財務卿の弱み
匿名告発文が投函されたのは、ヴィオレッタの四通目の報告書が宰相に届いてから三日後だった。
タイミングは完璧だった。四通目の報告——「セレスティアは夜中に魔力の暴走を起こしかけ、同室のヴィオレッタが目を覚ますほどだった」という偽情報が宰相の手元に届き、セレスティアへの警戒が最も緩んだ瞬間。
告発文は短かった。
「財務省特別会計に不審な支出あり。過去五年間の決算書類に矛盾がある。貴族院監査委員会による監査を求む。——王国を憂う者より」
筆跡は書写屋のものだ。封筒の紙質は王都の市場で大量に流通する安物。投函場所は王都中央の公共郵便局。三段階の匿名化。ナターシャの設計通り。
告発文は監査委員長のデスクに届いた。
監査委員長——ゲルハルト・フォン・ラインベルク男爵。六十八歳。貴族院の中で最も地味な役職に就いている老人だが、その地味さゆえに誰の派閥にも属していない。潔癖が取り柄の、退屈な男。
退屈な男が、最も厄介な仕事をする。告発があれば調査する。例外はない。それがゲルハルトの三十年間の流儀だ。
◇
告発文が届いてから四日後。
貴族院監査委員会が、財務省に対し帳簿の開示を要請した。
この情報は、ナターシャの貴族院内の情報源から即日もたらされた。
「監査委員会が動きました。帳簿の開示要請は正式な手続きです。財務省は拒否できません」
「財務卿カール・ヴェンデルの反応は」
「慌てています。財務省内部が急に忙しくなったとのこと。深夜まで灯りがついています」
慌てている。当然だ。帳簿を開示すれば不正が発覚する。隠蔽しようにも、監査委員会の要請は法的拘束力がある。拒否すれば「隠蔽の意図あり」と見なされ、事態はさらに悪化する。
カール・ヴェンデルには二つの選択肢がある。
一つは、帳簿を改竄して辻褄を合わせること。だが五年間の累計は巨額だ。数字の整合性を取るには時間がかかる。監査委員会は「速やかな開示」を求めている。
もう一つは——宰相に助けを求めること。
「カール・ヴェンデルは宰相に連絡を取るでしょう。というより、既に取っているはずです」
セレスティアは頷いた。
「宰相がどう動くかが、この一手の本当の目的です」
ナターシャが首を傾げた。
「本当の目的、ですか。財務卿の不正を暴くことが目的ではなく?」
「それも目的の一つ。でも——もっと大きな目的がある」
セレスティアは窓の外を見た。学園の塔が夕日に染まっている。
「宰相がカール・ヴェンデルを守るか、切り捨てるか。それを見たいの」
ナターシャの目が見開かれた。
「守れば、宰相は資金の不正に共犯であることを間接的に認める。政治的リスクを負ってでも財務卿を守る——それは二人の繋がりが深いことの証明」
「そう。でも宰相は合理的な男。共犯関係が露見するリスクを冒してまで、財務卿を守るとは思えない」
「では——切り捨てる」
「うん。宰相はカール・ヴェンデルを切り捨てる。『私は関与していない。財務卿が独断でやったことだ』と。手下を犠牲にして自分を守る」
ナターシャが唇を噛んだ。情報のプロとして、その冷酷さを理解している。
「切り捨てられたカール・ヴェンデルは——恨みを抱くでしょう」
「そう。忠実な部下が主人に裏切られた時、その怒りは想像以上に深い。カール・ヴェンデルは宰相の資金の流れを全て知っている。裏帳簿の数字も。闇の取引先も。全て」
「つまり——今回の告発は、財務卿を倒すためではなく」
「宰相の足元に亀裂を入れるため。今すぐではなくていい。亀裂は時間をかけて広がる。カール・ヴェンデルが切り捨てられ、恨みを抱き、いつか——こちら側に寝返る日が来る。その日のための種を蒔いているの」
ナターシャは深く息を吐いた。
「お嬢様。時々、お嬢様が本当に八歳なのか疑わしくなります」
「八歳だよ。でも——考える時間はたっぷりあったから」
◇
一週間後。
ナターシャの情報が入った。
「宰相が動きました」
「どう動いた」
「宰相府から財務省への連絡が途絶えています。昨日から。それまで毎日あった定時連絡が、完全に止まりました」
連絡の遮断。距離を取っている。宰相はカール・ヴェンデルを見捨てる準備をしている。
「もう一つ。宰相がゲルハルト監査委員長と個別に面会しています。内容は不明ですが——推測するに、『監査には全面的に協力する。宰相府は財務省の不正に関与していない』と伝えたのでしょう」
予測通りだ。宰相は共犯者を切り捨て、自分は潔白だと装う。
「カール・ヴェンデルの表情は——」
「青ざめています。貴族院の廊下で、壁にもたれて立ち尽くしている姿が目撃されたそうです」
青ざめた男。宰相に見捨てられつつあることに、気づき始めている。
セレスティアは目を閉じた。
その日のために、この男の名前を覚えておく。
◇
学園の授業中、セレスティアは窓の外をぼんやりと眺めていた。
政治の話ばかり考えていると、頭が詰まる。八歳の身体は、大人の思考を長時間維持できない。頭痛がする日が増えた。前世の記憶と今世の情報が交錯する時、こめかみが痛む。
「セレスティアさん、大丈夫?」
フリーデリケの声。隣の席から心配そうな顔が覗いている。
「うん。大丈夫」
「顔色が悪いよ。最近、あんまり寝てないんじゃない?」
「ちょっとだけ、ねむれない日があるの」
「お花のお茶、飲むといいよ。ラベンダーのやつ。わたしのお母様がいつも作ってくれるの。安眠にいいって」
ラベンダーの茶。花の香りで眠れるなら、どれだけ楽だろう。セレスティアの不眠は、花の茶では治らない種類のものだが。
「ありがとう、フリーデリケちゃん」
「放課後に、お庭のラベンダー摘みに行こうよ。まだ少し咲いてるはずだから」
「——うん。行こう」
花を摘みに行く。八歳の少女にふさわしい放課後。宰相の資金源を断つ作戦を考えた日の放課後に、友達と花を摘む。
だが——悪くない。花の香りは、確かに心を安らげる。
フリーデリケの横で、ラベンダーの薄紫の花を摘んでいると、こめかみの痛みが引いた。
この子は何も知らない。宰相のことも、聖魔力のことも、財務卿の横領のことも。知らないまま、ただ友達を心配して花を勧めてくれる。
それが——救いだった。
政治の世界にいると、全てが計算に見えてくる。全ての言葉の裏に意図があり、全ての笑顔の奥に打算がある。
フリーデリケにはそれがない。花は花。友達は友達。心配は心配。それ以上でもそれ以下でもない。
「ねえ、セレスティアさん。このラベンダー、枕の下に入れると夢見がいいんだって」
「夢見が?」
「うん。こわい夢を見なくなるって、お母様が言ってた」
こわい夢。首を斬られる夢。処刑の夢。
セレスティアはラベンダーを鼻に近づけた。甘い、穏やかな香り。
「……もらっていい?」
「もちろん! いっぱい摘もうよ」
フリーデリケが笑った。太陽のような笑顔。この笑顔を守りたいと、心の底から思った。
この子の笑顔を守りたい。
◇
寮室に戻った。
枕の下にラベンダーを入れた。甘い香りが鼻に届く。
ヴィオレッタが見ていた。
「何それ。ラベンダー?」
「フリーデリケちゃんがくれたの。安眠にいいって」
「……ふうん」
ヴィオレッタは何も言わなかった。だが消灯後、暗闇の中で声がした。
「私にも一本ちょうだい」
「いいよ」
ラベンダーを一本渡した。暗闘の中で指が触れた。
二つのベッドに、同じ花の香りが漂った。
その夜——セレスティアは処刑の夢を見なかった。
でも——朝は穏やかだった。




