新たな家庭教師
ヘルマンの調査報告が届いたのは、家族会議から八日目だった。
報告書は簡潔だった。
「グレーテル・シュタイン。四十四歳。元王宮魔術師団第三席。退職は十二年前。理由は『一身上の都合』と記録されているが、当時の同僚の証言では宮廷内の派閥抗争に嫌気がさしたとのこと。退職後は王都郊外の小さな屋敷に居住。年金と魔術道具の製作販売で生計を立てている。宰相派との接触記録なし。家族なし。弟子なし。近隣住民の評判は『偏屈だが悪い人ではない』」
偏屈。
セレスティアはその一語に目を留めた。
「問題なし」
公爵がヘルマンの報告書を閉じた。翌日、公爵自ら招聘の手紙を出した。
返事が来たのは三日後。便箋一枚に、五文字だけ。
「条件による」
◇
グレーテル・シュタインが公爵邸の門をくぐったのは、その翌週のことだった。
セレスティアは書斎で待っていた。父が同席している。ヘルマンが扉を開けた。
入ってきた女性を見た瞬間、セレスティアの背筋が伸びた。
四十四歳。だが実際の印象はもっと若い。長い赤銅色の髪を無造作に束ね、黒い長衣を纏っている。身長は高く、骨格がしっかりしている。農婦のような手。戦う者の手だ。
目が——鋭い。鷹の目。だが鷹のような冷酷さではなく、鷹のような正確さだ。見るべきものだけを見る目。
「グレーテル・シュタイン殿。ようこそ」
公爵が立ち上がって迎えた。公爵が自ら立って来客を迎えるのは珍しい。
「ライナルト公爵。十二年ぶりですか」
低い声。女性としては低い。だが不快ではない。焚き火の前で聞く声のような、温かみのある低音。
「宮廷の送別会以来です。あの時は——」
「酔っ払って王宮の噴水に飛び込んだ夜ですね。私が引き上げたんですよ」
公爵の目が一瞬動いた。娘の前でその話をするのか、という表情。グレーテルは気にしていない。
セレスティアは小さく笑いそうになった。父にもそんな過去がある。
「紹介しよう。末娘のセレスティアだ」
「この子ね」
グレーテルがセレスティアの前に来た。しゃがまなかった。見下ろしている。百七十センチ以上の長身から、八歳の少女を見下ろす。
その目が——変わった。
鷹の目が、さらに鋭くなった。何かを見ている。セレスティアの体表ではなく、その奥——魔力の核を透視するかのように。
五秒。十秒。沈黙が続いた。
「…………」
グレーテルが目を閉じた。ゆっくりと。それから開けた。
「公爵。条件が変わりました」
「聞こう」
「報酬は要りません。この子を教えさせてください」
公爵の眉が動いた。報酬不要。予想外の申し出だ。
「理由を伺ってもいいか」
「この子の中に、私が四十四年間探していたものがあります」
グレーテルの目が光っていた。学者の目ではない。職人の目だ。最高の素材を見つけた鍛冶師。最高の原石を見つけた宝石職人。
「……分かった。だが公爵家として、報酬なしという訳にはいかない。住居と生活費は保障する。それが条件だ」
「結構。屋敷の離れでも貸してもらえれば十分です」
話が決まった。あまりに速かった。
◇
翌日から訓練が始まった。
場所は公爵邸の裏庭。広い芝生の空間に、グレーテルが一晩で防護結界を敷いた。オスヴァルトの研究室の結界とは比較にならない規模と強度。
「まず見せなさい。全力を」
グレーテルの第一声。
セレスティアは戸惑った。オスヴァルトとの訓練では、慎重に段階を踏んだ。まず光だけ。次に闇だけ。それから同時展開。少しずつ、少しずつ。
グレーテルは違った。いきなり「全力」を求めた。
「あの……全力というのは——」
「聖魔力。光と闇の両方。全開放。遠慮なく」
「グレーテルせんせい。わたしの魔力のこと——」
「聖魔力ね。知ってるわよ」
あっさり言った。まるで天気の話をするように。
「あなたを見た瞬間に分かった。魔力の波動が、光と闇の二重共鳴パターンを示している。オスヴァルトの論文で読んだことがある。そしてヨハンの研究——あの男が生涯をかけて追い続けた聖魔力の理論。あなたはその理論の生きた実証」
「隠しても無駄。私の前では全てさらけ出しなさい。隠れた力を教えることはできない」
セレスティアは深呼吸をした。
オスヴァルトとの訓練では、研究室の結界の限界があった。全力を出せば結界が持たない。だからいつも七割、八割に抑えていた。
ここには結界がある。グレーテルの結界は——。
「結界の強度は?」
「あなたの全力の三倍は耐える。心配しないで」
三倍。オスヴァルトの結界の十倍以上。
セレスティアは両手を前に出した。
右手に光。左手に闇。
光が白く輝く。闇が黒く渦巻く。
同時に解放した。制御の枷を外す。湖の底に沈めていた闇を、全て浮上させる。
光と闇が共鳴した。
銀色の光が生まれた。セレスティアの両手の間で、白と黒が混ざり合い、第三の色——銀の輝きが拡がる。
聖魔力の全力解放。
風が吹いた。芝が波打ち、結界が軋んだ。空気が震えた。
グレーテルは微動だにしなかった。
銀色の光の中に立ち、目を細め、何かを計測するように首を傾けている。
「……なるほど」
呟いた。
「出力は十分。だが制御が荒い。光と闇の共鳴比率が、五十五対四十五になっている。理想は五十対五十。このわずかな偏りが、暴走リスクの原因ね」
「もう一つ。共鳴のリズムが不安定。波が打つように強弱がある。心臓の鼓動に引きずられている」
「心臓が速くなれば魔力も荒れる。恐怖で心拍が上がれば、闇が暴れる。歓喜で心拍が上がれば、光が溢れる。あなたの魔力は——心そのもの」
心そのもの。
「制御法は?」
セレスティアが聞いた。焦りが声に出た。
「二つある。一つは呼吸法の改良。オスヴァルトに教わった四秒吸って五秒吐く方法——悪くないけど、あなたには合わない。あなたの固有リズムは四拍ではなく三拍」
「三拍?」
「吸って、止めて、吐く。三拍子。ワルツのリズムよ。あなたの魔力は三拍子で最も安定する。身体の作りがそうなっている」
三拍子。ワルツ。
「もう一つは——」
グレーテルが右手を上げた。手のひらに淡い金色の光が灯った。
「感情を殺すのではなく、感情を魔力の燃料にする方法。恐怖を闇に、歓喜を光に、怒りを推進力に変える。感情が波立つなら、その波に乗る。抑え込むのではなく——」
金色の光が脈動した。グレーテルの手の中で、光が心臓のように鼓動している。
「——共に踊る」
セレスティアの目が見開かれた。
「簡単ではないわ。何ヶ月もかかる。だが——あなたならできる」
「どうしてそう思うんですか」
「あなたの目。恐怖を知っている目よ。本当の恐怖を知らない人間には、恐怖と踊ることはできない。知っているからこそ、踊れる」
グレーテルの目が——一瞬だけ、遠くなった。
「せんせいも——おどれるんですか。こわいものと」
グレーテルは答えなかった。代わりに、右手の金色の光を消して言った。
「明日から毎朝五時。遅刻したら水をかける。覚悟しなさい」
◇
初日。
朝五時。裏庭。秋の空気が冷たい。吐く息が白い。
グレーテルは既に立っていた。黒い長衣。赤銅色の髪が朝露で湿っている。夜明け前から準備していたらしい。
「遅刻はしていないわね。よろしい」
「おはようございます、せんせい」
「挨拶は後。まず走りなさい」
「……走る?」
「裏庭を十周。走りながら三拍子の呼吸を覚えなさい。身体に叩き込む」
走った。八歳の足で。裏庭は広い。一周するだけで息が切れる。
「一、二、三。一、二、三。足のリズムに合わせて。吸って、止めて、吐く」
三拍子。ワルツのリズム。走りながら呼吸を合わせる。最初は滅茶苦茶だった。足と呼吸がばらばらになる。
「もう一度。最初から」
十周が終わった時、膝が笑っていた。額から汗が滴る。秋の朝なのに、身体は燃えるように熱い。
「休憩五分。それから魔力展開」
五分。短い。だがグレーテルの訓練に文句を言う余裕はなかった。
魔力展開。光を出す。闇を出す。
「三拍子で。走った時のリズムを魔力に乗せなさい」
走った時の三拍子。呼吸のリズムを、魔力の制御に転用する。身体で覚えたリズムを、そのまま魔力に移す。
光が灯った。揺れている。
「リズムが乱れている。もう一度」
乱れる。やり直す。乱れる。やり直す。
三十分で十五回失敗した。
グレーテルは一度も苛立たなかった。「もう一度」。同じ声。同じトーン。同じ正確さで。
十六回目。
光が——安定した。三拍子のリズムに乗って、脈動が規則正しくなった。ほんの三秒だけ。だが確かに、光が踊った。
「……それ」
グレーテルが初めて声を変えた。低い声に、微かな熱が混じった。
「今のリズム。覚えておきなさい。あなたの固有周波数に最も近い波動だった」
「明日も五時。今度は走りながらやりなさい」
「はい、せんせい」
「……グレーテルでいいわよ。先生と呼ばれるのは好きじゃない」
「でも——」
「呼び方なんてどうでもいい。大事なのはリズム。さあ、もう一度走りなさい」
セレスティアは走り出した。秋の朝の冷たい空気を切って。三拍子のリズムで。
身体が軽い。疲労はある。だが——何かが変わり始めている。
◇
訓練後。
公爵邸の食堂で朝食を摂った。グレーテルは離れの自室に戻り、セレスティアとナターシャが二人きりになった。
「お嬢様。グレーテル様の訓練は——厳しいですか」
「うん。でも——すごくわかりやすい」
「ナターシャ。学園に戻ったら、ヴィオレッタさまに——」
「はい。先日おっしゃっていた件ですね」
ナターシャの目が鋭くなった。
「ヴィオレッタさまへの接触。時期を見て、ですか。それとも——」
「帰ったらすぐに。もう待てない」
セレスティアはパンを手に取った。温かいパン。バターの匂い。
「グレーテル先生の訓練で、わたしは強くなれる。でも——強くなるだけじゃ足りない。味方が要る。わたしが信じられる味方が」
「ナターシャ。わたしはヴィオレッタさまに、全部話す。スパイだと知っていたこと。知っていて放置していたこと。そして——あの子に、自分で選んでほしいということ」
ナターシャは黙って頷いた。
「お嬢様の御判断に従います」
セレスティアはパンを口に運んだ。温かい。グレーテルの訓練で冷えた身体に、じんわりと熱が広がる。




