。光と闇を敵対させるのではなく、同じリズムで生かす。同じ心臓に乗せる」
「そしてオスヴァルトの共鳴理論。全ての師が、違う言葉で同じことを言っていた。ヨハン先生の最終結論は——」
フェリクスが六巻の最後のページを開いた。暗号を解読した文字が、フェリクスの手で余白に書き写されている。
ヨハンの遺言。
『聖魔力の制御は、技術ではない。心である。光も闇も、心臓から生まれる。同じ心臓から生まれた力が、対立するはずがない。対立するのは、心が分裂しているからだ。光の自分と闇の自分が、手を繋ぐことを拒んでいるからだ。手を繋げ。光も闇も、お前自身だ。心臓が証明している』
セレスティアの目から涙が落ちた。
ヨハン先生。五歳の時に、庭で魔力の基礎を教えてくれた穏やかな学者。あの人が生涯をかけて辿り着いた答えが——技術ではなく心だった。
◇
裏庭。
グレーテルの結界内。冬の朝。息が白い。
セレスティアは目を閉じた。
心臓の鼓動を感じる。とくん。とくん。とくん。
規則正しい。静かに。確実に。生まれてから一度も止まったことがない。
この鼓動に——乗せる。
光を。とくん。
闇を。とくん。
同じタイミング。同じリズム。心臓が打つ瞬間に、光が脈動し、闇が脈動する。
呼吸は三拍子。グレーテルのワルツ。だが意識の中心は呼吸ではなく、胸の奥の鼓動。
銀色の光が——灯った。
今までと違う。今までの銀色は「作り出す」ものだった。光と闇を意識的に混ぜ合わせて、努力して維持するもの。
今の銀色は——ただ在る。心臓が動いているから、在る。呼吸するように。血が巡るように。生きているから、光と闇が共鳴している。
十秒。三十秒。一分。
安定している。暴走の気配がない。疲労もない。力を「使っている」感覚がない。ただ——心臓が動いているだけ。
二分。
グレーテルが息を呑んだ。
「……何が起きているの」
フェリクスが壁の外から見ていた。
「固有周波数の同期。ヨハン先生の理論が——実証されている」
三分。
セレスティアは目を開けた。
銀色の光が両手を包んでいる。温かい。手袋のように。心臓が打つたびに、光が脈動する。とくん。とくん。
「……すごい」
「三分間。制御の意識なし。心拍同期型の聖魔力維持。これは——」
フェリクスの声が震えた。
「ヨハン先生。あなたの答えは正しかった」
グレーテルが歩み寄った。セレスティアの手を取り、脈を確かめた。
「心拍は七十二。安定している。魔力波形の乱れもない。完璧な同期状態」
「グレーテルせんせい。三拍子の呼吸は——」
「もう要らないかもしれないわね。あれは補助輪。本当のリズムは、あなたの心臓が知っていた」
補助輪が外れた。自転車が走り出した。
セレスティアは手を閉じた。銀色が消えた。だが消した後も、胸の奥で光と闇が静かに共鳴し続けている感覚があった。
眠っている。だが——起きている。呼べばすぐに応じる。心臓が動いている限り。
「フェリクスおにいさま」
「うん」
「ヨハン先生に、ありがとうって伝えたい」
フェリクスが眼鏡を押し上げた。目が赤い。泣いているのではない。徹夜明けだからだ——そういうことにしておこう。
「ヨハン先生なら、きっとこう言うよ。『礼はいい。論文の共著者にしてくれ』って」
セレスティアは笑った。涙が残る顔で。
フェリクスも笑った。目が赤いまま。
グレーテルが咳払いをした。「……続きの訓練をしましょうか。感傷は後で」
「はい」「はい」
二人の声が重なった。
セレスティアは胸に手を当てた。心臓の音がした。とくん、とくん。変わらない音。




