リディアの魔術
石段の昼食は、いつの間にか二人の習慣になっていた。
礼拝堂の横手。冷たい石段。冬の日差しが壁に反射して、少しだけ温かい場所。セレスティアとリディアが隣に座り、パンとチーズと干し果物を分け合う。
今日はリディアの方から切り出した。
「あなた、最近変わったわね」
「変わった?」
「目が違う。以前は——隠している目だった。何かを見ていて、でもそれを出さないようにしている目。最近は——出そうとしている目」
「グレーテルせんせいの訓練のおかげかもしれない」
「魔力の家庭教師。公爵家が雇った人」
「うん」
リディアが黒い瞳でセレスティアを見た。
「あなたの魔力——光だけじゃないでしょう」
心臓が跳ねた。
リディアに聖魔力のことは話していない。だが——先日の実技試験で、リディアの目は鋭かった。黒い光が漏れた瞬間、何かに気づいた可能性がある。
「……リディアさまは、何を見たの」
「実技試験。あなたがルシアンの火球を防いだ時。盾の色が一瞬、銀色に光った。光属性の盾は白。銀色になるのは——南方の文献に記述がある。光と闇の共鳴現象」
「リディアさま——聖魔力のこと、知ってるの」
「知識としては。アルカディアでは、光と闇の共鳴は『大地の歌』と呼ばれていた。特別なものだけど、恐れるものではなかった。この国では違うみたいだけど」
「わたし——聖魔力を持ってる。光と闇の両方」
言った。リディアになら——言えた。
リディアの目が見開かれた。だがすぐに落ち着いた。驚いたのは一瞬で、次の瞬間には思考に切り替わっている。
「そう。だからグレーテルという教師を雇ったのね。制御を学ぶために」
「うん。でも——まだ不安定なの。光と闇のバランスが崩れると暴走しかける。グレーテル先生は三拍子の呼吸法を教えてくれた。感情と共に踊れって。オスヴァルト先生は固有周波数の理論を。フェリクスおにいさまはヨハン先生の遺した研究を解読してる。でも——」
「でも、まだ足りない」
「うん。理論は理解できる。身体の訓練も進んでる。でも——何かが足りない。魔力が『従う』感じじゃなくて、『無理やり押さえ込んでる』感じがする」
リディアが石段から立ち上がった。
「見せてあげる。南方の魔術」
◇
礼拝堂の裏。高い壁に囲まれた小さな空間。冬枯れの蔦が壁を覆い、地面には苔が生えている。人目につかない場所。
リディアが両手を前に出した。
「南方魔術は、この国の魔術とは根本的に違う。あなたたちの魔術は——力を身体の内側から外に放つ。自分の魔力を武器にする」
「そうだね」
「南方魔術は逆。力を外から受け取る。大地から、水から、風から、光から。世界に満ちている力を——借りる」
リディアの手のひらに、緑と金が混ざった淡い光が灯った。実技試験で見た、あの不思議な光。
「これは私の魔力じゃない。この壁の蔦から借りている。蔦が持っている生命力——南方ではそれを『精気』と呼ぶ——を、手のひらに招いている」
蔦の生命力。植物から力を借りる。
リディアが手のひらを壁に向けた。緑と金の光が壁を撫でた。
枯れていた蔦の先端から、小さな芽が出た。冬の寒さの中で、新しい葉が一枚、開いた。
「……すごい」
「すごくないわ。蔦が自分で芽を出したの。私は少しだけ背中を押しただけ。力を支配するんじゃなく——促す。共存する」
セレスティアの胸の中で、何かが動いた。
「リディアさま。わたしにも——教えてくれる?」
「教えるというより——一緒にやってみましょう。あなたの魔力を見せて」
セレスティアは両手を前に出した。
右手に光。左手に闇。
いつもの展開。三拍子の呼吸で、光と闇を同時に保持する。グレーテルの訓練で、走行状態でも二十秒以上維持できるようになっていた。
リディアが目を細めた。
「……綺麗。白と黒が隣り合っている。でも——確かに、押さえ込んでいる感じがするわね。光が闇を、闇が光を、互いに牽制し合っている。敵同士みたい」
敵同士。
その言葉がセレスティアの核心を突いた。
そうだ。光と闇を「共鳴させる」と言いながら、心の奥底では——闇を恐れている。闇は暴走する。闇は処刑の記憶に繋がる。闇は敵だ。
だから光で闇を押さえ込む。闇で光を制限する。互いが互いを監視する構図。共鳴ではなく——冷戦。
「あなたの闇は、あなたの敵じゃないわ」
リディアが静かに言った。
「闇は——あなたの一部でしょう。あなたの中にある力。それを敵だと思っている限り、共鳴は起きない」
「でも——闇は暴走する。前に——」
前世の記憶。十歳の暴走。
「暴走したのは、闇が暴れたからじゃない。あなたが闇を拒絶したから、闇が居場所を失って溢れたのよ」
リディアの言葉が、氷の刃のように正確にセレスティアの心を切った。
「南方の考え方を教えるわ。魔力を——自分の中のもう一人の自分だと思いなさい。光のあなたと、闇のあなた。二人が手を繋いでいる。手を繋いでいる限り、どちらも暴走しない。片方を拒絶して手を離したら——離された方が暴れる」
手を繋ぐ。光と闇が。
「やってみて。闇を、恐れないで。闇に——話しかけて」
セレスティアは目を閉じた。
心の中の湖。いつも闇を沈めている場所。湖の底に、黒い靄が渦巻いている。
いつもはそこに蓋をする。重い石を載せて、闇が浮かんでこないようにする。
今日は——蓋を開ける。
怖い。
闇が浮上してくる。黒い靄が水面に向かって昇ってくる。心臓が速くなる。恐怖が——。
「恐れないで。話しかけて。あなたの闇に」
リディアの声が遠くに聞こえる。
闇が水面に達した。黒い靄がセレスティアの心の全域に広がった。
——怖い。
でも。
(おまえは、わたしだ)
心の中で呟いた。
(おまえは、わたしの一部だ。敵じゃない。わたしの闇。わたしの影。わたしが怖がっていた、もうひとりのわたし)
闇が——揺れた。
暴走ではない。震えた。まるで——怯えている子供のように。
ずっと湖の底に閉じ込められていた闇が、初めて声をかけられて、震えている。
セレスティアは心の中で手を伸ばした。闇に向かって。
触れた。
冷たかった。だが——手を握り返してきた。
光と闇が、手を繋いだ。
瞬間——両手の魔力が変わった。
白と黒が混ざり合い、銀色の光が生まれた。いつもの「一瞬だけ」ではない。安定した銀。脈動するリズムは三拍子。グレーテルが教えたワルツのリズムに乗って、光と闇が——踊っている。
共鳴。
本物の共鳴。
「……」
リディアが息を呑んだ。
銀色の光が礼拝堂の裏を照らした。壁の蔦が揺れた。苔が淡く発光した。大地の精気が——応えている。セレスティアの聖魔力に、世界が共鳴している。
十秒。二十秒。三十秒。
安定している。暴走の兆候がない。光と闇のバランスが——五十対五十。グレーテルが理想と言った完璧な比率。
四十秒で、セレスティアは手を閉じた。限界ではなかった。閉じようと思って閉じた。制御の意志で、光と闇を同時にしまった。
「……四十秒」
リディアが呟いた。
「走行じゃなく静止だけど。でも——前と全然違う。何これ」
セレスティアは自分の手を見た。指が震えている。だが恐怖の震えではない。感動の震えだ。
「リディアさま。ありがとう」
「私は何もしてないわ。教えただけ。やったのはあなた」
「教えてくれなかったら、できなかった。わたしはずっと——闇を敵だと思ってた。恐れてた。それが間違いだったんだ」
闇は敵ではない。闇はもうひとりの自分。
「リディアさま」
「何」
「わたしたち——似てるね」
リディアが首を傾げた。
「国を奪われた姫と、力を恐れる令嬢が?」
「ううん。自分の中の何かと、戦うのをやめた人同士」
リディアが目を見開いた。それから——笑った。
初めて見る、本当の笑顔。亡国の姫の、太陽ではなく月のような、静かで深い笑顔。
「……変な子ね、あなた」
「よく言われる」
「褒めてるのよ」
二人は石段に戻った。冬の日差し。冷たい石。温かいパン。
隣に座って、黙ってパンを食べた。言葉はいらなかった。
石段の上で、ラベンダーの匂いがした。フリーデリケがセレスティアの鞄に入れてくれた乾燥花だ。




