二重スパイ
偽情報工作は、翌日から始まった。
ヴィオレッタの最初の報告書。父モンテヴェルデ侯爵宛。銀の封蝋で封をした手紙は、いつもと同じ定期便で送られた。
内容は三つ。
一つ目。「セレスティアの帰省は体調不良が理由。学年末の実技試験で魔力を使いすぎたらしい」——これは本当だ。実技試験後に帰省したのは事実。
二つ目。「公爵家が魔力の家庭教師を雇った。名前はグレーテル・シュタイン。元宮廷魔術師」——これも本当だ。グレーテルの存在は遠からず宰相の耳に入る。隠すより先に報告した方が、情報の信頼性が上がる。
三つ目。「セレスティアは魔力の制御に不安を抱えているようだ。実技試験後から微熱が続き、魔力が安定しないと同室者として感じている」——これが色だ。本当の情報に、観測者の「印象」として嘘を混ぜる。
事実ではなく印象。客観ではなく主観。だから嘘と証明できない。ヴィオレッタが「そう感じた」と言えば、それは報告として成立する。
ナターシャが報告書の写しを確認した。
「問題ありません。三つ目の記述は主観的な観察として自然です。宰相の情報分析官が読んでも、不審な点はないでしょう」
「ありがと、ナターシャ」
「いえ。——ヴィオレッタ様は大丈夫ですか」
「大丈夫。あの子は強いから」
◇
一方、グレーテルとの訓練は加速していた。
毎朝五時。裏庭の結界内。
セレスティアは学園に通いながら、週末ごとに公爵邸に戻って訓練を受けた。平日は学園でオスヴァルトの理論指導。週末は公爵邸でグレーテルの実戦訓練。
「三拍子の呼吸、安定してきたわね。走りながらでも十五秒維持できるようになった」
グレーテルが腕を組んで頷いた。二週間前は三秒だった。十五秒は五倍の進歩だ。
「でもまだ足りない。実戦では最低三十秒。理想は制限時間なし」
「制限時間なし……」
「呼吸するように聖魔力を使えるようになりなさい。意識しなくても光と闇が共鳴している状態。それが最終目標」
呼吸するように。意識せずに。
「今日は新しい訓練をする」
グレーテルが結界の中央に立った。右手を上げ、金色の光を灯した。
「私が攻撃する。あなたは防御しなさい。——聖魔力で」
「攻撃?」
「軽いものよ。あなたを傷つける気はない。だが——痛みはある。覚悟して」
グレーテルの右手から、金色の光弾が放たれた。
速い。ルシアンの火球より速い。だが威力は抑えている。「当たれば痛いが、怪我はしない」程度の出力。
セレスティアは反射的に光の盾を張った。
「聖魔力で、と言ったはずよ。光だけじゃなく、闇も使いなさい」
二発目が来た。光の盾で受ける。衝撃で二歩下がる。
「闇を出して。光と闇の盾。共鳴させなさい」
三発目。
右手に光。左手に闇。両方を前に出し——共鳴させる。
銀色の壁が一瞬だけ生まれた。金色の光弾が銀の壁に当たり、霧のように拡散した。
衝撃がない。光だけの盾では衝撃を受け止めるのが精一杯だったのに、聖魔力の盾は攻撃を「消滅」させた。
「……すごい」
セレスティアは自分の手を見た。
「光と闇の共鳴盾は、単属性の盾とは原理が違う。攻撃を『受け止める』のではなく、『相殺する』の。光が攻撃の表面を中和し、闇が攻撃の核を分解する。だから衝撃が残らない」
「これが聖魔力の防御の本質。五百年前の聖女マリエルは、この技術で戦場を支配した。彼女の前では、あらゆる魔術攻撃が無効化された」
「せんせいは、マリエルのこと——詳しいんですね」
グレーテルの目が一瞬翳った。
「……宮廷にいた頃、マリエルの残した文献を研究していたのよ。十年かけて。宮廷を辞めたのは政治に嫌気がさしたからだけど——もう一つ理由がある。マリエルの文献が、宰相の命令で封印されたの」
封印。
「聖魔力に関する研究は、宰相ヴィクトールの指示で十二年前に全て国家機密に指定された。私の研究も。オスヴァルトの論文も。ヨハンの遺稿も——表向きは」
宰相が聖魔力の研究を封じた。十二年前。セレスティアが生まれる四年前。
「宰相は——聖魔力を恐れているんですか」
「恐れている、というよりは——管理したいのよ。聖魔力の知識を独占することで、もし聖魔力保有者が現れた時に、自分だけがその力を理解し、制御——あるいは排除できるようにする。知識は権力よ。特に、危険な知識は」
「だから私が宮廷を辞めた時、研究ノートの大半は没収された。だけど——」
グレーテルが唇の端を上げた。初めて見る笑み。不敵な、挑戦的な笑み。
「全部は渡さなかったわ。大事なものは、頭の中に入っている。紙に書かなくても、身体が覚えている。マリエルの制御術は、文献ではなく実践で伝えるもの。没収できるものか」
「せんせいが公爵家に来てくれた理由——これですか」
「察しがいいわね。あなたに会った瞬間、分かった。マリエルの再来。私が十年かけて研究した聖魔力を、生きた人間の中に見た。研究者として——いいえ、それだけじゃない」
グレーテルが視線を落とした。自分の手を見ている。
「十年間の研究を、宰相に奪われた。悔しかった。あの男が知識を武器にするなら——私は知識を盾にする。あなたを教えることで」
「せんせい」
「なに」
「ありがとうございます。わたしに教えてくれて」
グレーテルは素っ気なく答えた。
「礼はいらない。強くなりなさい。それが一番の礼よ」
◇
三週間が経った。
ヴィオレッタの報告書は三通目になった。
一通目。グレーテルの存在と訓練開始。——本当。
二通目。セレスティアが訓練中に魔力暴走を起こしかけた。——本当。初日に全力解放した時のことだ。ただし、すぐに安定したことは書いていない。
三通目。セレスティアが「闇が怖い」と夜に呟いていた。——嘘。
三通目が、最初の本格的な偽情報だった。
「闇が怖い」。この一言で、宰相は何を読み取るか。
セレスティアが闇属性を自覚していること。そしてそれを制御できず、恐れていること。つまり——聖魔力は脅威ではなく、本人にとっても重荷であるということ。
「宰相の分析はこうなるでしょう」
ナターシャが整理した。
「セレスティアは聖魔力を持つが、制御できていない。暴走のリスクがある。公爵家は家庭教師を雇って対処しようとしているが、成果は出ていない。セレスティア自身も闇を恐れている。——つまり、急いで排除する必要はない。放置すれば自滅するかもしれない」
「そう。宰相は『待ち』を選ぶ。動く必要がないと判断する。その間に——」
「お嬢様はグレーテル様の訓練で実力をつける」
ヴィオレッタがペンを置いた。三通目の報告書の写しを確認し終えたところだ。
「この報告なら問題ないわ。お父様は疑わない。『闇が怖い』という言葉は、八歳の女の子として自然よ」
「ヴィオレッタさま。辛くない?」
「何が」
「お父様に嘘の報告を書くこと」
ヴィオレッタは一瞬黙った。それからペンを指で弾いた。くるくると回る。
「辛くないと言ったら嘘になるわ。でも——お父様に本当のことを書いても、お父様はそれを宰相に渡すだけ。私の報告を私のために読んでくれたことなんて、一度もない」
声は平坦だった。感情を排した声。だがその平坦さの中に、長年の痛みが圧縮されていた。
「だから——嘘を書くことに罪悪感はあるけど、絶望感はないわ。裏切ってるんじゃない。もともと向き合ってなかったものを、ようやく自分で選んでるだけ」
「ヴィオレッタさま。あのハンカチ、引き出しの報告書の下にしまってあるでしょう」
ヴィオレッタが硬直した。
「な、なんで知ってるのよ」
「同室だから。わたしもいろいろ見えちゃうの」
ヴィオレッタの顔が真っ赤になった。
「見ないでよ!」
「ごめんなさい。でも——うれしかった。捨てないでくれて」
ヴィオレッタは顔を背けた。耳まで赤い。
「……捨てるわけないでしょう。あれは——」
言いかけて、口を噤んだ。
「あれは?」
「なんでもない。忘れなさい」
なんでもないことにした。でも二人とも、なんでもなくないことを知っていた。
◇
四通目の報告書が送られた頃、宰相側に変化が現れた。
ナターシャの情報網が捉えた。
「宰相府から学園への監視要員が一名減っています。厨房に配置されていたリーゼという女性使用人が、先週付で異動になりました」
「セレスティアは脅威ではない」——そう判断し始めている。
偽情報が効いている。
セレスティアは窓の外を見た。秋が深まり、学園の木々が色づいている。
「ナターシャ。フェリクスおにいさまから手紙は」
「はい。昨日届いています」
フェリクスの手紙。暗号化された文面。解読すると——
「ヨハン先生の研究ノートの解読が進んでいます。固有周波数の安定化に関する記述の核心部分に到達しました。詳細は次回帰省時に」
セレスティアは拳を握った。




