ヴィオレッタの告白
第110話「ヴィオレッタの告白」
学園に戻った日の夜。
消灯まで一時間。寮室の窓から秋の夕暮れが差し込んでいる。橙色の光が二つのベッドを染めている。
ヴィオレッタは机に向かって手紙を書いていた。父への報告書だろう。ペンの走る音が規則的に続いている。
セレスティアは自分のベッドに座り、教科書を膝に開いていた。読んではいない。ヴィオレッタの背中を見ていた。
痩せた背中。制服の肩が少し余っている。食事の量が減っていることを、同室者として知っていた。最近、朝食のパンを半分残す日が増えた。
「ヴィオレッタさま」
「なに。今、書き物してるの」
「終わったら、すこし——おはなししたいことがあるの」
ペンが止まった。
「……何。改まって」
「大事なことだから」
ヴィオレッタは振り返った。琥珀の目が夕日に照らされて、赤く見える。
セレスティアの顔を見た。何かを探る目。スパイの目——ではなかった。不安の目だ。大事な話と言われて、何が来るか分からない怯えの目。
「……今でいいわ。手紙は後で書く」
ヴィオレッタが椅子ごとこちらを向いた。膝の上で手を組んでいる。防御姿勢。
セレスティアは教科書を閉じた。
「ヴィオレッタさま。わたし——知ってるの」
「何を」
「ヴィオレッタさまが、お父様から命令されていること」
空気が凍った。
ヴィオレッタの顔から血の気が引いた。指が膝の上で白くなった。
「わたしの情報を集めて、報告しなさいって言われてるでしょう。何をしているか、誰と話しているか、どんな手紙を書いているか」
声を平らに保った。責めるトーンではない。事実を述べるだけの声。
ヴィオレッタの唇が震えた。
「いつ——いつから」
「さいしょから」
最初から。入学した日から。同室になった瞬間から。
ヴィオレッタの目が見開かれた。瞳孔が広がっている。恐怖。暴露された恐怖。スパイが標的に正体を知られた——それは処刑宣告に等しい。
「……じゃあ——あなたが引き出しの中を整理したのは」
「うん。見られてもいいものだけ残した」
「あの日のハンカチも——水を持ってきたのも——全部——」
ヴィオレッタの声が震えた。全部計算だったのか。全部演技だったのか。スパイだと知っていて、手懐けるための——。
セレスティアは首を横に振った。
「ちがう。ちがうよ、ヴィオレッタさま」
「何が違うのよ!」
声が大きくなった。怒りが噴き出している。だが怒りの下に涙がある。
「スパイだって知ってて——優しくして——ハンカチまで——全部、利用するためでしょう! 公爵家の令嬢が侯爵家のスパイを手懐けるなんて、お父様と同じじゃない!」
お父様と同じ。
その言葉が——刺さった。
セレスティアの胸に、深く。
セレスティアは立ち上がった。椅子から降りて、床に足をつけた。ヴィオレッタの前に立った。
見上げる形になる。ヴィオレッタの方が背が高い。椅子に座っているヴィオレッタの方が、立っているセレスティアより目線が上だ。
それでもいい。見上げて話す。
「わたしがハンカチをわたしたのは、ヴィオレッタさまが泣いてたから。水を持っていったのは、ヴィオレッタさまがのどかわいてそうだったから。嫌がらせのこと報告しなかったのは、ヴィオレッタさまが傷つくのがいやだったから」
声が震えた。自分でも驚いた。八歳の声帯が、感情を抑えきれずに揺れている。
「スパイだって知ってても——ヴィオレッタさまはヴィオレッタさまだよ。わたしの同室で、わたしの花言葉の先生で、わたしを庇ってくれた人。それは——うそじゃない」
ヴィオレッタの目から涙が溢れた。
堰を切ったように。
「——っ」
声にならない嗚咽。両手で顔を覆った。肩が震えている。八歳の少女の、壊れそうな肩。
「もう嫌なの——」
手の隙間から、声が漏れた。
「お父様の言いなりも、宰相の道具も、スパイなんて——もう嫌。ヴィオレッタ・モンテヴェルデは、スパイなんかじゃないのに。でも逆らえない。逆らったら——家が潰される。お母様も弟も——」
セレスティアはヴィオレッタの手に触れた。そっと。指先だけ。
「ヴィオレッタさま。わたしに、ひとつ提案がある」
「提案……?」
涙で赤くなった目が、手の隙間からセレスティアを見た。
「お父様への報告、やめなくていい」
ヴィオレッタが息を呑んだ。
「報告はつづけて。でも——報告する内容を、わたしが一緒に考える」
「……どういう意味」
「偽の情報を流すの。わたしが『本当だと思わせたい嘘』を作る。ヴィオレッタさまはそれをお父様に報告する。お父様は宰相に伝える。宰相は嘘を信じる」
ヴィオレッタの涙が止まった。
驚きが涙を追い越した。
「偽情報を——スパイのまま——」
「二重スパイ。宰相派には今まで通りスパイのふりをして、実際にはわたしたちの味方として動く」
ヴィオレッタの目が変わった。涙の膜を通して、何かが光った。
「そうすれば——お父様に逆らわずに済む。報告を続けるから、家は安全。でも報告の中身は嘘。宰相は間違った情報で動く」
「ヴィオレッタさまは誰も裏切らなくていい。お父様にも逆らわない。でも——宰相に使われるのをやめる。自分の意思で、自分の選択で動く」
ヴィオレッタの唇が震えた。だが今度は泣くための震えではなかった。
「……それって——すごく危ないわよ。嘘がばれたら」
「ばれないようにする。わたしとナターシャで、報告内容を毎回チェックする。本当の情報に嘘を少しだけ混ぜるの。九割は本当。一割だけ嘘。そうすれば嘘は見破れない」
「九割本当で一割嘘……」
「侯爵家のやり方でしょう? ヴィオレッタさまなら分かるはず。嘘の混ぜ方」
ヴィオレッタが——笑った。
涙の跡が残る顔で。赤い目で。鼻声で。
でも笑った。
「あなたって——本当に変な子ね。八歳で二重スパイ工作なんて考えるの、どこの国の子供よ」
「変かな」
「変に決まってるでしょう。でも——」
ヴィオレッタが涙を拭った。素手で。乱暴に。
「でも——悪くないわ。宰相に騙されるよりは、自分で騙す方がずっとまし」
「ヴィオレッタさま。ひとつだけ約束して」
「何」
「もしつらくなったら——やめていい。無理しないで。わたしは、ヴィオレッタさまが安全でいることの方が大事だから」
ヴィオレッタが口を開きかけ、閉じた。また開いた。
「……あのハンカチ」
「え?」
「あの夜、あなたがくれたハンカチ。まだ返してない」
「返さなくていいよ」
「……なんで」
「だって、ヴィオレッタさまがもってたほうが、わたしうれしいから」
ヴィオレッタが目を逸らした。耳が赤い。
「……馬鹿じゃないの」
◇
消灯の鐘が鳴った。
二人はそれぞれのベッドに入った。いつもの位置。いつもの距離。
だが今夜は——何かが違った。
部屋の空気が軽い。ハンカチの夜から積み重なってきた嘘の壁が、一つ崩れた。全部ではない。まだ言えないことはたくさんある。前世のこと。聖魔力のこと。宰相との戦いの全貌。
でも一つの壁が崩れた。そこから風が吹き込んでいる。
「セレスティア」
暗闇の中のヴィオレッタの声。
「なに」
「偽情報の第一弾。何を流す?」
「グレーテル先生のこと。公爵家が魔力の家庭教師を雇ったこと。これは本当」
「本当の情報から始めるの?」
「うん。最初は本当のことだけ流す。信用を積み上げるの。嘘を混ぜるのは、三回目か四回目から」
「なるほど。最初に本当の情報を流して、『ヴィオレッタの報告は正確だ』と思わせる。信用ができてから、嘘を混ぜる」
「そう。で、グレーテル先生のことを報告する時に——一つだけ色をつけて」
「色?」
「『セレスティアは魔力の制御に苦しんでいるようだ。家庭教師を雇ったのは、暴走を恐れているからではないか』って」
沈黙。暗闘の中で、ヴィオレッタが考えている。
「弱く見せるのね。本当は強くなっているのに、弱いふりをする」
「うん」
「宰相が警戒を緩めるわね。『セレスティアは制御できていない。脅威ではない』と」
「そのあいだに、わたしは本当に強くなる。グレーテル先生のもとで」
長い沈黙があった。
「……あなたって、怖い子ね。時々」
「こわい?」
「八歳の女の子が、宰相を騙す作戦を考えてる。普通じゃないわ」
「ヴィオレッタさまだって、八歳で二重スパイをやろうとしてる」
「それもそうね」
暗闇の中で、二人とも笑った。
声を殺した笑い。共犯者の笑い。
「おやすみ、ヴィオレッタさま」
「おやすみ。——セレスティア」
「なに?」
「ありがとうとは言わないから」
「いわなくていいよ」
ヴィオレッタの寝息が聞こえ始めた。
セレスティアは天井を見つめていた。
セレスティアの目から涙が一筋流れた。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。




